2008年09月30日

小説『親鸞と真佛』(3)

 件の白塀に沿って少し東に行ったところで、小さな庵らしきものがある。門もさほど立派というものではないが、何らかの宗派の僧侶の庵ではないかと思われる。門の中をのぞくと広くはない前庭があり、その奥に庵がある。秋もまだ深まってはいないこの時期だからか、庵の障子は開け放たれている。
 そこには二人の僧侶だろうか、なんとも薄汚れた袈裟のようなものを身につけた人が真剣に話し込んでいる。一人は八十代、もう一人は四十代と思われるが、私の生きる世界とは年齢の見方が違うかもしれないのだが、そんな感じがする二人だ。
 二人は、文机を挟んで相対し、真剣な顔を向け合っている。とはいえ、雰囲気はかなり和やかなものだ。歳を召している人の顔がなんとなく笑っているようにも見えなくはない。真剣さの中に温かく若い人に向かって人生を語っているようにすら見える。

 歳を召している人の顔にどことなく見覚えがあるように思う。和やかとはいえ、鋭いまなざし、ちょっと険のある顔つき。本願寺などの御影堂にある親鸞の像によく似ている。特に、あの下野(栃木県二宮町)高田の専修寺で拝謁した親鸞像だ。
 ん? ひょっとして、わたしは鎌倉時代の京都にタイムスリップしたということなのか?目の前にいるのが、あの親鸞と・・・
 目の前にいる歳を召した人が親鸞。どうも紛れもなくそんな印象だ。話す声も一度コンピュータが作り出した親鸞の声を聞いたことがあるが、それに近いものがある。
 今、目の前にいる人の一人が親鸞なら、もう一人はいったい誰なのか。私は、大いに興味をそそられた。いったい彼らは真剣に、それでいて楽しそうにいったい何を話しているというのか。

 町の中の人たちがそうであったように、ここの二人も私のことは目に入らないようだ。彼らのもとに近づいても、彼らは一向に私のほうを見る気配はない。まあ、いうなれば私は透明人間状態なのだろう。


第2回 <= 第3回 => 第4回




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 ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
 また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
 そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
 
 WEB公開していますが、著作権は放棄していません。
  
タグ :親鸞小説

Posted by 生田 at 19:00Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2008年09月30日

怒・社会保険事務所で

 父親がなくなって12日。役所にいろいろ届けを出さねばならない、そのひとつが年金の打ち切りのために社会保険事務所に届けを出しに行かねばならない。

 3時前後の時間、入ってから1時間待たされた。待たねばならない理由が、窓口が全部開いていないから。5箇所の窓口があるにもかかわらず、あいているのが2箇所。10数人が待っているというのに、40分くらい待っても増える様子はない。そこでクレームを入れてみた。
 別に呼び出したわけでもないのに、総務課長とか言うのができて(すぐ出てくる時間があるのならなら先に窓口対応しろよ)、言葉では申し訳ないというが、顔はまったくの無表情で、逆に『なに言ってんだ』という顔である。『舛添さんは待たせないといっているだろう?』と突っ込みを入れると、『お相手できる人間がいない』という。嘘つけ、中でのんびりと歩いているのが数人いるじゃないか。それにカウンターの外で、何やら話込んでいるのがいるやないか。
 大体が、込み合うのは、社保庁のいい加減さのお陰でいろいろ調査、相談がたまったからだろが。あなたたちは、寝食を忘れて仕事をせんといかんのよ。のんびりしている時間はないのやで。
 そんな気持ちはさらさらない課長でした。

 それでも3時という時間に『食事に出ている』なんて、完全に時間のずれている変な言い訳をしたから『さっさと呼び戻して対応しろよ』というと、3人出てきたよぉ。クレームを受けて、出てこれるんだったらさっさと出てきていたらこんなことにはならないだろうに。

 皆さん、社会保険事務所に行って、たくさんの人が待ち、窓口に担当官がいないときは、しかりつけましょう。馬鹿にした態度をとったら、どこかの国会議員の事務所に電話をして、厚労相からしかりつけてもらうようにしましょう。
 あれだけたたかれても懲りない連中ですが、少しは効き目があるかもしれません。
 今日は、しかりつけてからは、待ち時間は半分になったと思いますよ。

 私のところの所要時間は10分くらいだったでしょうか・・・  

Posted by 生田 at 18:14Comments(5)TrackBack(0)社会性

2008年09月30日

今日も雨そして寒くて

 秋雨前線が少し南の海上に居座っている。そして台風が近づいてきている。
そんなことが原因しているのか、雨。
 秋雨前線が下がっているということは、北の冷たい空気が下りてきているわけだし、雨の日が続いていることから、寒い、寒い。昨日はどこか近くの山で雪が降ったとか。
 寒くて、ストーブがほしい。9月にストーブがほしいなんて、北海道並みだよ。

 今、ひざ掛けをしてPCに向かってます。  
タグ :寒い

Posted by 生田 at 11:01Comments(0)TrackBack(0)今日の日

2008年09月30日

米国・破綻金融の買収と支援

 ここのところ米国の金融機関の破綻が続いている。他国のことといえ、影響をもろにかぶる日本だが、その破綻した金融機関を日本の銀行、金融機関が買収したり、資金援助で多額の金を拠出している。

 この資金の出所は?預金金利をものすごく定率に抑えているから、銀行などに金が浮いて生きているからでしょう?それにバブル崩壊の際に破綻しかけたときに公的資金援助を受けたからでしょう?みんな私たちのお金やないですか。
 
 ほかの国の破綻したものを支援する金があるんやったら、預金金利を上げてくれぇ~~~~~  

Posted by 生田 at 00:00Comments(0)TrackBack(0)社会性

2008年09月29日

萩津和野殺人事件

 今29日夜9時40分 TVで、内田康夫の『萩津和野殺人事件』(沢村一樹=浅見光彦)をやっている。


 ちょうど津和野のところだが、太鼓谷稲荷が出てきている。これは数年前に行ってきたところ。そして、上の写真は、稲荷の反対側の山にある鳥居で、私が初夢で見たものと・・・

 旅行の案内などでも、「萩・津和野」とセットになっていることが多いけど、もしくるまでお行きになるんでしたら、気をつけたほうがいいですよ。萩は山口県。津和野は島根県と件が違うし、交通の便も違う。萩から津和野へ行くには山道をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしなければならないのです。

 ドラマは、これから マリア堂などが出てくるはず・・・
 一度は行ったことがあるところが、こうしてドラマなどに出てくると、懐かしいものですね。


***
初夢のあの大鳥居はばっちり出てきたけど、
マリア堂 出てきませんでしたねぇ。。。。
尼僧が出てきたのにねぇ。
小説の筋の記憶違いかな??

  

Posted by 生田 at 22:04Comments(0)TrackBack(0)TVなど

2008年09月29日

小説『親鸞と真佛』(2)

とある日、私は三条通のまだ町家がたくさん残る西洞院から京都の繁華街河原町通に向かって歩いていた。肌を気持ちよい乾いた風がなでていく秋口の午後のことだ。京都の中央のメインストリート烏丸通りを少し過ぎて東洞院通りのあたりからなんとなく周りが薄暗くなってきた。曇ってきたというわけではない。空は青く晴れているというのに、町並みがだんだん灰色になっていくのだ。まるで薄暮の感じだが、それだけでなくだんだん周りの町並みが、その薄暮の中に消えていくのだ。あの三条高倉の文化博物館の赤いレンガの建物も消えていく。
三条通は、現代の京都の通の中で数少ない平安京のときの条通の名残の道で、東から西に立派に通り抜けている。戦争で焼かれなかったという京都は、結構時代的な建物を残しているが、三条通にはそうしたものが残されている。そんな建物が、今の私の目の前から消えていくのだ。といって原っぱになったわけではない、薄暮から霧の町の中にはいったといえばわかってもらえるだろうか。

どのくらいの時間がたったのだろう。霧の中といった状態の私の目の前に、また町並みが少しずつ現れてきた。霧が晴れ周りが見えてくる状況に近い。しかし、現れた風景は、見慣れた三条通の町並みではなく古い時代劇を見ているような町並み、いや現代で言うならばちょっとした寺の外塀といった感じの景色のように思われる。崩れてはいるが白塀だったと思われるちょっと長い塀がだんだん目の前にはっきりとしてきた。
私は、遠くまで歩いたというのではない。濃霧の中に紛れ込んだ状態で東と思われる方向に少し歩いたに過ぎないのだが。いったい私はどこに出たと言うのだろう。確かに京都の三条通を歩いているはずなのだが。今見る景色はこれまでの三条通では見たことがない。三条通で寺といって頭に浮かぶのは、はるか西の太秦の広隆寺くらいなのだが。
景色がはっきりとしてくると、歩いている人の姿も見えてくる。ああ、どうしたことか、まさか映画村のセットの中に紛れ込んだのだろうか。いや、どうもそうではないようだ。セットなら、それなりの雰囲気があろうというものだが、今目に入るものはそんな付け焼刃の景色ではない。どう見ても本物のようだ。
かなり時代がかった人たちが歩いている。人の流れは結構多いとは言うものの、現代よりは少ないかと思う。おおきな違いはせかせかと歩いていないということだ。まるで時の流れが三分の一くらいになったように、スローモーションの映画を見ているようでもある。
いったい私は、自分自身がどんな格好をしているのかと自分の服装を見たが、何にも変わってはいない。ごく当たり前の私の時代の服装だ。町を歩く人たちにはどう見えているのだろうかと思ったが、町を歩く人たちは私にはまったくの無関心、私は彼らには存在していないのだろうか。


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 ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
 また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
 そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
 
 WEB公開していますが、著作権は放棄していません。
  
タグ :親鸞小説

Posted by 生田 at 19:00Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2008年09月29日

雨の中の移動・往復

 朝から雨。昼ごろかな少しあがったようだけど、2時ごろからまた振り出して、夕方は結構な雨量ですね。そんな中をバスと電車で往復。

 朝は、またバスが遅くなって地下鉄一本後のに乗る。時間が遅い分乗客の顔が違う。学生風の乗客が多くなってきた。この近辺の大学は2期制で、9月の前半はまだ夏休みが多いようだ。月末になって授業開始になったのだろう (私の受講しているのは先週からだから同じだな)

 顔が変わっても、化粧をする人が毎度いるんだねぇ。。。 恥ずかしくないんだよな。

 帰りは、雨ということで普通は皆さんでかけないけど、私は逆にお出かけをした。といっても遠くへ出かけたのではなく、名駅近くを歩いただけ。
 あのねじれビルの地下。一見きれいだけど・・・・・・・ デザインの専門学校がある割には、なんか違うよなぁ。。と感じた。使い勝手の問題かな?それにバリアフリーではないような印象だった。
 ねじれビルから笹島の交差点をくぐって三井のほうに。外に出るとエスカレータがあるけど、交差点からは遠くなる。変なの。交差点に一番近いのがエレベータ。乗ってみた。誰も乗らない。だって、気づきにくそうだから。それに狭いし。

 広小路通を東に歩いていって、ちょっと用足し。このあたり昔と変わったなぁ。私の知るものは何もないや。ここ何十年と用のないところだったものな。
 柳橋の交差点から北に上がって国際センターへ。途中EIDENによってちょっと遊んで。
笹島中学がなくなっている。目下なにかの工事をしている。もうこの辺りは子供がいないのだろう。卒業生は寂しいだろうな。

 国際センターから地下鉄。5時を少し回った時間で、お勤め帰りがちらほら、まだどっと来る時間ではなさそう。でもキャリアお姉さんらしき人多かったな。(海の向こうで見たキャリアお姉さんとはかなり雰囲気違うけどね。ちょっと時間たちがうかな?)

 地下鉄を降りたら、雨がちょっときつくなっていた。  
タグ :月曜日移動

Posted by 生田 at 18:38Comments(0)TrackBack(0)今日の日

2008年09月29日

労働組合という組織

 中山国土交通相の辞任の最終的な原因が『日教組をつぶす』ということなのだろう。

 全部が全の先生が、日教組に参加しているわけでもないだろうし、参加していても全面的に賛成ということでもないだろう。
 私は中学校から私学に行ってしまったので、公立の学校の教師の重いでは小学校だけになる。小学校のときの先生たちは、当時日教組に参加していたのだろうか?
 日教組というのは、後々知ることになった組織だが、結構イデオロギー闘争をしていたように思う。戦後の労働組合は、イデオロギー闘争が多かった。公立の先生という職業は、本来公務員として労働組合が認められなかったと記憶しているが、自治体の役人同様にミリやり組合を組織していたのかな?これは私の記憶違いなのかな?

 私は、就職して数年後に一時労働組合の役人にいた。ここで勉強をしたのだ。平の社員がなかなか勉強できないものが、組合にいることで勉強に行くことができたので、大いに利用させてもらったというところだ。そして労働組合の裏と、政治とのかかわりの裏も見せてもらった。
 もっとも、共産党系、社会党系ではなかったので、さほどの過激さはなかったが、政治との辛味では『いい加減なものだ』と実感したものだ。

 今でも、旧社系統系、共産党系の組合の延長にいるところでは、幹部が結構イデオロギーを表に出している印象だが、それは私の経験からすると建前に過ぎない人間が多いように思う。組合員のためを本当に思っているのかと、裏でどれだけ思ったことか。
 
 話を本題に戻そう。
 日教組というのは、教員の組合である。つかり先生という職業を持つ人の組合である。本来は、教育をいうものを真剣に考える立場にある人たちの集まりであるはずだ。しかし、組合の幹部は、教育の現場からかなり遠いのではないか?教育の本質を考えるのではなく、自分たちの立場だけ下考えていないように思われてしょうがないような、そんなイデオロギー闘争を延々としてきたように思う。
 最近は組織も弱くなったと聞くが、それでも幹部は建前として、イデオロギー闘争をしているように思えてならない。

 まぁ、こんなことは先生たちの組合だけではなく、自治体の役人の組合も、いかにサボタージュできる体制を勝ち取るかに腐心しているように思う。先日来書いた、区役所のテイタラクは、組合が勝ち取った、時間内労働の延長上にまだ乗っかっているのだ。公僕という気持ちはさらさらない。先生も同じ考えの人が多い。
 
 大昔、『デモシカ先生』というこ言葉があった。それはいまだに生きているのではないかと思う先生も結構見かける。

 先生は、もっと児童生徒のこと考え、役人は市民のことを心から考える組合つくりを考えてほしいもの。そうすれば『ぶっつぶす』なんて言葉は誰もはかなくなるだろう。  
タグ :大臣辞任

Posted by 生田 at 00:00Comments(2)TrackBack(0)社会性

2008年09月28日

小説『親鸞と真佛』(1)



小説 『親鸞と真佛』  
   
ここに示す書物は、村沢の資料・つまりは彼の残したコンピュータの中にある、親鸞に関する論文とは別のフォルダの中に残されていた。読んでみると、どうしても当然のように論文といえるものではなく、小説にするつもりでもあったのだろうか、ちょっとSFじみた書き方の書物である。
 この後の『私』は村沢自身を意味しているのだろうと思う。

『親鸞と真佛』
   なぜ『女犯偈』は書き残されたのか

・京都・三条通り

 私は、いつものように親鸞旧跡を訪ねるために京都の三条通を歩いていた。親鸞は還暦を過ぎてから長く住み慣れた稲田(茨城県笠間市) を離れ京に戻っている。その時どうしたことか、これまた長く連れ添った妻・恵信尼と離別して単身(もっとも末娘の覚信尼がついてきているようだが)でのことだ。
いったい何が彼をそう仕向けたのかは、いろいろ学説はあるものの、どれも多くの人を納得させるに値するものではないと思う。しかし、彼は京に帰った。そして晩年の三十年近い年月、親鸞九十年の人生の約三分の一を京で送ったのだ。
 その生活の場所がどこであったのかは、親鸞が関東集団に書き送った消息で一部を知ることはできるが、どうも一定の場所ではないように思われる。私の印象では京の街中、この三条通の西洞院から河原町の間と思われてならない。越後、下妻、稲田、あたりの生活はとても街中というところではなかっただろう。その反動として年老いた親鸞は、街中を晩年の生活の場としたように思えるのだ。
親鸞の生誕の場所が『善信聖人親鸞伝絵』(伝絵)などから日野(現在の山科区日野)とされているが、私は日野はあくまでも日野氏(藤原氏の傍系)の往年の別荘地でしかなく、実際には父親・日野有範の仕事(当時の皇太后の世話役)からいって生活の場は京都の市街、それもこの三条通ではなかったとさえ思っているのだ。だから、彼が晩年を生誕の場に戻ったとしても、何の不思議はないだろう。

 そんな思いから、私は時々、その親鸞の思いをたどるべく三条通を散策している。



第1回 => 第2回


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 ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
 また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
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タグ :親鸞小説

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2008年09月28日

ポール・ニューマン逝く

 日付がわかってNHK夜最後のニュースの時間。
 チャンネルを切り替えたとたんに目に入ったのが、「ポール・ニューマン死亡」だ。

 好きな俳優さんの一人だ。
 記憶に残る始めての映画は、高校1年のときに見た『熱いトタン屋根の猫』。エリザベス・テーラーの夫だった。気弱は、うじうじタイプの夫を演じていた。
 いくつかの記憶があるが、やはりいい演技として残っているのが『スティング』だ。まだ若かったロバート・レッドフォードの師匠として、渋かったなぁ。。。。

 時代がどんどん変わっていく。

 ご冥福を祈って。

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『熱いトタン屋根の猫』って、アメリカではTV映画になってるんですね。そこには大好きにはナタリーが出てたんだそうで。見たかった。  

Posted by 生田 at 00:43Comments(0)TrackBack(0)TVなど

2008年09月28日

五木寛之・親鸞と私

 中日新聞(東京新聞)などで九月一日から連載が始まった五木寛之氏の『親鸞』だが、最初から私の親鸞像とはかなり違ったものになっている。
 「忠範」という名が出ているが、これが『親鸞の幼名』として書かれている。しかし、これはどうなのだろう?まぁ、親鸞の身の上、特に幼少を記した古文書がないので、何とでもなるのだが、どこからこの『忠範』が出てきたのかは歴史の史実としては不明なようだ。
 私は、過去にこのブログで『叔父の名前』と書いたのは、完全に私の不確定な記憶のなしたものだが、父が『有範』で、叔父が『範綱』で、その下か上に「ただのり」なんて名前がいたような錯覚、記憶違いである。
 それに私のこれまで読み漁ってきた本には『忠範』を親鸞の幼名としているものがなかった。

 小説『親鸞』がこの先どういった展開になるのかわからないが、現時点では『忠範=親鸞』は京都の鴨川まで遊びに出ている、なんと日野から歩いてきているようだ。
 親鸞は、九歳で比叡山に上がったといわれているが、この小説ではその前ということになる。九歳といえば現在の学校で言えば小学校四年くらいか。日野というところは、京都市の南東のはずれである。醍醐寺の南にある。現在醍醐寺の西から地下鉄に乗って鴨川に行こうとすると三条京阪で下りるのだが、この間地下鉄の所要時間は二十分である。距離は十キロ弱か。それでも時速四キロで歩いて2時間半かかることになる。実は、日野の親鸞誕生の寺は「法界寺」(小説にも名前が登場した)から醍醐の南の地下鉄の駅『石田』まででも私の足で二十分かかるのだ。つまり、法界寺から三条まで片道約3時間かかるということ。しかも、どこをどう通るのか、昔からある奈良街道をということだろうが、どうしても山をひとつ越さねばならない。東山連邦のどこかを越さねばならないのだ。
 親鸞が日野で生活をしていたとしての話したが、いかがなものかな?おつきの人間が小説には登場しているが、貧乏貴族のせがれがそんな贅沢できたのかといわれそうだ。

 五木氏は、どのくらいの期間をかけて親鸞を書き上げるのだろう?直前の歴史小説(題名忘れた。読んでなかったから)は確か一年九ヶ月(ひょっとしたら二年九ヶ月)あったとに思う。親鸞の人生は九十年だから、これをまともに書けばかなり長いものになるだろうなぁ。
 僧侶として妻帯というかなり強硬なことしているが、ここがどのように書かれるのか大いに気になるところだ。いろんな解釈が成り立つ部分でもあるので。

 私は、親鸞研究(といっても素人のできることなんて知れたものだが)で、彼の住んでいたところを訪れ、ゆかりの地をあちこち踏んでみて、そしていろいろの本を読んで自分の親鸞像を作り上げた。それを基に、昨年、ミステリーに仕上げて大賞に応募するという大それた、無謀なことをしたのだが、見事落ちて、書いたものを手の内に収めたままになっている。
 もっとも、ミステリーに仕上げた本文にも一部書いたことは書いたが、肝心なところはページ数の関係ではしょってしまったところがある。親鸞の奥さんの話だ。はしょった部分をもう少しきちんと書いたものも別にあるが、これはまだ誰も読んではない。本当は論文にしようと思っていたものだが、私の論文なんて誰も読みはしないだろうし、それ以前に発表する場所すらない。ということで、自分なりにまとめる意味で、小説みたいに書いてある。
 ということで、埋もれついでに、ブログに連載してみるかと・・・・・

 ただ、連載用に書いたものではないから、読みづらいかなぁ。最も読んでもらえての話だけど。明日か、あさってくらいから、少しずつ乗せていきます。(決断が必要)

  
タグ :親鸞小説

Posted by 生田 at 00:00Comments(3)TrackBack(0)小説の話

2008年09月27日

寒い一日

昨日雨が上がって、その後涼しくなってきた。
 そして、夕方、さらに夜半からどんどん涼しくなった。

 そして、今日は寒い一日となった。
 陽が射すようなささないような。それでいて湿度も低く。

 長袖を着た上に、今がパーカーを羽織っている。

 ここ数年は、10月にはいっても暑い日があったほどだったが、今年はこのまま涼しく、寒くなっていくのだろうか?
 柿が、赤くなるのが早そうだなぁ。。  
タグ :寒い日

Posted by 生田 at 17:35Comments(2)TrackBack(0)今日の日
  
2015大津・京都の旅
1泊2日のドライブ旅行
2015北海道・道東の旅
1週間870kmのドライブ旅行
大学OB会と
50年ぶりの鎌倉
OB会の後に鎌倉と横浜に行ってきました
15年年頭 広島宿泊の旅
鞆の浦、竹原、宮島に行きました
14年秋 京都宿泊の旅
久しぶりに新幹線に乗りましたが・・・
13年秋 京都ドライブ旅
京都の紅葉の名所・毘沙門堂に行きました
12年秋 室生寺ドライブ旅
すてきな観音様と再会です
室生寺五重塔
12年秋 京都ドライブ旅
1年ぶりの京都です
三千院
10年秋 平泉ドライブ旅
4泊5日 2000キロの一人旅です
平泉・わんこそば
   
10年夏 室生寺 日帰り旅
素晴らしい観音さんに出会いました
室生寺・五重塔
10年初夏 宇治・長岡 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに黄檗山満福寺・六地蔵・法界寺谷寺・長岡天神
布袋さん
09年秋京都 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに 紅葉がきれいな京都
南禅寺の紅葉
08年秋京都 日帰り旅
08年11月25日貧乏・一人・日帰り旅の記録です。
鳳凰堂を望む
観光シーズン 京都の歩き方
京都市・地下鉄 東西線沿線
09年浅草と川越
浅草観音
07年信州の旅
上田城内
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生田
生田
 トップの写真は、我が家の庭で、鳥達につつかれ実もなくなり枯れ果てた柿の枝です。人生も同じで、仕事仕事で突き回されてここまで来て、落ち着いたら、だんだん枯れていくんだという思いです。  
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