2016年10月21日
鳥取地震から・・・・・
今日午後2時7分ごろ鳥取地方で震度6弱の地震があった。
この鳥取地震は、この日地方では73年ぶりの大地震。実は、この73年前の鳥取地震から3つの大地震が毎年起きている。1944年の東南海地震、1945年の三河地震、1946年の南海地震がそれで、1943年の鳥取地震と合わせて「戦中戦後の4大地震」と言われている。46年は戦争が終わっているので、それなりに公表されたかもしれないが、鳥取、東南海、三河の3地震は戦争中のために、敵国に知られてはまずいと隠されてしまった。
何て、話をふと思い出した。
なぜかというと、ここ数年の地震の多さが、なぜか日本の中央部を避けて起きているように思え、さらには名古屋を起点として考えると、だんだん震源地が近づいてきているのか?なんで思ったちもするし。不安を煽るつもりではないけど、名古屋近辺は幾ら何でも揺れがなさすぎるのだ。揺れがなねればそれだけストレスが溜まろうというもので、どこかで一気に大揺れしては困るんだなぁ。。。
今夜は、ニュースは地震が大半を占めていて、今なお鳥取地方は余震が続く情報が流れ続けている。被害もかなり出ているようだけど、その程度が軽いことを祈りつつ。。
この鳥取地震は、この日地方では73年ぶりの大地震。実は、この73年前の鳥取地震から3つの大地震が毎年起きている。1944年の東南海地震、1945年の三河地震、1946年の南海地震がそれで、1943年の鳥取地震と合わせて「戦中戦後の4大地震」と言われている。46年は戦争が終わっているので、それなりに公表されたかもしれないが、鳥取、東南海、三河の3地震は戦争中のために、敵国に知られてはまずいと隠されてしまった。
何て、話をふと思い出した。
なぜかというと、ここ数年の地震の多さが、なぜか日本の中央部を避けて起きているように思え、さらには名古屋を起点として考えると、だんだん震源地が近づいてきているのか?なんで思ったちもするし。不安を煽るつもりではないけど、名古屋近辺は幾ら何でも揺れがなさすぎるのだ。揺れがなねればそれだけストレスが溜まろうというもので、どこかで一気に大揺れしては困るんだなぁ。。。
今夜は、ニュースは地震が大半を占めていて、今なお鳥取地方は余震が続く情報が流れ続けている。被害もかなり出ているようだけど、その程度が軽いことを祈りつつ。。
タグ :鳥取地震
2016年10月21日
2016年9月 高山・平湯・上高地の旅 10 明神池 新た思い出
父親の思い出を探しに来た明神池、そこで多分ここだろうと思うところに立ち、記憶に残る父の格好を真似て写真を撮ったりした。しかし、ここに来た当時の父はまだ20歳前だったと思うしあの長身で細身の体と今のずんぐりムックリの私ではイメージは違うよなぁ。。。母が言っていた「お前なんて問題ならないくらいいい男だった」ってね。「悪かったなぁ」と毒づいたものだ。そんなこと思い出しながら、池の周りで行けるところに立って見た。
結構たくさんの人がいた。それも子供連れが何組かいたよ。。東京在住の親子で囚獄系のほとだと思うのですが、そのお子さんがものすごく可愛くて、まだ1歳半くらいかなぁ。。。父親に抱っこ紐で抱かれて前を向いていたけど、私の顔を見るなり、首を傾げてニッコリと笑ってくれたんですねぇ。。。疲れは全部飛んで行きましたよ。もう一組の日本の親子連れもいたけど、前の組みのようにはいかなかったなぁ。アァ、可愛くはありましたので念のため。
その中国系の親子連れは、親子3人の写真はあまりないだろうと、カメラを借りて撮って差し上げました。喜んでおられた。。
それから、ボートのある桟橋にきた。ここで話しかけられた。写真を撮ってくれとのこと。私らよりも10歳くらいお若いご夫婦です。綺麗な日本語なんです。でも、ちょっとお顔がチャイニーズ?。と思ったのでどちらかとお尋ねしたら台湾からと。結婚30数年の記念旅行だっておっしゃってたなぁ。。。
チャイニースのツアー客の多くがマナーが悪いと言われてますし、結構それに出会っている私ですが、先ほどの親子連れ、この台湾のご夫婦はいわゆるツアー客ではなく、マナーのしっかりとされてました。
可愛い親子連れと、台湾のご夫婦とはちょっと長く話しをしたので、それなりの記憶に残りました。いい思い出になりました。これも父親が引っ張ってきてくれたおかげかなぁ。。。
この写真の場所で可愛い親子に会いました。
この写真のところで台湾のご夫婦に会いました。
これで、念願の明神池を見終えました。これで兼ねてからの念願、そうですね、一番昔からの念願がひとつ叶いました。
さて、シャトルバスに乗るために、バスターミナルまで急がなくては。。。
結構たくさんの人がいた。それも子供連れが何組かいたよ。。東京在住の親子で囚獄系のほとだと思うのですが、そのお子さんがものすごく可愛くて、まだ1歳半くらいかなぁ。。。父親に抱っこ紐で抱かれて前を向いていたけど、私の顔を見るなり、首を傾げてニッコリと笑ってくれたんですねぇ。。。疲れは全部飛んで行きましたよ。もう一組の日本の親子連れもいたけど、前の組みのようにはいかなかったなぁ。アァ、可愛くはありましたので念のため。
その中国系の親子連れは、親子3人の写真はあまりないだろうと、カメラを借りて撮って差し上げました。喜んでおられた。。
それから、ボートのある桟橋にきた。ここで話しかけられた。写真を撮ってくれとのこと。私らよりも10歳くらいお若いご夫婦です。綺麗な日本語なんです。でも、ちょっとお顔がチャイニーズ?。と思ったのでどちらかとお尋ねしたら台湾からと。結婚30数年の記念旅行だっておっしゃってたなぁ。。。
チャイニースのツアー客の多くがマナーが悪いと言われてますし、結構それに出会っている私ですが、先ほどの親子連れ、この台湾のご夫婦はいわゆるツアー客ではなく、マナーのしっかりとされてました。
可愛い親子連れと、台湾のご夫婦とはちょっと長く話しをしたので、それなりの記憶に残りました。いい思い出になりました。これも父親が引っ張ってきてくれたおかげかなぁ。。。
この写真の場所で可愛い親子に会いました。
この写真のところで台湾のご夫婦に会いました。
これで、念願の明神池を見終えました。これで兼ねてからの念願、そうですね、一番昔からの念願がひとつ叶いました。
さて、シャトルバスに乗るために、バスターミナルまで急がなくては。。。
2016年10月21日
仏さんに惚れ込んで。。。18 広隆寺 弥勒菩薩
広隆寺の弥勒菩薩といえば、いらない人がいないくらいに有名で、何せ国宝指定第1号ということになってるよなぁ。
広隆寺は訪れたのは1度、ひょっとしたら2度かも。大学の古美研(古美術研究旅行)で広隆寺に行ったという記憶が全く残っていない。なので行ったかどうかもわからないくらいだ。古い写真のネガを引っ張り出して探せばわかるかも知れないけど、そこまでして書くことでもあるまい。
2回目に行ったのは、20数年前かな?息子が京都の某大学に行っていた時だったかと思う。白梅町から電車に乗って帷子ノ辻で乗り換えて太秦広隆寺まで行った。そして停留所のすぐ前(北側)に広隆寺があった。(あの門の前の道って三条通りなんですねぇ、知ってました?)
境内は広かったなぁ。。。ただただだだっ広く思っただけ。建物の記憶は全くない、あちこちぶらついて、八角堂みたいなのがあったのはなんとなく記憶しているけど、他はなぁ。。
まぁ、広隆寺に来るのはお目当は一つでしょうね。弥勒さんですよね。
霊宝館にあったと思う。霊宝館の中はたくさんの仏像があったよ。拝観者の多くが弥勒菩薩の前にたむろ。そんなに見たいんかいな。。。
実は、私はこの弥勒菩薩に魅力を感じない人なのです。なぜ国宝になったのか?重要文化財程度でも構わない、それが国宝第1号とは。。。このシリーズの最初にかいたように、私は生まれて初めて仏さんに惚れたのは中宮寺の”半跏思惟像”で、この仏さんは今でこそ”半跏思惟像”って呼んでいるけど、昔は”弥勒菩薩”って行ってたよ。こちらも国宝だけど、指定番号は23番で、なんでこんなに番号が違うの?国宝指定日は同じ1951/06/09なんですよ。。ということは、ただ単純に番号をつけるときに違ったということのようですが、おそらく誰かの好みで広隆寺が先になったんでしょうね。。。
そんなことはともかく、とにかく同じ弥勒(半跏思惟像)ならやっぱり中宮寺だわなぁ。。でも、これはあくまでもCMなみに個人の感想です。
弥勒菩薩(中宮寺は如意輪観音らしいが)は、仏教の世界でシャカがなくなって仏法が途絶えたところで、苦しむ衆生を救うために現れる菩薩で、悟り開いたので弥勒如来とも名乗っている。な¥まぁなあ外こと衆生を救うためにお考えになっているので、それが”思惟”。その考える姿が、椅子に座って右足を組んでいるというこれは”半跏”。
半跏思惟像はたくさんあるねぇ。。今年(2016年)は韓国の半跏思惟像と並んだりして話題兄もなった。
そんな国宝なんですが、私はなぜか苦手なんです。たぶんに反主流派の私ですから、意地でも国宝第1号には気が向かないのかも知れない。
で、霊宝館に入ってたくさんの仏像を見たのですが、今はどうなっているかわからないけど、
私の記憶の中にある霊宝館の仏像の配置では、弥勒を見ている立ち位置で背中側にある大きな仏像に私はミリョクを感じたのだ。記憶では阿弥陀如来だったかと思うのだが結構大きかったなぁ。。。その当時は、まだ阿弥陀大好きではなかったので、記憶にとどめるのが薄いのかも知れない。
広隆寺においでになり霊宝館に起きになったら、是非一度弥勒菩薩の反対側に目を向けて見てください。私の行っているのが間違ってなければ、私の好みが理解できるかと思います。
広隆寺は訪れたのは1度、ひょっとしたら2度かも。大学の古美研(古美術研究旅行)で広隆寺に行ったという記憶が全く残っていない。なので行ったかどうかもわからないくらいだ。古い写真のネガを引っ張り出して探せばわかるかも知れないけど、そこまでして書くことでもあるまい。
2回目に行ったのは、20数年前かな?息子が京都の某大学に行っていた時だったかと思う。白梅町から電車に乗って帷子ノ辻で乗り換えて太秦広隆寺まで行った。そして停留所のすぐ前(北側)に広隆寺があった。(あの門の前の道って三条通りなんですねぇ、知ってました?)
境内は広かったなぁ。。。ただただだだっ広く思っただけ。建物の記憶は全くない、あちこちぶらついて、八角堂みたいなのがあったのはなんとなく記憶しているけど、他はなぁ。。
まぁ、広隆寺に来るのはお目当は一つでしょうね。弥勒さんですよね。
霊宝館にあったと思う。霊宝館の中はたくさんの仏像があったよ。拝観者の多くが弥勒菩薩の前にたむろ。そんなに見たいんかいな。。。
実は、私はこの弥勒菩薩に魅力を感じない人なのです。なぜ国宝になったのか?重要文化財程度でも構わない、それが国宝第1号とは。。。このシリーズの最初にかいたように、私は生まれて初めて仏さんに惚れたのは中宮寺の”半跏思惟像”で、この仏さんは今でこそ”半跏思惟像”って呼んでいるけど、昔は”弥勒菩薩”って行ってたよ。こちらも国宝だけど、指定番号は23番で、なんでこんなに番号が違うの?国宝指定日は同じ1951/06/09なんですよ。。ということは、ただ単純に番号をつけるときに違ったということのようですが、おそらく誰かの好みで広隆寺が先になったんでしょうね。。。
そんなことはともかく、とにかく同じ弥勒(半跏思惟像)ならやっぱり中宮寺だわなぁ。。でも、これはあくまでもCMなみに個人の感想です。
弥勒菩薩(中宮寺は如意輪観音らしいが)は、仏教の世界でシャカがなくなって仏法が途絶えたところで、苦しむ衆生を救うために現れる菩薩で、悟り開いたので弥勒如来とも名乗っている。な¥まぁなあ外こと衆生を救うためにお考えになっているので、それが”思惟”。その考える姿が、椅子に座って右足を組んでいるというこれは”半跏”。
半跏思惟像はたくさんあるねぇ。。今年(2016年)は韓国の半跏思惟像と並んだりして話題兄もなった。
そんな国宝なんですが、私はなぜか苦手なんです。たぶんに反主流派の私ですから、意地でも国宝第1号には気が向かないのかも知れない。
で、霊宝館に入ってたくさんの仏像を見たのですが、今はどうなっているかわからないけど、
私の記憶の中にある霊宝館の仏像の配置では、弥勒を見ている立ち位置で背中側にある大きな仏像に私はミリョクを感じたのだ。記憶では阿弥陀如来だったかと思うのだが結構大きかったなぁ。。。その当時は、まだ阿弥陀大好きではなかったので、記憶にとどめるのが薄いのかも知れない。
広隆寺においでになり霊宝館に起きになったら、是非一度弥勒菩薩の反対側に目を向けて見てください。私の行っているのが間違ってなければ、私の好みが理解できるかと思います。