2012年06月08日
親鸞の奥さんの遺骨?見つかる
非常にマニアックな話です。
私のかねてよりの親鸞関連の研究の一端に関することに関係がある話です。
今日(6/8)の夕刊の記事で、京都の西岸寺(京都伏見区藤の森近く)で寺伝の『玉日姫の墓』の改修工事で頭の骨が見つかったと書かれていた。
この寺は過去に参拝しているのである程度はわかる。この墓は親鸞の最初の奥さん』と言われている『玉日姫』の墓といわれ、正面にきれいな結構でかい医師があって、それは親鸞が玉日姫のために新潟から送った石といわれていた。その石の下から骨が見つかったわけだ。
ただ、通説は『玉日姫』は存在しなかったことになっている。理由は傍証がないからということ。玉日姫は九条兼実の娘といわれ、親鸞の師匠法然さんと兼実のすすめで親鸞と結婚したことになっていて、子供も一人儲けている。しかし親鸞が上越に流されているときに死んだということになっている多と思う。
それで親鸞は、御赦免になって一度京都に帰ってきて、息子とともに玉日の浜に詣でている。こうした記述のある本もあるのだが、今の親鸞の世界は本願寺が牛耳っていて、玉日がいると都合が悪いわけだ。
その都合が悪い玉日の墓があり、骨が見つかった西岸寺は実は浄土真宗本願寺派の末寺なんだよねぇ。(うっそぉっていいたくなるかもしれないけどホント)
今寺は、昔は出かかったんだって、紅葉で有名な党福寺の無かh氏の大きな敷地の中だったかな?それでもとにかくものすごく大きな敷地だったんだけど、なぜか貧乏寺で切り売りしたのかと血がだんだんなくなって。。。。。それに昭和の時代だったかに火事にあってしまって。。。。なので、今寺の中の仏像あきれいです。違和感感じるくらいに。
さて、この玉日姫の骨が見つかったということは、大谷大学の先生は否定しているし、山形大学の先生は肯定してる。やっぱ、大谷さんは否定するでしょうねぇ…・
親鸞には複数の奥さんがいたと言われていることもある。あんまり行程はされていないけど。私は玉日姫といま本当に奥さんといわれている人・恵信尼の二人は認めていいと思っているんだ。
二人いても同時進行ではなくて、このブログの左にある『小説。・親鸞』にあるように親鸞と恵心はそす思想愛であったものの恵信が新潟(上越・板倉)に帰らねばならなくなて泣き別れで、そこに法然さんから『玉日と結婚せい』と言われて結婚した。所がそれらが咎になって越後p(上越)に流されて、そこで恵心と再会した。流されている間に玉日が病気で死んでしまったので、恵心と再婚した。
これは私の思っている親鸞の結婚の話。こんな話誰も書いてないと思うし、誰も求めてくれんだろうが、意外と的を射ているのかも知れんのだけどねぇ。
今日のの子新聞記事をもとに、また小説書いてみるかなぁ。。。
私のかねてよりの親鸞関連の研究の一端に関することに関係がある話です。
今日(6/8)の夕刊の記事で、京都の西岸寺(京都伏見区藤の森近く)で寺伝の『玉日姫の墓』の改修工事で頭の骨が見つかったと書かれていた。
この寺は過去に参拝しているのである程度はわかる。この墓は親鸞の最初の奥さん』と言われている『玉日姫』の墓といわれ、正面にきれいな結構でかい医師があって、それは親鸞が玉日姫のために新潟から送った石といわれていた。その石の下から骨が見つかったわけだ。
ただ、通説は『玉日姫』は存在しなかったことになっている。理由は傍証がないからということ。玉日姫は九条兼実の娘といわれ、親鸞の師匠法然さんと兼実のすすめで親鸞と結婚したことになっていて、子供も一人儲けている。しかし親鸞が上越に流されているときに死んだということになっている多と思う。
それで親鸞は、御赦免になって一度京都に帰ってきて、息子とともに玉日の浜に詣でている。こうした記述のある本もあるのだが、今の親鸞の世界は本願寺が牛耳っていて、玉日がいると都合が悪いわけだ。
その都合が悪い玉日の墓があり、骨が見つかった西岸寺は実は浄土真宗本願寺派の末寺なんだよねぇ。(うっそぉっていいたくなるかもしれないけどホント)
今寺は、昔は出かかったんだって、紅葉で有名な党福寺の無かh氏の大きな敷地の中だったかな?それでもとにかくものすごく大きな敷地だったんだけど、なぜか貧乏寺で切り売りしたのかと血がだんだんなくなって。。。。。それに昭和の時代だったかに火事にあってしまって。。。。なので、今寺の中の仏像あきれいです。違和感感じるくらいに。
さて、この玉日姫の骨が見つかったということは、大谷大学の先生は否定しているし、山形大学の先生は肯定してる。やっぱ、大谷さんは否定するでしょうねぇ…・
親鸞には複数の奥さんがいたと言われていることもある。あんまり行程はされていないけど。私は玉日姫といま本当に奥さんといわれている人・恵信尼の二人は認めていいと思っているんだ。
二人いても同時進行ではなくて、このブログの左にある『小説。・親鸞』にあるように親鸞と恵心はそす思想愛であったものの恵信が新潟(上越・板倉)に帰らねばならなくなて泣き別れで、そこに法然さんから『玉日と結婚せい』と言われて結婚した。所がそれらが咎になって越後p(上越)に流されて、そこで恵心と再会した。流されている間に玉日が病気で死んでしまったので、恵心と再婚した。
これは私の思っている親鸞の結婚の話。こんな話誰も書いてないと思うし、誰も求めてくれんだろうが、意外と的を射ているのかも知れんのだけどねぇ。
今日のの子新聞記事をもとに、また小説書いてみるかなぁ。。。