2008年10月20日
小説『親鸞と真佛』(23)
霧
親鸞と真佛の話はまだ続いているのだが、私の目の前の二人が霧の中に消えていく。この庵に入る少し前の霧のときと同じようにすべてのものが消えていくのだ。私はまだ核心を聞いていはいない。親鸞と恵信尼がどのような生活を送っていたのかを聞いてはいないのだ。それになぜ親鸞が関東から帰洛した後は、恵信尼と別れて生きなければいけなかったことも聞いていないのだ。しかし、そんな私の思いをよそに、二人が目の前から消えていく。
どのくらい時間がたったのだろうか、霧が晴れていく。私の目の前にまた景色が戻ってくる。少しずつではあるが、目の前に。
最初私は、三条通りを歩いていた。その途中で霧の中に迷い込んだようになり、霧が晴れた時は鎌倉時代の洛中での親鸞と真佛の話しているところに行き着いた。そして今また現代の世に戻ってきた。現代に戻った私は、歩いてきたはずの三条通りではなく、喫茶店のようなところに私は座っているではないか。私の隣のテーブルには、若いカップルが楽しそうに話をしている。
私は、この喫茶店で長い夢でも見ていたのだろうか。たとえそれが夢であったとしても、それはそれでいい。これまで長く解けなかった疑問が一気に解決したのだ。
そんなには多くはないが、親鸞に関する論文を読んでいて疑問に思うことのひとつが、『なぜ女犯偈が書き残されたのか』ということに言及している論文に出会っていないことだ。人は何かを書き記すには、それなりの信条があるはずなのである。私は、『女犯偈』というものに出会ってより、なぜ親鸞は書き残したのだろうかと疑問に思っていたのだ。そして高田専修寺の真佛がそれを書写しているという論文にもであったが、真佛は親鸞のどの書き物から書き写したのかも疑問であったのだ。
この二つの疑問に答える論文には、ついぞ出会うことはなかった。単に、親鸞の真筆だ、偽作だ、といったことばかりが論争となる論説ばかりではないか。なぜ親鸞が書き残さねばならなかったのか、何故書いたのかを誰も論じていいない。
もっとも、資料のほとんど残っていない親鸞の心情などを論ずることは無理なのかもしれない。しかし、資料のない割には、いろいろ想像の上での論争が絶えない。想像で論争をするのなら、想像で親鸞の書き残した必然性を論じる説があってもいいと思うのだが。
私は、いろんな書物を読み、親鸞ゆかりの地を歩いて私なりに思うことがある。私が親鸞の立場ならどうしているだろうと考えて、京都を歩き、上越を歩き、下野高田から下妻あたりを歩いた。そして、その歩いた記憶を下にいろいろな論説を読み直してみて思うことは、論説に書かれていることとは違う親鸞の動きだ。
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ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
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