3時間の安静が過ぎた頃かな、手術跡の傷の出血を見にきた。安静とはいえ頭は自由に動いていたから、夢見つつ自然に動いていたのか、かなり出血して、シーツを汚していた。
この出血は、誰にでもあることのようで、傷口からじわじわと流れ出ているらしい。この後も3回ほど手術痕の処理をしてもらっている。
画像左から 手術後3時間後 術後直後と同じ状態
中央は 初めての取り替えで 看護師にとってもらった
右は 取り替え後にガーゼが新しくなった状態
手術後は何もすることができない。何しろ左手には点滴の針が刺さったままなので自由に歩くことができない。手術が終わって病室に戻ってしばらくしたら尿意を覚えたので訴えたら、尿瓶を持ってきて処理をしてもらった。
絶飲食のせいか尿意の感覚がいつもの倍位遠いと感じた。がそれでも出したくなり、次に訴えたら、歩いて行けと言われ、看護師随行でトイレに向かった。
この時術後初めて立ったのだが、ちょっと軽い目眩と、筋肉の弛緩がとれていないからかなり不安定だった。トイレは洋式を使うかと聞かれたが、大丈夫と男性用の立ち小便器を使った。
どのくらいの時間だったか、水を飲んでもいいと許可が出たので冷たい水を飲んだ、なんと美味かったことか。
しかし水を飲むときに違和感。味の問題ではなく、飲むために口を開けなければならないが、口を開けると手術痕に痛みがはしるのだ。想定外のこと、食べるときはもっとひどく、口を開くときも痛むが、それに噛むときにも痛みがあるのだ。でも我慢できる痛みではある。
それでも最初の頃合は、口が開けなくて、水もまともに飲めないから、看護師に頼んでストローを用意してもらったくらいだ。
手術後は、食事もできないので、時折パンを齧ったりしながら、寝てることが多かった。しかし、ブログで多くの人に心配かけているので、書けるようになったところで自撮りの私をめずらしくそのまま、と言っても酸素マスクして、寝巻き姿というとんでもないものをアップした。
この手術後は、麻酔が切れても結構眠気があって、なんだかずいぶんうとうとしたような気がする。テレビを見るわけでもなく、ただベッドに寝転がって、時折 iPad でゲームしていた。
何時ごろだろう、多分夜11時か12時頃だと思うけど、熟睡したようだ。が、3時頃に目が覚めてしまった。それからが寝られない、ゲームしたりもしたけどこの際とばかりに、記憶に残っているいる間にと、この体験記を書き始めた。
手術したその日に書いているのにもう記憶が飛んでいる。悲しい現実です。それに時間経過の混濁。何をいつしたのかまるで頭には、やったこと、見たこと、聞いたことが、時間系列に並ばないのだ。本当に情けない。
そして点滴で麻酔薬を注入するために、前日夕方に病室まで事前調査に来た麻酔医が手の甲の静脈を探していた。私は極度に血管が細いと言われているが、どうもその通りで打ち込に必要な静脈が見つからず、かなり手の甲を叩いて血管を浮き出させていたが、やっと見つかったようで「今から少しちくっとしますよ」と声がかかって、少々でなかったがちくっとして針が差し込まれた。かなり弄った感じだなぁ。。。さらに説明が「量が多いので手が痺れるかもしれない」と、寝てしまったら痺れもわからないけどなぁ。
私は覚悟して目を瞑っていたら、トントンされて目に前で指で丸を作って「目を開けていろ」と、これは目が空いていれば、寝たのがわかるからだろうと思う。
この後しばらくしたら、完全に寝たのだろう、記憶が全く無い。ただ、記憶には内容は残っていないけれど、何かの夢を見続けていたように思う。
その見ていた夢を破るように、左肩をトントンされた。「終わりましたよ」と。本当に夢破られての目覚めで、一瞬目の前がなんだかわからなかったが、たくさんの顔が私を覗き込んでいたが、執刀医の私の主治医のドクターの顔が見えた。「あっ先生だ」と声を上げた。ドクターが耳の横にきて「無事終わりましたよ、人工内耳も完璧に埋め込まれましたよ」と話してくれた。私は感謝に気持ちをいうとともに「家族が心配ししているから連絡してください」とお願いをした。
目が覚めた。「生きていた」といいのが正直な気持ちだ。
体から取り付けられていたものが取り外されれていく。残ったものは酸素マスクと足のマッサージ器具、そのほかの観察用機器のケーブルは皆外されたようだ。ただ、酸素マスクがいつ取り外されたのかは、全く記憶に残っていない。麻酔から覚めたと言っても、脳は完全に目覚めていなかったのかもしれない。
マッサージ機は、酢術中からつけっぱなしで、病室に来ても3時間以上はつけてたのかな?気持ちよかった。ストッキングは退院して家に帰るまで履き続けてました。
末期の前立腺癌を宣告されたのは、何の因果か知らないけれど、あの東日本大震災の年のお釈迦様の誕生日、誕生会(花まつり)だった。
大震災は3月11日だったけれど、私の体の中での激震から大津波はもう襲ってきていたらしい。ただ自覚症状全くなく、たまたま2月に特定検診(通称メタボ検診)を受けた際にワンコイン=500円で受けられる前立腺癌検診を何となく受けることにした。
特定検診の結果を聞くのは一月後ということで、何の心配もせずに一月を過ごした。
そして一月後に結果を受け取りに行った。診察室でドクターは、それまでに見ていれば連絡くれたのかもしれないが、多分私が受け取りに行ったから初めて見たんだろう。血液検査の結果を見て「398だ?なんだこれ〜」と言ったのだ。そして「前立腺癌の疑いがあるので、大きい病院で見てもらえ」と。その時の記憶ほとんど残っていない。たぶん「がん」という言葉で頭の中真っ白になっていたのだろうと今更ながら思う。しかし、家に帰ってPSAについて調べて、標準値が3前後だと知って、単位の間違いではないのかとすら思ったのだが・・
紹介状を書いてもらって、数日後に大病院に。そしていろいろ検査、採血して後日再審を受けることになった。再審に出かけ、担当ドクターから「精密検査の必要があるので入院してください」と。
指示に従っての検査入院。あまり記憶に残っていないけれど、検査室で針を12本打たれて、そのうちの9本に癌細胞がついていたと、後々分かったのだ。
検査入院から20日くらい経って、その結果を聞きに行ったのが12年前の今日4月8日だったのだ。「ステージIVの末期癌」と言われた。当たり前だなぁ。12分の9の癌細胞、それに大病院での最初の血液検査ではPSAはすでに500を超えていたのだから。
そしてこの後放射線科の所見を聞いたりした結果、「放射線は多臓器にあたるので不可」そして「手術はた臓器に浸潤、癒着しているのでふか」との宣告。残されたのは”ホルモン療法だけ”と言われた。
私はその時、「セカンドオピニオンを」とドクターに申出したのだが、ドクターは「これしか方法ないと思いますが」と言いつつ、紹介状の準備に入ってくれたようだ。
そして翌日、消化器系のドクターの友人のクリニックに行き「セカンドオピニオンどこで取ったらしい?」と相談したのだが、友人から帰ってきたのは「お前なぁ、セカンドオピニオンは必要ないわ。これしか方法ないぞ」と冷たい回答(本当は暖かいんですけど)。ということで、この友人の言葉が正解のセカンドオピニオンになった。そして数日後に大病院に行き、セカンドオピニオン取らないことになった旨を連絡、そして5月の連休明けから治療開始となった。
腹にゾラデックスを打ち、毎日過疎デックスを服用するという、ホルモン療法が始まったのだ。最初は一月おきに空デックスをうちに病院に行く、そして血液検査でPSAの値を観察する。
ホルモン療法開始食後は、まだPSAは上がっていて同じ月に最高591を記録している。それから1ヶ月後の採血と診察で、PSAは495に下がっていた。この時のドクターの言葉は「これで行きましょう」ということで、完全に治療方針が決まったのだ。
そして5ヶ月後には、PSAは0.1台に落ち着いたのだ。
12年の経過を描くつもりはない。過去の記事で「奇跡の軌跡」という連載をしたいるbので、そちらをご覧いただきたいです。
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タグに「APD」「聴覚情報処理障害」を付けてますが、これは音は聞こえるけれど、人の声、話し声を言葉として認識できないことを言います。それは、あくまでも聴覚のレベルが正常値にあると言う前提とのことです。 私の場合は、似てはいますが、聴覚レベル自体がすでに低レベルになっているので、正式には「聴覚情報処理障害」とは言わないのだと、現在の担当医から言われています。 |