2008年10月18日
小説『親鸞と真佛』(21)
親鸞の結婚 5
私が親鸞の立場の思いをしているときにも、親鸞の話は続いている。
「真佛よ。そんなときに、三善様が恵信と私をあわせる計らいをされ。おそらくは、私の気持ちを慰めようとされたのであろう。これも弥陀のはからい。弥陀の計らいは奥が深いものじゃの」
「上人。左様でございますね。本当に奥が深いものが」
「真佛よ。それからしばらくして、三善様から恵信と夫婦になるようお勧めがあり、二人は晴れて添い遂げることができたのじゃ」
「上人。お二人の絆の強さがそうさせたものでございましょう。恵信尼様も喜ばれたことでございましょう」
「真佛よ。恵信も、そう申しておった。都で渡したあの『女犯偈』の文も持っておったぞ。あの文は何があっても誰にも渡すことはできぬと申してな。その先の私と恵信のことは、存じておろう」
「上人。すべてではございませんが。存じております。上人の流罪放免は、それからまだ数年先のことでございますね」
「真佛よ。さよう。玉日の浄土への旅立ちが、私の流人としての年月の中頃になるな。放免されるのが待ち遠しかったものだ。流されてから五年で放免になったものだが、同じときに恩師法然上人も許されたとのことを聞き及んで、すぐに都に行きお会いしたく思ったものだ。もちろんのこと、玉日の墓にも詣でたかったし、息子・範意の大きくなった姿にも接したかったしな。しかし、しばらく越後を離れることができず、時がずれたおかげで、私が都に着いたのは、恩師が浄土に旅立たれたときになってしまった。葬儀に参列したかったものの、宗門からは恩師の旅立ちを早めた因を持つ悪人として参列は許されなかった。悲しいことは続くものよな」
「上人。恩師の葬儀への参列も許されないとは、本当に辛うございますね」
親鸞は、越後から都に上ったときのことを真佛に語っているが、その話によると、赦免の報を受け取ったのは十一月(新暦では十二月)で、その年は雪が深く都への旅立ちが遅れた。雪の峠越えのために途中も日数を要した。都に着いたのは翌年の一月で法然上人が入滅した後だった。なんとか葬儀に参列したいと願い出たものの、拒否された、その後の法要にも参列を願うために、山科にあった九条家の所領にある庵を借り受けしばらくそこで世話になった。)この庵が後に真佛が後を引き継いだ興正寺のようである。作者・註)
幾度かの法要への参列願いと、その冬の雪の多さのために、親鸞の都での逗留は数ヶ月になったということだ。
この間に、当然玉日姫の墓に参り、愛息・範意ともしばらく過ごしたとのことである。玉日姫の墓は、九条家ゆかりの東福寺の一角に設けられていた法性寺小御堂におかれていた。
しかし、恩師法然の盛大な法要で執り行われたものは、法然の願い、説いてきたものとは違うものであり、幾分かは自力聖道門の流れをも含んでいたようだ。親鸞は、そうした法要のあり方への疑問と法要への参列拒否に嫌気がさし、数ヶ月後に越後に戻ったということだ。
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ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
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