2008年09月28日
小説『親鸞と真佛』(1)
小説 『親鸞と真佛』
ここに示す書物は、村沢の資料・つまりは彼の残したコンピュータの中にある、親鸞に関する論文とは別のフォルダの中に残されていた。読んでみると、どうしても当然のように論文といえるものではなく、小説にするつもりでもあったのだろうか、ちょっとSFじみた書き方の書物である。
この後の『私』は村沢自身を意味しているのだろうと思う。
『親鸞と真佛』
なぜ『女犯偈』は書き残されたのか
・京都・三条通り
私は、いつものように親鸞旧跡を訪ねるために京都の三条通を歩いていた。親鸞は還暦を過ぎてから長く住み慣れた稲田(茨城県笠間市) を離れ京に戻っている。その時どうしたことか、これまた長く連れ添った妻・恵信尼と離別して単身(もっとも末娘の覚信尼がついてきているようだが)でのことだ。
いったい何が彼をそう仕向けたのかは、いろいろ学説はあるものの、どれも多くの人を納得させるに値するものではないと思う。しかし、彼は京に帰った。そして晩年の三十年近い年月、親鸞九十年の人生の約三分の一を京で送ったのだ。
その生活の場所がどこであったのかは、親鸞が関東集団に書き送った消息で一部を知ることはできるが、どうも一定の場所ではないように思われる。私の印象では京の街中、この三条通の西洞院から河原町の間と思われてならない。越後、下妻、稲田、あたりの生活はとても街中というところではなかっただろう。その反動として年老いた親鸞は、街中を晩年の生活の場としたように思えるのだ。
親鸞の生誕の場所が『善信聖人親鸞伝絵』(伝絵)などから日野(現在の山科区日野)とされているが、私は日野はあくまでも日野氏(藤原氏の傍系)の往年の別荘地でしかなく、実際には父親・日野有範の仕事(当時の皇太后の世話役)からいって生活の場は京都の市街、それもこの三条通ではなかったとさえ思っているのだ。だから、彼が晩年を生誕の場に戻ったとしても、何の不思議はないだろう。
そんな思いから、私は時々、その親鸞の思いをたどるべく三条通を散策している。
第1回 => 第2回
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ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
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