2018年01月04日
末期ガン宣告からもうじき7年に
3が日を過ぎたので、そろそろ病気の話とそれに対する決意でも書こうかと。
7年前の1月、恒例のメタボ健診を受けに言った。病院に貼ってあったポスターを見て、「ほぉ五百円でがん検診ねぇ」とふと前立腺癌の検診を受けることにした。採血をして、他の検査もして結果は一月後と言われた。一月経って病院に行った。そして結果を。
医者がPSAマーカの値を見て「なんだこれ?」って言った。PSA値が390を超えていた。医者は「紹介状書くから大病院で検査を」と。キツネにつままれた感じだ。その時は医者は専門外の病気のようでガンだと一言も言わなかった。
PSAは通常なら3〜4以下(病院によって標準値の扱いが多少異なる)なにの390もあったので医者が驚いたのかも。初めて見た数値のようだ。
紹介状は後日受け取って、大病院に行った。これまでこの病院は、仕事の関係で医師たちはたくさん知ってはいたが、病気では鼻血が止まらず救急で一度お世話になったくらいだ。泌尿器科に回されてかなり長いこと待たされた。2時間以上待ったのではないかな?診察の順番になって、担当医の紹介状の内容からまずはエコーからということで別室で肛門からエコーの検査器具を差し込まれて撮影。そして触診とあわせた結果は「精密検査の必要があるんで、検査入院してください」とのこと。まだ癌宣告はない。検査入院の予約をして、その日は帰宅。
予約の日は3月。メタボ健診が1月、紹介状が2月、そして検査入院が3月ともう2は結経過している。(これは進行の遅い前立腺癌だからできることです)
検査入院した。もうかなり前の話で検査までどうしたかの記憶は残っていない。検査の日、看護師に伴われて手術室、ななんかステンレスが張り巡らされていたようなkんじで、一瞬葬儀場に来たかと思った。手術台(検査台かな)の周りにいるのは女性ばかりかと思ったほどで、男性がいた記憶が全くない。なぜだかわからないが。
麻酔を打たれて、肛門から生体検査用の針を合計12本打たれたらしい。検査中に記憶がなくなったのか寝ていたのか、おわっったということで病室に戻るときは車椅子だった。(体格のいい看護師(女性)が付き添ってくれていた。
この生検の結果、9本にがん細胞を認めた。順序はどうだったか覚えていないが、MR、CTの撮影結果も合わせて「末期ガン」の宣告を後日受けた。そして放射線科の医師、外科の医師との関連・連携の結果をいいわたされた。
前立腺癌、ステージIV-Cだったかと記憶しているが、どうも自分自身での記憶はないが、頭が真っ白になっていたのだろう、正確なことは頭に残っていない。治療方針の案が出るまで少し日数のタイムラグがあったかと思うが、結果的は「病巣がかなり大きく、他の臓器に癒着、浸潤している(ただ転移はしていない)ので、手術はできない、放射線は他の臓器に当てては化する危険があるのでできない」と。そして残った方法は「ホルモン療法だけ」と宣告された。
ガン宣告されたらセカンドオピニオンを取るつもりでいたので、友人の医師にセカンドオピを取るための医師を紹介して欲しいと電話した。電話だけではわからないので翌日、友人の病院に行った。そして結果を見せたたら「セカンドオピニオンの必要はないわ。担当医のいう方法しかない」と厳しい宣告。セカンドオピニオンは友人がしてくれたことになってしまった。
これで、治療方針決定したことになった。大病院に行きその旨を伝えた。
これが4月のこと。メタボ健診でPSAのための採血から3ヶ月経っていた。大病院での治療開始直前のPSAはなんと590を超えていた。標準値はこの病院で4というのに。
これから1年近く毎月定期的に検査と診察に通った。治療開始から3ヶ月目でPSAの値が下がり始めた。そしてある程度下がったところで(1年近くになるかな?)通院は3ヶ月に一度となった。
ホルモン剤を毎日服用し、通院のたびに腹にホルモン剤を注射していた。
ホルモン剤のおかげで、いろんな副作用(と私は今になって思っている)に見舞われている。
1:身体中に赤い発疹が出て、痒くなる
2:胸が膨らんで来た
3:9月頃にめまい、そして複視に。
4:体重が増えて来た。
(尤もこれはあらかじめネットで情報蒐集していたので、 減量のための食事法を採っていた)
5:筋力が衰えて階段登りがきつくなった
などなど
話は7年に及ぶので長くなる。続きは、気が向いたら書くことに。食事について書いてみようかと思ってますが、いつになったら気が向くか、期待しないでください。
あぁ、決意が書いてなかったなぁ。
決意は、死ぬまでガンと仲良く
お付き合いします。
これは、ガン宣告された時に、担当医に向かっていった言葉です。
7年前の1月、恒例のメタボ健診を受けに言った。病院に貼ってあったポスターを見て、「ほぉ五百円でがん検診ねぇ」とふと前立腺癌の検診を受けることにした。採血をして、他の検査もして結果は一月後と言われた。一月経って病院に行った。そして結果を。
医者がPSAマーカの値を見て「なんだこれ?」って言った。PSA値が390を超えていた。医者は「紹介状書くから大病院で検査を」と。キツネにつままれた感じだ。その時は医者は専門外の病気のようでガンだと一言も言わなかった。
PSAは通常なら3〜4以下(病院によって標準値の扱いが多少異なる)なにの390もあったので医者が驚いたのかも。初めて見た数値のようだ。
紹介状は後日受け取って、大病院に行った。これまでこの病院は、仕事の関係で医師たちはたくさん知ってはいたが、病気では鼻血が止まらず救急で一度お世話になったくらいだ。泌尿器科に回されてかなり長いこと待たされた。2時間以上待ったのではないかな?診察の順番になって、担当医の紹介状の内容からまずはエコーからということで別室で肛門からエコーの検査器具を差し込まれて撮影。そして触診とあわせた結果は「精密検査の必要があるんで、検査入院してください」とのこと。まだ癌宣告はない。検査入院の予約をして、その日は帰宅。
予約の日は3月。メタボ健診が1月、紹介状が2月、そして検査入院が3月ともう2は結経過している。(これは進行の遅い前立腺癌だからできることです)
検査入院した。もうかなり前の話で検査までどうしたかの記憶は残っていない。検査の日、看護師に伴われて手術室、ななんかステンレスが張り巡らされていたようなkんじで、一瞬葬儀場に来たかと思った。手術台(検査台かな)の周りにいるのは女性ばかりかと思ったほどで、男性がいた記憶が全くない。なぜだかわからないが。
麻酔を打たれて、肛門から生体検査用の針を合計12本打たれたらしい。検査中に記憶がなくなったのか寝ていたのか、おわっったということで病室に戻るときは車椅子だった。(体格のいい看護師(女性)が付き添ってくれていた。
この生検の結果、9本にがん細胞を認めた。順序はどうだったか覚えていないが、MR、CTの撮影結果も合わせて「末期ガン」の宣告を後日受けた。そして放射線科の医師、外科の医師との関連・連携の結果をいいわたされた。
前立腺癌、ステージIV-Cだったかと記憶しているが、どうも自分自身での記憶はないが、頭が真っ白になっていたのだろう、正確なことは頭に残っていない。治療方針の案が出るまで少し日数のタイムラグがあったかと思うが、結果的は「病巣がかなり大きく、他の臓器に癒着、浸潤している(ただ転移はしていない)ので、手術はできない、放射線は他の臓器に当てては化する危険があるのでできない」と。そして残った方法は「ホルモン療法だけ」と宣告された。
ガン宣告されたらセカンドオピニオンを取るつもりでいたので、友人の医師にセカンドオピを取るための医師を紹介して欲しいと電話した。電話だけではわからないので翌日、友人の病院に行った。そして結果を見せたたら「セカンドオピニオンの必要はないわ。担当医のいう方法しかない」と厳しい宣告。セカンドオピニオンは友人がしてくれたことになってしまった。
これで、治療方針決定したことになった。大病院に行きその旨を伝えた。
これが4月のこと。メタボ健診でPSAのための採血から3ヶ月経っていた。大病院での治療開始直前のPSAはなんと590を超えていた。標準値はこの病院で4というのに。
これから1年近く毎月定期的に検査と診察に通った。治療開始から3ヶ月目でPSAの値が下がり始めた。そしてある程度下がったところで(1年近くになるかな?)通院は3ヶ月に一度となった。
ホルモン剤を毎日服用し、通院のたびに腹にホルモン剤を注射していた。
ホルモン剤のおかげで、いろんな副作用(と私は今になって思っている)に見舞われている。
1:身体中に赤い発疹が出て、痒くなる
2:胸が膨らんで来た
3:9月頃にめまい、そして複視に。
4:体重が増えて来た。
(尤もこれはあらかじめネットで情報蒐集していたので、 減量のための食事法を採っていた)
5:筋力が衰えて階段登りがきつくなった
などなど
話は7年に及ぶので長くなる。続きは、気が向いたら書くことに。食事について書いてみようかと思ってますが、いつになったら気が向くか、期待しないでください。
あぁ、決意が書いてなかったなぁ。
決意は、死ぬまでガンと仲良く
お付き合いします。
これは、ガン宣告された時に、担当医に向かっていった言葉です。