2010年03月20日
オーム・サリン事件から15年
時のたつのは早いもので、あのサリン事件のあった日から丸15年という年月が流れた。
たまたまその年の1月には、あの『阪神淡路大震災』が起きたときでもある。まだ若かったなぁ。。。。
目下TVでドラマと実写を交えた番組が流れている。ああの日、家にいて(いつもいたからその頃は)映し出される惨劇に釘付けになっていた。東京の惨劇と同時に、結果的にはがせみたいだったけど、横浜でも異臭騒ぎが会ったような記憶だ。同時テロとしてみられたようだが・・
だいたいあの集団は、被害妄想的な集団だった。国から弾圧されているという被害妄想があのように身構えさせて、そのあげくにエスカレートしての犯行になってしまったと私は思っている。
だいたい、宗教集団というものは、被害妄想的になることが多いと思う。何かを信じている、それも狂信的に突っ込んで信してしまい、そのものいがいが信じられなくなると、どうしても周囲から攻撃されていると思い込む傾向にある。
宗教集団というものは、神なり仏なり教祖なりを心底信じ、それ以外を排斥しようとする。集団をまとめるのに、一つ以外を信じさせたら収集付かなくなるからだ。そして、集団をより強固にするためには、周りから攻撃紗rているとあおって、集団の検束を計ろうとする。だから、被害妄想になっていく。
こうしたことは、あまり語られることはないと思うが、歴史の中ではっきりと出ていることでもある。その代表的なのが、織田信長と浄土真宗の争いで、石山本願寺(大阪)、伊勢長島の願証寺が戦国のさなかに、信長と武力闘争をしている。結果的には負けて根絶やしにされるくらいの扱いを受けている。
確かに、信長は攻撃をしているが、その前の段階で真宗集団自体が武装集団となり身構えていたから、信長には目障りな存在であったと思う。
元々、真宗などの一向宗系の集団は、農民などが多く、貴族、武士からは虐げられていたために、それらの人を精神的に救うと言うことで「現世往生」というような考えを持たせ、差別に対しての心構えを持たせている。これは、親鸞の書き残したものにも現れている。それがエスカレートしていけば、身構えることにもなるだろう。そして武器を持った戦いにもあるだろう。
宗教自体が無くならないと、本当の意味での戦争は無くならないかもしれない。
排他的な集団は、その教義以外を指定するから、他の集団との間に問題を生じさせることになる。つまり、お互いに排他的で、相手を間違いとするために被害を受けたと反発する。子rが被害妄想の原点と私は思っている。
宗教が、ただ単に多くの人間が集まって幸せになるためにどうするかを考えているあいだは、排他的でもないだろうが、人は何かと他の上に立ちたいと思うようになり、たてないとなると被害被ったと言い始める。 (実は、こうした被害妄想の人間から、最近かなり攻撃を受けたばかりである)
信じるのは決行だが、他の人間に危害を加えない程度にしてほしいものだ。
昔、ある宗教集団の黎明期には、勧誘をずいぶん受けたものだが、かなり彼らは狂信的だったなぁ。たまたま危害こそ加えられなかったが、それは私がそれを否定しなかったからかもしれない。
ある程度宗教を知り、教義の概要も知っていたことが、彼らの話を完全否定しないで受け入れをしないと言うことができたからだと思う。
今の宗教は、疑問も多い。中には仏教やらキリスト教やらをごちゃ混ぜにして教義を作り、教祖という人物が書籍を出してそれを広めようとしているところもあるようだ。これが正解に出てくるともっとややこしい話になるが。
政界には、宗教団体をバックにしている議員がたくさんいる。公明党は創価学会がバックというのは公選としたものだが、それ以外にも結構いるんだ。政権が変わったからこの先変わるかもしれないが。できたら、そういった人には政治参加はご遠慮いただきたいと私は思っている。
宗教は、なんのためにあるのか???そんなことを、改めて考えた日。
たまたまその年の1月には、あの『阪神淡路大震災』が起きたときでもある。まだ若かったなぁ。。。。
目下TVでドラマと実写を交えた番組が流れている。ああの日、家にいて(いつもいたからその頃は)映し出される惨劇に釘付けになっていた。東京の惨劇と同時に、結果的にはがせみたいだったけど、横浜でも異臭騒ぎが会ったような記憶だ。同時テロとしてみられたようだが・・
だいたいあの集団は、被害妄想的な集団だった。国から弾圧されているという被害妄想があのように身構えさせて、そのあげくにエスカレートしての犯行になってしまったと私は思っている。
だいたい、宗教集団というものは、被害妄想的になることが多いと思う。何かを信じている、それも狂信的に突っ込んで信してしまい、そのものいがいが信じられなくなると、どうしても周囲から攻撃されていると思い込む傾向にある。
宗教集団というものは、神なり仏なり教祖なりを心底信じ、それ以外を排斥しようとする。集団をまとめるのに、一つ以外を信じさせたら収集付かなくなるからだ。そして、集団をより強固にするためには、周りから攻撃紗rているとあおって、集団の検束を計ろうとする。だから、被害妄想になっていく。
こうしたことは、あまり語られることはないと思うが、歴史の中ではっきりと出ていることでもある。その代表的なのが、織田信長と浄土真宗の争いで、石山本願寺(大阪)、伊勢長島の願証寺が戦国のさなかに、信長と武力闘争をしている。結果的には負けて根絶やしにされるくらいの扱いを受けている。
確かに、信長は攻撃をしているが、その前の段階で真宗集団自体が武装集団となり身構えていたから、信長には目障りな存在であったと思う。
元々、真宗などの一向宗系の集団は、農民などが多く、貴族、武士からは虐げられていたために、それらの人を精神的に救うと言うことで「現世往生」というような考えを持たせ、差別に対しての心構えを持たせている。これは、親鸞の書き残したものにも現れている。それがエスカレートしていけば、身構えることにもなるだろう。そして武器を持った戦いにもあるだろう。
宗教自体が無くならないと、本当の意味での戦争は無くならないかもしれない。
排他的な集団は、その教義以外を指定するから、他の集団との間に問題を生じさせることになる。つまり、お互いに排他的で、相手を間違いとするために被害を受けたと反発する。子rが被害妄想の原点と私は思っている。
宗教が、ただ単に多くの人間が集まって幸せになるためにどうするかを考えているあいだは、排他的でもないだろうが、人は何かと他の上に立ちたいと思うようになり、たてないとなると被害被ったと言い始める。 (実は、こうした被害妄想の人間から、最近かなり攻撃を受けたばかりである)
信じるのは決行だが、他の人間に危害を加えない程度にしてほしいものだ。
昔、ある宗教集団の黎明期には、勧誘をずいぶん受けたものだが、かなり彼らは狂信的だったなぁ。たまたま危害こそ加えられなかったが、それは私がそれを否定しなかったからかもしれない。
ある程度宗教を知り、教義の概要も知っていたことが、彼らの話を完全否定しないで受け入れをしないと言うことができたからだと思う。
今の宗教は、疑問も多い。中には仏教やらキリスト教やらをごちゃ混ぜにして教義を作り、教祖という人物が書籍を出してそれを広めようとしているところもあるようだ。これが正解に出てくるともっとややこしい話になるが。
政界には、宗教団体をバックにしている議員がたくさんいる。公明党は創価学会がバックというのは公選としたものだが、それ以外にも結構いるんだ。政権が変わったからこの先変わるかもしれないが。できたら、そういった人には政治参加はご遠慮いただきたいと私は思っている。
宗教は、なんのためにあるのか???そんなことを、改めて考えた日。
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この記事へのコメント
オウム事件のときに上佑氏のファンクラブが出来ていたのをふと思い出しました。
格好良さの基準がわかりません。
私の実家の街にオウムの施設が移転してくる噂があり一時期、反対ののぼりもあったよ。
被害者の方が気の毒でなりません。
格好良さの基準がわかりません。
私の実家の街にオウムの施設が移転してくる噂があり一時期、反対ののぼりもあったよ。
被害者の方が気の毒でなりません。
Posted by みりん at 2010年03月20日 23:53
噂だけですんでよかったですね。
実際に近くに宗教施設あると大変ですよ。
実際に近くに宗教施設あると大変ですよ。
Posted by 生田 at 2010年03月21日 00:21