2018年11月18日
悟り”って・・・ その9 無常と無我
今日11月18日日曜日
ある方のブログを拝見しました
そこに”諸行無常”という言葉が書かれていました。
それを読んで、思い出しました。
まぁ何回か記事にしたことが有ったはずですが
過去の記事を検索したら6年近く前に
「色即是空」について書いたついでに書いている
実は私が「無常と無我」というものを考えたのは
高校1年の時
学校で成人式(3年生がその対象)があって
その時の恩師・林嶺鳳先生の法話を聞いて
その夜に延々と日記を書きつつ考えたこと思い出す。
何を考えたのか?
私はよく言葉をかってに解釈しています
その一つに「無常と無我」があります
一般に「無常」とは
今あるものがそのままあるのではなく
いつか壊れていく
といった解釈がされる
平家物語の冒頭
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理を表す
から来ているのか、それともそれが本来の意味なのかは
私はよく理解していない。難しい仏教用語なのだろう
とまぁこんなことを16歳の生意気な坊主が考えて事
あの夜は徹夜だったなぁ。。。。
そして自分の記憶を遡って
2歳の時まで行き着いた
そのおかげで今でもその2歳の記憶が瞬間的だが
映像として頭に描ける
難しい話はさておいても
こんな事を考えたというのは
やっぱり私の血の中になんか変なもんながなれていた、いると
今になって思う
小学校のころに
家に有った宗教書や哲学書を読んだり
変なガキだったんだと
それが今では変なジジイになったと
考えればもう60年近くも前の話なんだ。。。。 年取ったなぁ
ある方のブログを拝見しました
そこに”諸行無常”という言葉が書かれていました。
それを読んで、思い出しました。
まぁ何回か記事にしたことが有ったはずですが
過去の記事を検索したら6年近く前に
「色即是空」について書いたついでに書いている
実は私が「無常と無我」というものを考えたのは
高校1年の時
学校で成人式(3年生がその対象)があって
その時の恩師・林嶺鳳先生の法話を聞いて
その夜に延々と日記を書きつつ考えたこと思い出す。
何を考えたのか?
私はよく言葉をかってに解釈しています
その一つに「無常と無我」があります
一般に「無常」とは
今あるものがそのままあるのではなく
いつか壊れていく
といった解釈がされる
平家物語の冒頭
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理を表す
から来ているのか、それともそれが本来の意味なのかは
私はよく理解していない。難しい仏教用語なのだろう
私の勝手な解釈は
”無常”=「常でない」=「時の流れ」
解釈している
まぁ無理な解釈ではないともう。
その時間の流れが「哀れ」的なものを示しているのかもしれない
そして
”無我”は、一般的に「自分自身を離れた」のような
そんな印象の解釈が仏語の意味のように聞く
この”無我”の私の勝手解釈は
”無我”=「私でない」=「私一人でない」という
とんでもない解釈なのである。
以上の私の勝手な「無常と無我」を展開すると
無我というのは、その時の私が絡んでいる人々
これは何も面と向かっている必要もなく
周りにいる必要もなく
本であったり、テレビであったり
今でならネットであったり
とにかく何らかの関連がある人々を言う
これらの人のつながりの横糸 とする
無常とは
時の流れの流れの縦糸とする
そして
この「時の流れ」という縦糸と
「自分でない」という横糸で
織りなされる大きな布と考える
そしてその大きな布を私は背負って
まるでマントを背負っているがごとく
生きているのだ
ということで
今の瞬間 実際に唯一人でいるけど
それは「無常と無我」を背負っているので
一人ぼっちではない
か思うのだ
そして何に付け
その大きな布が今の私を作り上げている
と考えている
さらには、
無我は、
この私が今この世に存在することになる原因がある
その原因の原因がある
延々とその原因は遡る
何にしたところで
私は私だけではないのだ
とまぁこんなことを16歳の生意気な坊主が考えて事
あの夜は徹夜だったなぁ。。。。
そして自分の記憶を遡って
2歳の時まで行き着いた
そのおかげで今でもその2歳の記憶が瞬間的だが
映像として頭に描ける
難しい話はさておいても
こんな事を考えたというのは
やっぱり私の血の中になんか変なもんながなれていた、いると
今になって思う
小学校のころに
家に有った宗教書や哲学書を読んだり
変なガキだったんだと
それが今では変なジジイになったと
考えればもう60年近くも前の話なんだ。。。。 年取ったなぁ
2018年10月19日
悟り”って・・・ その7 親鸞 その2 女犯偈・続き
悟りって何?と考え始めて、ブログに書いていらたら話がずれていって、親鸞の話になってしまった。と言っても、全く関係がないわけではなく、前回書いた”女犯偈”は、ある種の親鸞の悟りと思っている。というのは、この”女犯偈”の考え方というか、そのそこにある考え方が親鸞の生涯に通じた考えの根本ではないかって思っているんです。
親鸞は、一般的に言われていることは”僧侶として日本で最初に妻帯した人”なのだが、まぁこれは完全に建前の話で、妻という座ではなくても、今の時代で言う”内縁”の妻状態の女性を持つ僧侶は当たり前の時代だったと聞きます。いまぁ、今でも宗派によっては妻帯するとその宗派の幹部にはなれないとその宗派の幹部になられた方から伺ってます。
要は、この時代妻帯すると僧侶ではなくなるということで、僧侶のままで妻帯なんて言うのはもってのほか、これを法然と九条兼実が図って親鸞に”妻帯しろ”って言うもんだから、泣く泣くかどうかはわからんけど妻帯したことに表向きなっている(らしい)。
しかし、私は法然と兼実の謀もあるけど、それとは別に親鸞自身が惚れ込んだ女性がいたと思っているし、それが妻となった”恵信尼”だと思っている。
しかし、法然と兼実が推した女性は恵信尼ではなく、親鸞聖人正明伝によれば兼実の娘”玉日”ということになっていて、親鸞はその玉日と結婚したことになっている。
が、私はこの時親鸞は恩師の法然と当時の関白兼実(比叡山の天台座主・慈円の兄)の指示に従って妻帯したものの、それとは別なところで後に結ばれることになる恵信尼と交際があったと思っている。
親鸞は、妻帯したことも遠因になって、承元の法難の際に現在の上越市の居多ヶ浜に流されている(流刑)。ここで玉日とは縁が切れたのかも。京都の伏見区の藤森の西岸寺の玉日の墓には、親鸞が後に上越から持ってきたという石があるから流されていた(流刑地にいる)ころに死別したと思われる。その後恵信尼と結ばれたと私は思っている。
要は、実際に玉日を妻としたものの、恵信尼とは続いていたかと思ったりもする。
まぁ、お叱りを受けるとは思いますが、親鸞と恵信尼が結ばれる際に、親鸞が恵信尼にプロポーズして、迷う恵信尼に決断をさせるために”女犯偈”を思いついてそれを文にして渡したと思っている。詰まりは”女犯偈”は恵信尼に向けてのラブレターの一部だったと私は思っているんです。
では,それがなぜ親鸞の”悟り”なのか?ということになるんですが、正式な古文書に見受けられるものではない話なので、そのあたりはご承知ください。
一般的に男として、異性と結ばれたいというのは自然のなす事と思う。しかし、平安期の僧侶は基本的に妻帯のみならず女性との交わりはご法度なのだ。この制度みたいなものに疑問を持つのも不思議でない。そこから考えていくと、女犯を禁じたのは一体その経典で、誰が言い出したことなのかというところまで行くのも当然かと思う。大本の釈迦、ゴータマ・シッダルタが悟りを開いたその中に”女犯禁止”があるのか?となると、これはすべての経典を読まねばならなくなるが、それは無理な話。親鸞は一切経を読破したといわていはいるが。。。。
で、経典に書かれているかどうかは私にはわからないが、過去に妻帯していたお釈迦さんが家族をおいて出家(これ家出だよな?)して、あちこち歩いて祇園精舎で悟りを開いたと大雑把な話ではこうなっている。だから悟りを開いたときには独身だったということで、”悟りを開くためには独身であれ”ということになったのかもしれない。
とはいうものの、僧侶だって人間です。自然の欲求を完璧に抑えるなんてことはまず無理でしょう。その人間の本来の姿として「男女の交わりを制限するのはいかがなものか」と私が親鸞の立場なら思う。思ったらそれを実現するだけの信念を親鸞は持っていたんでしょうね。
親鸞は、流刑になってより僧籍(公の僧侶の資格)を剥奪されているから、本当の僧侶ではないということになってしまっている。
親鸞の逸話には、女性に絡むものが結構あるが、そうした話が残っているということは、親鸞が根底から宗教上の男女の平等を訴えていたのではないかって思ってます。だからこそ妻帯=結婚を表に出したのだと思うんですね。
ということで、大雑把な話で恐縮ですが、”宗教上の男女平等”のみならず、人間生活の中での男女平等を考えの根本にしてと思っているんです。なので、この”男女平等”ということが親鸞の悟りで、それを根本の考えとして、彼の思う仏教を広めていったとお思ってます。
親鸞は、一般的に言われていることは”僧侶として日本で最初に妻帯した人”なのだが、まぁこれは完全に建前の話で、妻という座ではなくても、今の時代で言う”内縁”の妻状態の女性を持つ僧侶は当たり前の時代だったと聞きます。いまぁ、今でも宗派によっては妻帯するとその宗派の幹部にはなれないとその宗派の幹部になられた方から伺ってます。
要は、この時代妻帯すると僧侶ではなくなるということで、僧侶のままで妻帯なんて言うのはもってのほか、これを法然と九条兼実が図って親鸞に”妻帯しろ”って言うもんだから、泣く泣くかどうかはわからんけど妻帯したことに表向きなっている(らしい)。
しかし、私は法然と兼実の謀もあるけど、それとは別に親鸞自身が惚れ込んだ女性がいたと思っているし、それが妻となった”恵信尼”だと思っている。
しかし、法然と兼実が推した女性は恵信尼ではなく、親鸞聖人正明伝によれば兼実の娘”玉日”ということになっていて、親鸞はその玉日と結婚したことになっている。
が、私はこの時親鸞は恩師の法然と当時の関白兼実(比叡山の天台座主・慈円の兄)の指示に従って妻帯したものの、それとは別なところで後に結ばれることになる恵信尼と交際があったと思っている。
親鸞は、妻帯したことも遠因になって、承元の法難の際に現在の上越市の居多ヶ浜に流されている(流刑)。ここで玉日とは縁が切れたのかも。京都の伏見区の藤森の西岸寺の玉日の墓には、親鸞が後に上越から持ってきたという石があるから流されていた(流刑地にいる)ころに死別したと思われる。その後恵信尼と結ばれたと私は思っている。
要は、実際に玉日を妻としたものの、恵信尼とは続いていたかと思ったりもする。
まぁ、お叱りを受けるとは思いますが、親鸞と恵信尼が結ばれる際に、親鸞が恵信尼にプロポーズして、迷う恵信尼に決断をさせるために”女犯偈”を思いついてそれを文にして渡したと思っている。詰まりは”女犯偈”は恵信尼に向けてのラブレターの一部だったと私は思っているんです。
では,それがなぜ親鸞の”悟り”なのか?ということになるんですが、正式な古文書に見受けられるものではない話なので、そのあたりはご承知ください。
一般的に男として、異性と結ばれたいというのは自然のなす事と思う。しかし、平安期の僧侶は基本的に妻帯のみならず女性との交わりはご法度なのだ。この制度みたいなものに疑問を持つのも不思議でない。そこから考えていくと、女犯を禁じたのは一体その経典で、誰が言い出したことなのかというところまで行くのも当然かと思う。大本の釈迦、ゴータマ・シッダルタが悟りを開いたその中に”女犯禁止”があるのか?となると、これはすべての経典を読まねばならなくなるが、それは無理な話。親鸞は一切経を読破したといわていはいるが。。。。
で、経典に書かれているかどうかは私にはわからないが、過去に妻帯していたお釈迦さんが家族をおいて出家(これ家出だよな?)して、あちこち歩いて祇園精舎で悟りを開いたと大雑把な話ではこうなっている。だから悟りを開いたときには独身だったということで、”悟りを開くためには独身であれ”ということになったのかもしれない。
とはいうものの、僧侶だって人間です。自然の欲求を完璧に抑えるなんてことはまず無理でしょう。その人間の本来の姿として「男女の交わりを制限するのはいかがなものか」と私が親鸞の立場なら思う。思ったらそれを実現するだけの信念を親鸞は持っていたんでしょうね。
親鸞は、流刑になってより僧籍(公の僧侶の資格)を剥奪されているから、本当の僧侶ではないということになってしまっている。
親鸞の逸話には、女性に絡むものが結構あるが、そうした話が残っているということは、親鸞が根底から宗教上の男女の平等を訴えていたのではないかって思ってます。だからこそ妻帯=結婚を表に出したのだと思うんですね。
ということで、大雑把な話で恐縮ですが、”宗教上の男女平等”のみならず、人間生活の中での男女平等を考えの根本にしてと思っているんです。なので、この”男女平等”ということが親鸞の悟りで、それを根本の考えとして、彼の思う仏教を広めていったとお思ってます。
2018年10月13日
悟り”って・・・ その6 親鸞 その2 女犯偈
今回も親鸞の話。
新宗教団の方には、”親鸞聖人”と言わないとお叱りを受けることがありました。”聖人”を"上人”と書いてもお叱りを受けます。その点はよく理解をしていますが、それをあえて無視して単に”親鸞”という表現をさせていただきます。
今回は”女犯偈”に絞っての話です。
ご存じない方のために伝えられている女犯偈の偈文を下に書いておきます。
これは和訳すると
行者(この場合は親鸞)が
前世の因縁で女犯(女性と交わる)事になったときは
私(ここでは観音菩薩)が
そのs女性の身代わりとなって受け入れよう
そして行者の一生を清らかなものとして
臨終に際しては浄土へ迎え入れよう
と、まぁ凡人からするとなんとも虫のいい話ということになりそうなのだ。親鸞がこの偈文を夢で見たのは、京都烏丸・六角にある頂法寺(池坊のご本家)の六角堂で、年齢は29歳のときだった。この時代の仏教界は、実際には有名無実になっていたが僧侶は女性と交わることは禁止されていた。そんなときに三十路になろうという親鸞はどうも悩みに悩んだと見受けられる。
このあたりは正式な文書が残っているわけではないので、小説や論文でかなり色んな話が書かれている。それに倣って私も私の思いをお持つことになって、それを書くことにする。
親鸞は”三夢記”というもので3つの大きな夢を診たと言われている(これは親鸞の奥さんの恵信尼さんが書き残した文に書かれているらしい)。一つは19歳のとき法隆寺にいったときについでに立ち寄った大阪府太子町の聖徳太子廟で、聖徳太子が夢に現れて”お前の命は後10年”と病気でもあるまいに余命宣告、そしてその10年後の29歳になって、また夢を見て観音菩薩(六角堂の本尊は如意輪観音だけど関連はわかんない)が現れて、”お前の願望を満足させよう”みたいな事を言ったと。それで、比叡山を下りて六角堂にこもって念仏三昧だったのかな?そして90日目に3つ目の夢で今度は救世観音が現れて、件の女犯偈の偈文を言ったと言われている。
まぁ最初の余命宣告は、”命短いからシッカリ修行せよ”ってことかもしれないけど、2つ目、そして最後の女犯偈は虫がいい夢と言われそうだ。とにかく願望=夢の達成を観音菩薩が保証してくれたということなんでしょう。そうありたいという親鸞の心の中が見えそうだ。
で、本題です。なんで親鸞は女犯偈を夢に見ることになったのか?そして、なぜこんな危険な偈文が世の残っているのかという疑問を私は持つに至った。
つらつら、いろいろ考えていたなぁ。親鸞研究、追っかけを始めてから10年位ったのかな?親鸞に習って夢を見たのです。
女犯偈の戯文が後世に残ったのは、信州教団”高田派”の開祖・真仏が書写したと一般に言われている。実際には恵信尼さんが親鸞からもらった偈文を長く持っていて、それを親鸞が浄土に旅立ったのを機に末娘の覚信尼に送ったことになっているが、それは現存しない(と言われている)。では、真仏は何を見て書写したのか?通説になっているのは、親鸞自身が書いたものを配ったらしく、それを書写したと言われている。これも、それを証明する証拠の存在はわからんのだ。
そこで私は、真仏が親鸞に会いに上洛した際に親鸞との話の中で、親鸞・恵信尼の馴れ初めの話となり、そこで女犯偈も話題に登り、「その席で真仏が書き取ったと」解釈した。
実は、この私の解釈は、現実の生活の中で生まれたものではなく、ある夜の夢の中で見たものなのだ。その夢を見たときに、何故かその場で起き出してPCに向かって、小説をかきあげてしまった。
とまぁ,今回も支離滅裂な話で、夢ばかりで申し訳なく思います。それに、まだ「親鸞が女犯偈を恵信尼書いたのか?」については書いていません。これは、次回ということにします。あしからず。
新宗教団の方には、”親鸞聖人”と言わないとお叱りを受けることがありました。”聖人”を"上人”と書いてもお叱りを受けます。その点はよく理解をしていますが、それをあえて無視して単に”親鸞”という表現をさせていただきます。
今回は”女犯偈”に絞っての話です。
ご存じない方のために伝えられている女犯偈の偈文を下に書いておきます。
行者宿報設女犯
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽
これは和訳すると
行者(この場合は親鸞)が
前世の因縁で女犯(女性と交わる)事になったときは
私(ここでは観音菩薩)が
そのs女性の身代わりとなって受け入れよう
そして行者の一生を清らかなものとして
臨終に際しては浄土へ迎え入れよう
と、まぁ凡人からするとなんとも虫のいい話ということになりそうなのだ。親鸞がこの偈文を夢で見たのは、京都烏丸・六角にある頂法寺(池坊のご本家)の六角堂で、年齢は29歳のときだった。この時代の仏教界は、実際には有名無実になっていたが僧侶は女性と交わることは禁止されていた。そんなときに三十路になろうという親鸞はどうも悩みに悩んだと見受けられる。
このあたりは正式な文書が残っているわけではないので、小説や論文でかなり色んな話が書かれている。それに倣って私も私の思いをお持つことになって、それを書くことにする。
親鸞は”三夢記”というもので3つの大きな夢を診たと言われている(これは親鸞の奥さんの恵信尼さんが書き残した文に書かれているらしい)。一つは19歳のとき法隆寺にいったときについでに立ち寄った大阪府太子町の聖徳太子廟で、聖徳太子が夢に現れて”お前の命は後10年”と病気でもあるまいに余命宣告、そしてその10年後の29歳になって、また夢を見て観音菩薩(六角堂の本尊は如意輪観音だけど関連はわかんない)が現れて、”お前の願望を満足させよう”みたいな事を言ったと。それで、比叡山を下りて六角堂にこもって念仏三昧だったのかな?そして90日目に3つ目の夢で今度は救世観音が現れて、件の女犯偈の偈文を言ったと言われている。
まぁ最初の余命宣告は、”命短いからシッカリ修行せよ”ってことかもしれないけど、2つ目、そして最後の女犯偈は虫がいい夢と言われそうだ。とにかく願望=夢の達成を観音菩薩が保証してくれたということなんでしょう。そうありたいという親鸞の心の中が見えそうだ。
で、本題です。なんで親鸞は女犯偈を夢に見ることになったのか?そして、なぜこんな危険な偈文が世の残っているのかという疑問を私は持つに至った。
つらつら、いろいろ考えていたなぁ。親鸞研究、追っかけを始めてから10年位ったのかな?親鸞に習って夢を見たのです。
女犯偈の戯文が後世に残ったのは、信州教団”高田派”の開祖・真仏が書写したと一般に言われている。実際には恵信尼さんが親鸞からもらった偈文を長く持っていて、それを親鸞が浄土に旅立ったのを機に末娘の覚信尼に送ったことになっているが、それは現存しない(と言われている)。では、真仏は何を見て書写したのか?通説になっているのは、親鸞自身が書いたものを配ったらしく、それを書写したと言われている。これも、それを証明する証拠の存在はわからんのだ。
そこで私は、真仏が親鸞に会いに上洛した際に親鸞との話の中で、親鸞・恵信尼の馴れ初めの話となり、そこで女犯偈も話題に登り、「その席で真仏が書き取ったと」解釈した。
実は、この私の解釈は、現実の生活の中で生まれたものではなく、ある夜の夢の中で見たものなのだ。その夢を見たときに、何故かその場で起き出してPCに向かって、小説をかきあげてしまった。
とまぁ,今回も支離滅裂な話で、夢ばかりで申し訳なく思います。それに、まだ「親鸞が女犯偈を恵信尼書いたのか?」については書いていません。これは、次回ということにします。あしからず。
2018年10月12日
”悟り”って・・・ その6 親鸞 その1
前回の”悟り”って・・・ その5”の最後に、「次回は親鸞について書こうか」と書いている。その親鸞について思うことを書くことにしようと。
実は、親鸞に関しては、もう20年近く前から”親鸞は何を言おうとしていたのか?”ということで本を漁っていろんな知識を得、それを自分なりに整理してみようと数年かけて考えていた。そのために”親鸞の追っかけ”と称して、親鸞の歩いた道をできる範囲でたどってみたりもしている。
一番最初に訪れたのが、京都山科区の法界寺だ。この寺は、親鸞が生まれたところと言われているので、どんなところだろうかと5月の雨上がりの日にでかけた。また新潟の上越市(親鸞が流されたところ)やら、栃木県の高田専修寺にも言っている。この話はまた別に。
なぜ、そんなことを始めたのか?それは、始める切っ掛けになった年の数年前から、親類縁者の葬儀やら法事やらが重なり、演者の殆どが本願寺系の檀家でああったことで、法要のたびに”正信偈”なるものを唱和する。何度も聞いていると時折理解できる単語が耳に入ってくるようになる。まぁ”門前の小僧経を覚える”に近いかもしれない。
そしてある時、何故か”げんくう”という単語が耳に入ってきた。ん??と思い、手元に回されている正信偈の冊子の漢字を追っかけてみた。そこには"源空”とかかれていたのだ。ご存じない方のために、源空は浄土宗の開祖法然の僧名である。(法然は坊名)死者の法要の際になぜ法然さんが出てこなければいけないのかが不思議だった。
つまり、それまで正信偈を仏教経典と思っていたし、漢文で書かれたものをそのまま読むだけで意味なんて考えてもいなかった。そこに源空が出てきて、なんだ???ということになり、正信偈ってなんだ?から始まって、親鸞のことを調べ始めた。
実は、子供の頃。いくつくらいだったか確たる記憶はないけど、どこかのおばあちゃんが私に向かって”おみゃぁさん親鸞さんみたぁだね”って言ったんです。なぜそんなこと言ったのかは全くわからない。子供の頃に親鸞たる単語すら頭になかったし。しかし、何故かそのお言われたことが気になって、それが75歳になる今でも気になっている。
そんなこと持ったことから、親鸞につてい調べてみるかってことになった。
どれだけの書籍を読んだかな?多くは断捨離の関係で処分してしまっているけどね。小説あり、論説あり、経典あり。いろんなものから親鸞像を描きたかったのだが、私の求める資料は出てこなかった。
正信偈も漢文はわかんないから和訳の方を読んだりしたし、浄土三部経も和訳を読んだ。しかし、歎異抄だけは読み始めて少し経ってから読むのをやめた。理由はいたって単純で、親鸞の書いたものではない、それに親鸞が残したものの中に出てこないものが書き並んでいると判断したから。
これらの書籍を読んで知ったのが「親鸞三夢記」で、この中に”女犯偈”なる物が出てくる。で、そこでその女犯げをなぜ親鸞が残したのか?ということがあ大きな疑問の一つとなってきた。
この女犯偈をかんがえると、これこそが親鸞の考えの根本かもしれないと思うようになった。今もそう思っている。一種の親鸞の悟りと思うんだけど。
書き始めると、これまたつらつら長くなるので、読んでもらえそうないので、細切れにして、またシリーズにするかな?読んでももらえなくてもいいけど、ただ親鸞についてこういう事を考えた人間いたということだけを残そうと思う。
またいずれ気が向いたら書きます。
実は、親鸞に関しては、もう20年近く前から”親鸞は何を言おうとしていたのか?”ということで本を漁っていろんな知識を得、それを自分なりに整理してみようと数年かけて考えていた。そのために”親鸞の追っかけ”と称して、親鸞の歩いた道をできる範囲でたどってみたりもしている。
一番最初に訪れたのが、京都山科区の法界寺だ。この寺は、親鸞が生まれたところと言われているので、どんなところだろうかと5月の雨上がりの日にでかけた。また新潟の上越市(親鸞が流されたところ)やら、栃木県の高田専修寺にも言っている。この話はまた別に。
なぜ、そんなことを始めたのか?それは、始める切っ掛けになった年の数年前から、親類縁者の葬儀やら法事やらが重なり、演者の殆どが本願寺系の檀家でああったことで、法要のたびに”正信偈”なるものを唱和する。何度も聞いていると時折理解できる単語が耳に入ってくるようになる。まぁ”門前の小僧経を覚える”に近いかもしれない。
そしてある時、何故か”げんくう”という単語が耳に入ってきた。ん??と思い、手元に回されている正信偈の冊子の漢字を追っかけてみた。そこには"源空”とかかれていたのだ。ご存じない方のために、源空は浄土宗の開祖法然の僧名である。(法然は坊名)死者の法要の際になぜ法然さんが出てこなければいけないのかが不思議だった。
つまり、それまで正信偈を仏教経典と思っていたし、漢文で書かれたものをそのまま読むだけで意味なんて考えてもいなかった。そこに源空が出てきて、なんだ???ということになり、正信偈ってなんだ?から始まって、親鸞のことを調べ始めた。
実は、子供の頃。いくつくらいだったか確たる記憶はないけど、どこかのおばあちゃんが私に向かって”おみゃぁさん親鸞さんみたぁだね”って言ったんです。なぜそんなこと言ったのかは全くわからない。子供の頃に親鸞たる単語すら頭になかったし。しかし、何故かそのお言われたことが気になって、それが75歳になる今でも気になっている。
そんなこと持ったことから、親鸞につてい調べてみるかってことになった。
どれだけの書籍を読んだかな?多くは断捨離の関係で処分してしまっているけどね。小説あり、論説あり、経典あり。いろんなものから親鸞像を描きたかったのだが、私の求める資料は出てこなかった。
正信偈も漢文はわかんないから和訳の方を読んだりしたし、浄土三部経も和訳を読んだ。しかし、歎異抄だけは読み始めて少し経ってから読むのをやめた。理由はいたって単純で、親鸞の書いたものではない、それに親鸞が残したものの中に出てこないものが書き並んでいると判断したから。
これらの書籍を読んで知ったのが「親鸞三夢記」で、この中に”女犯偈”なる物が出てくる。で、そこでその女犯げをなぜ親鸞が残したのか?ということがあ大きな疑問の一つとなってきた。
この女犯偈をかんがえると、これこそが親鸞の考えの根本かもしれないと思うようになった。今もそう思っている。一種の親鸞の悟りと思うんだけど。
書き始めると、これまたつらつら長くなるので、読んでもらえそうないので、細切れにして、またシリーズにするかな?読んでももらえなくてもいいけど、ただ親鸞についてこういう事を考えた人間いたということだけを残そうと思う。
またいずれ気が向いたら書きます。
2018年09月18日
”悟り”って・・・ その5
”悟り”を考えてみるもののまとまりの方向は一向にない。当然のことで、私の中に迷いが充満しているわけで、それこそ悟りなんことが無理とわかっている。
それでも、なんとか少しでも悟りに近いものを思えないかという欲求もあるのだが、今度はその欲求自体が”煩悩”なんて言われてしまいそうで、堂々巡りになかに入る。輪廻ですね。
”輪廻” まぁ同じところをぐるぐる廻るということなんでしょう。これは”鬱”になっていく原因の一つでもありそうで。私はそれに気づいて、落ち始めると無理やり止めることにしてはいけど、今回はぐるぐる廻っても、落ち込みはしないだろうと続けている。
仏教の”悟り”の話から”輪廻”を考えるとどうしても”仏教の根本”を意識しなくてはならないのでどうしようか迷うところ。経典を読むなんてことは今更無理だし、読んでもおそらくちんぷんかんぷんで、それに勝手な解釈をしたら、またご指摘を受けることにもなるだろうし。。。
とはいえ、”悟り”言うことだ自体が仏教用語だから、避けて通ることはできないようだなぁ。。
英語でなんていうかネット検索したら、訳語にすると”目覚める”っていうのが一番多かったかな。まぁ”目覚める””知る”っていう解釈をしているようだ。それで十分じゃぁないかとお思う。
では、もう一つ突っ込んで”目覚める”って、何に”目覚める”のだ?
ここまで来ると、人の数だけ言うことが違ったりしないか?寝て起きて”目覚める”ということなら万人同じだろうけど、物事、事象、状態、心などに目覚めるとなると、それを体現している人それぞれの、そのそれぞれの生きてきた過去の経験やら、教育やらにかなり左右されるから、その組み合わせとなると、完全に一致するのはないといっても過言ではないだろう。
で、その”目覚め”なるものをいかに悟りに結びつかるか。もう哲学に話で、凡人の私には無理だと思うけど、やりかかったんで無理やり続ける。
凡人にとっては、何に目覚めてもいいんではないか?とにかく何かに目覚めて、なにかに気づいて、それが生きていく糧になったり、生きている糧になったりするだけでいいように思う。
何も釈迦、ブッダ、釈尊、のような悟りを求める必要もないように思う。そりゃ輪廻転生からの解脱を目指す悟りを開きたいという向きには、それなりの考えがいるんかもしれんけど、それが理解できないからってねぇ。。。。。
どうもまた”他力”の考えが頭に出てきた。染み付いた他力は抜けられないんだなぁ。これから解脱せんといかんのかも。でも、浄土三部経の和訳を読んで、はまり込んでしまったからなぁ。
まぁ、今の私は”輪廻転生からの解脱”は、阿弥陀さんにおまかせすることにします。
かなり支離滅裂だな、今回も。これが私という証明でもあるんだけどねぇ。
今度は、ちょいと話しの向きを変えて、親鸞の”夢記”を考えてみるかも。
それでも、なんとか少しでも悟りに近いものを思えないかという欲求もあるのだが、今度はその欲求自体が”煩悩”なんて言われてしまいそうで、堂々巡りになかに入る。輪廻ですね。
”輪廻” まぁ同じところをぐるぐる廻るということなんでしょう。これは”鬱”になっていく原因の一つでもありそうで。私はそれに気づいて、落ち始めると無理やり止めることにしてはいけど、今回はぐるぐる廻っても、落ち込みはしないだろうと続けている。
仏教の”悟り”の話から”輪廻”を考えるとどうしても”仏教の根本”を意識しなくてはならないのでどうしようか迷うところ。経典を読むなんてことは今更無理だし、読んでもおそらくちんぷんかんぷんで、それに勝手な解釈をしたら、またご指摘を受けることにもなるだろうし。。。
とはいえ、”悟り”言うことだ自体が仏教用語だから、避けて通ることはできないようだなぁ。。
英語でなんていうかネット検索したら、訳語にすると”目覚める”っていうのが一番多かったかな。まぁ”目覚める””知る”っていう解釈をしているようだ。それで十分じゃぁないかとお思う。
では、もう一つ突っ込んで”目覚める”って、何に”目覚める”のだ?
ここまで来ると、人の数だけ言うことが違ったりしないか?寝て起きて”目覚める”ということなら万人同じだろうけど、物事、事象、状態、心などに目覚めるとなると、それを体現している人それぞれの、そのそれぞれの生きてきた過去の経験やら、教育やらにかなり左右されるから、その組み合わせとなると、完全に一致するのはないといっても過言ではないだろう。
で、その”目覚め”なるものをいかに悟りに結びつかるか。もう哲学に話で、凡人の私には無理だと思うけど、やりかかったんで無理やり続ける。
凡人にとっては、何に目覚めてもいいんではないか?とにかく何かに目覚めて、なにかに気づいて、それが生きていく糧になったり、生きている糧になったりするだけでいいように思う。
何も釈迦、ブッダ、釈尊、のような悟りを求める必要もないように思う。そりゃ輪廻転生からの解脱を目指す悟りを開きたいという向きには、それなりの考えがいるんかもしれんけど、それが理解できないからってねぇ。。。。。
どうもまた”他力”の考えが頭に出てきた。染み付いた他力は抜けられないんだなぁ。これから解脱せんといかんのかも。でも、浄土三部経の和訳を読んで、はまり込んでしまったからなぁ。
まぁ、今の私は”輪廻転生からの解脱”は、阿弥陀さんにおまかせすることにします。
かなり支離滅裂だな、今回も。これが私という証明でもあるんだけどねぇ。
今度は、ちょいと話しの向きを変えて、親鸞の”夢記”を考えてみるかも。
2018年09月15日
悟り”って・・・ その4の2
前回の「悟り”って・・・ その4の1の補足」(内容はこちら)で書いたように、仏教の中での”悟り”を考えているのではないということはおわかりいただけたかなと思うのですが。
人生の中で”悟る”ということが一体何なのか?おそらくまともに考えると、哲学者になれるかなって思います。
実は、私は幼少から小学校の間、身近に哲学書がたくさんありました。実の父親が学生の頃に勉強した書籍なんだろうと思うのですが、その辺は本人と話したことがないので全くわかりません。父は名古屋市にある仏教系の中学校で学び、僧侶となる資格を得ていたようです。
そして、戦争に行って死んでしまいましたが、生きて戻れば名古屋の某大きな寺を任されるとことになっていたとご先祖さんから聞いています。死んでしまったのでそれはなくなったですが、生きて戻ってきていたら、私は今頃”南無阿弥陀仏”を唱えていると思います。
で、私は、彼が残した哲学書を時折読んでいたようです。多分に知らないうちに哲学書に違和感を覚えない人間になっていたのかもしれません。ただ、母が宗教にかなり拒否感を持っていたので、それもある程度影響は受けているとは思いますが、父親の血のほうが買ったのかもしれません。と言って、哲学者になるなんて思ったことはないですが。まぁ、かなり終局的に哲学に近い”理論物理”をやりたいとは真剣に思っていたのですが、その夢叶わずでした。
そういったベースを持つ私ですが、何かにつけてモノの根本を考えようとする傾向があるらしいのです。なので今回の”悟り”も仏教の教えの中で言われる”悟り”=”解脱”はモノの根本とみなしていないのです。仏教の教えは”輪廻転生””六道”などがある前提で物を考えていると私は思ってますから、そういった前提ではなく、そのもととなった考え、つまりブッダ=釈迦はなぜ”解脱”を”悟り”と考えたのか?もっと突っ込んで”なぜ六道”なるものを考えたのかということなのです。
といって、今私が考える”悟り”は、それも頭にはなく。一人の人間として”自分の人生で何を悟るか”、”何を悟ったか”を考えるということです。
(
この”悟り”って・・・”というシリーズの記事の”その2”だったかな?私が55歳のときに思ったことを書いたのは、”自分の死”を実感したときのこと。
それから30年経って・今の私は何を悟ったのだろうて、自問しても、何も悟ってないなぁ。。。ていうのが現状の”悟り”かな?
まだ頭の中には、”人のため”を考えたこともあったというのが残ってます。いつか、これについて書いてみることにします。ただ、何時書くかはわかりません。
相変わらず支離滅裂でごめんなさい。
人生の中で”悟る”ということが一体何なのか?おそらくまともに考えると、哲学者になれるかなって思います。
実は、私は幼少から小学校の間、身近に哲学書がたくさんありました。実の父親が学生の頃に勉強した書籍なんだろうと思うのですが、その辺は本人と話したことがないので全くわかりません。父は名古屋市にある仏教系の中学校で学び、僧侶となる資格を得ていたようです。
そして、戦争に行って死んでしまいましたが、生きて戻れば名古屋の某大きな寺を任されるとことになっていたとご先祖さんから聞いています。死んでしまったのでそれはなくなったですが、生きて戻ってきていたら、私は今頃”南無阿弥陀仏”を唱えていると思います。
で、私は、彼が残した哲学書を時折読んでいたようです。多分に知らないうちに哲学書に違和感を覚えない人間になっていたのかもしれません。ただ、母が宗教にかなり拒否感を持っていたので、それもある程度影響は受けているとは思いますが、父親の血のほうが買ったのかもしれません。と言って、哲学者になるなんて思ったことはないですが。まぁ、かなり終局的に哲学に近い”理論物理”をやりたいとは真剣に思っていたのですが、その夢叶わずでした。
そういったベースを持つ私ですが、何かにつけてモノの根本を考えようとする傾向があるらしいのです。なので今回の”悟り”も仏教の教えの中で言われる”悟り”=”解脱”はモノの根本とみなしていないのです。仏教の教えは”輪廻転生””六道”などがある前提で物を考えていると私は思ってますから、そういった前提ではなく、そのもととなった考え、つまりブッダ=釈迦はなぜ”解脱”を”悟り”と考えたのか?もっと突っ込んで”なぜ六道”なるものを考えたのかということなのです。
といって、今私が考える”悟り”は、それも頭にはなく。一人の人間として”自分の人生で何を悟るか”、”何を悟ったか”を考えるということです。
(
いずれ、その気になったら”六道”も考えてみるかな?)
この”悟り”って・・・”というシリーズの記事の”その2”だったかな?私が55歳のときに思ったことを書いたのは、”自分の死”を実感したときのこと。
それから30年経って・今の私は何を悟ったのだろうて、自問しても、何も悟ってないなぁ。。。ていうのが現状の”悟り”かな?
まだ頭の中には、”人のため”を考えたこともあったというのが残ってます。いつか、これについて書いてみることにします。ただ、何時書くかはわかりません。
相変わらず支離滅裂でごめんなさい。
2018年09月15日
”悟り”って・・・ その4の1の補足
”悟り”について考えながら、いや頭に出てくるものをただ取り留めもなく書いているに過ぎないけど、その記事をお読みになった方からご教授賜りました。「”悟り”とは輪廻転生を解脱すること」と。
この点については、仏教の中での六道の輪廻から抜けるという話は知ってはいますが、あんまり気にしたこともないので、触れることはないかって思っていたんですが。。。
この「輪廻転生からの解脱」ということを悟りの目的(?)とするにしても、なぜこうした考えが必要なのか?という別な疑問が生じるんです。六道(天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の各道)を実際に経験した人がいるのか、と聞いても誰も”私が”は言わないと思います。
では、なぜ誰も体験したことのない六道を仏教の中で説くのか?こんな疑問も生じてきます。
だいたい、宗教というものを信じるのならば教えに対して疑問を持つことはご法度に近いかと思いますが、ときにそのご法度を破る宗教家が出てきて、宗教改革のようなものが生まれている。日本では法然、親鸞、日蓮などなど、キリスト教ではルターの宗教改革などがそれかなぁって歴史の授業の中で思ったことです。
で、私が今考えていることは、仏教の教えの中の”悟り”ではないのです。仏教の教えの悟りなら経典を勉強すればいいことですが、まさかこの年になって今更膨大な仏典をひっくり返して勉強するなんて気持ちはサラサラないし、もともと世の主流の流れに逆らって生きてきた私ですから、一切の教えを無視して、外から”悟り”ってなんだ?”悟り”ってなんだを考えているということです。
ということで、この先もその線に沿って”悟り”について数多の中に浮かんだことを書いていこうと思っています。
決して、宗教を否定するものではありません。心の中にひ必要なものでもあるかと思っているので。その点はご理科いたわりたいと思います。
この点については、仏教の中での六道の輪廻から抜けるという話は知ってはいますが、あんまり気にしたこともないので、触れることはないかって思っていたんですが。。。
この「輪廻転生からの解脱」ということを悟りの目的(?)とするにしても、なぜこうした考えが必要なのか?という別な疑問が生じるんです。六道(天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の各道)を実際に経験した人がいるのか、と聞いても誰も”私が”は言わないと思います。
では、なぜ誰も体験したことのない六道を仏教の中で説くのか?こんな疑問も生じてきます。
だいたい、宗教というものを信じるのならば教えに対して疑問を持つことはご法度に近いかと思いますが、ときにそのご法度を破る宗教家が出てきて、宗教改革のようなものが生まれている。日本では法然、親鸞、日蓮などなど、キリスト教ではルターの宗教改革などがそれかなぁって歴史の授業の中で思ったことです。
で、私が今考えていることは、仏教の教えの中の”悟り”ではないのです。仏教の教えの悟りなら経典を勉強すればいいことですが、まさかこの年になって今更膨大な仏典をひっくり返して勉強するなんて気持ちはサラサラないし、もともと世の主流の流れに逆らって生きてきた私ですから、一切の教えを無視して、外から”悟り”ってなんだ?”悟り”ってなんだを考えているということです。
ということで、この先もその線に沿って”悟り”について数多の中に浮かんだことを書いていこうと思っています。
決して、宗教を否定するものではありません。心の中にひ必要なものでもあるかと思っているので。その点はご理科いたわりたいと思います。
2018年09月14日
”悟り”って・・・ その4の1
”悟り”について考えていると
ものすごく面倒で、堂々巡りになったりする
ヘタすると鬱になりはしないかとさえ思うほど
まぁなんとか落ち込む寸前で止めるようにはしているが。。。
さて、本題
”悟り”とは、一体何を悟ればいいのか?
この問題を片付けないと、どうすればいいのかってこともわかんなくなるので、”悟り”を考える上での”前提条件”を作ったほうがいいかと思ったのだが。
そこで、この”前提条件”とすべきものをまず考えてみようと試みたのだが、これまたいろいろなものが頭に出てきて、整理するのが辛いなぁ。。。
まず最初に頭に出てきたのは、
”ブッダは何を悟ったのか?”ということと、
”なんのために悟りを開いたのか?”ということ。
こんな事考えてどうするんだってことになるけど、私の単純な頭では”ブッダは生きている人間が幸せに暮らすためにはどうするんだ”ってことではないかってこと。
こう考えたときに、また余計なことを考えてしまった。”なんでブッダはこんなこと考えた?”って。
こんなことばっかり芋づる式に思いが浮かぶから、纏まるわけがないのだが。
で、その芋づる式に考えたことは、”人が幸せに生きる”なんてことを考えたのは、ブッダ=釈迦が王族の出身だったからではないか?王族として、民衆が幸せに暮らせることを望むような環境に育ったからではないのか?私のように、貧乏で生きるために働かなくていけなくて、考えるなんて余裕のなかった人間が、他人様の幸せ考えるなんてないだろうと。
この考え自体が、貧乏人の僻み根性かぁって自分で思うけどねぇ。
まぁ、宗教というのは、私に言わせれば”法律のない時代に人がいがみ合わずに済む方法考える”ってことが始まりだったのではないかって。だから宗教的な悟りって”人間の幸せ”を考えるってことなのかなぁ?って。結論ではないけど、私はそんな思いを持ち始めたのかもしれない。
なんかとりとめもないこと書いているけど、ブッダが悟った結果はどうした?
それは、現在では”経典”、”お経”となっているものを残した(まぁ誰かが書き残した)、そしてその中身はというと、漢文の経典なんて読まれてもちんぷんかんぷんだけど、和訳されているものを読むと、それは多くが物語のようなもので、ブッダと弟子たちの会話だったり、ブッダが弟子たちを諭している言葉だったりしていると、私は思っているのだが。
これは、キリスト教の”旧約聖書”、”新約聖書”も同じで多くが物語だったり、詩だったりしているから、同じようなものではないかって思ったりもしている。
とりとめないなぁ。。。。。 とにかく数多に出てきたものを書き綴っただけです。
ものすごく面倒で、堂々巡りになったりする
ヘタすると鬱になりはしないかとさえ思うほど
まぁなんとか落ち込む寸前で止めるようにはしているが。。。
さて、本題
”悟り”とは、一体何を悟ればいいのか?
この問題を片付けないと、どうすればいいのかってこともわかんなくなるので、”悟り”を考える上での”前提条件”を作ったほうがいいかと思ったのだが。
そこで、この”前提条件”とすべきものをまず考えてみようと試みたのだが、これまたいろいろなものが頭に出てきて、整理するのが辛いなぁ。。。
まず最初に頭に出てきたのは、
”ブッダは何を悟ったのか?”ということと、
”なんのために悟りを開いたのか?”ということ。
こんな事考えてどうするんだってことになるけど、私の単純な頭では”ブッダは生きている人間が幸せに暮らすためにはどうするんだ”ってことではないかってこと。
こう考えたときに、また余計なことを考えてしまった。”なんでブッダはこんなこと考えた?”って。
こんなことばっかり芋づる式に思いが浮かぶから、纏まるわけがないのだが。
で、その芋づる式に考えたことは、”人が幸せに生きる”なんてことを考えたのは、ブッダ=釈迦が王族の出身だったからではないか?王族として、民衆が幸せに暮らせることを望むような環境に育ったからではないのか?私のように、貧乏で生きるために働かなくていけなくて、考えるなんて余裕のなかった人間が、他人様の幸せ考えるなんてないだろうと。
この考え自体が、貧乏人の僻み根性かぁって自分で思うけどねぇ。
まぁ、宗教というのは、私に言わせれば”法律のない時代に人がいがみ合わずに済む方法考える”ってことが始まりだったのではないかって。だから宗教的な悟りって”人間の幸せ”を考えるってことなのかなぁ?って。結論ではないけど、私はそんな思いを持ち始めたのかもしれない。
なんかとりとめもないこと書いているけど、ブッダが悟った結果はどうした?
それは、現在では”経典”、”お経”となっているものを残した(まぁ誰かが書き残した)、そしてその中身はというと、漢文の経典なんて読まれてもちんぷんかんぷんだけど、和訳されているものを読むと、それは多くが物語のようなもので、ブッダと弟子たちの会話だったり、ブッダが弟子たちを諭している言葉だったりしていると、私は思っているのだが。
これは、キリスト教の”旧約聖書”、”新約聖書”も同じで多くが物語だったり、詩だったりしているから、同じようなものではないかって思ったりもしている。
とりとめないなぁ。。。。。 とにかく数多に出てきたものを書き綴っただけです。
2018年09月01日
悟り”って・・・ その3
悟りについて
考え始めたら、もう訳がわかんなくなって。
ネットで”さとり 定義”で検索しても
確固たる話はなく、人それぞれいろんな考えを述べている
つまりは、一般の人間には”悟り”の定義は難しいということなんだろう
私は、友人のFBに書き込んだのは
”自分の身の程を知る”でいいじゃぁないのって。
ある定義による”真理を知る”ってことなんて
今度は”真理”ってなんだってことになってしまって
ぐるぐる回って落ちていくって感じだな
それに気づいたら
感がることやめると思う
まぁ若い時なら
学友たちと徹夜して論議をしただろうけど
今になって思えば
その論議自体が”不毛”に近いものだったのかもしれないって
でもなぁ
親鸞研究を始めてから
過去の有名人の言葉は
何を言おうとしていたのか? って考えたなぁ。
親鸞の生涯の中での大事件
”三夢記”と言われているものの中の”女犯偈”
それが一体何を意味し
なぜ書き残したのかって
結構長いこと考えたことがある
そして
その書き残したとされている
親鸞の弟子と言われる真仏がどうして書き残したのかってことも
ある時私は夢を見て
その全てを解決する(と勝手に思い込んだ)ストーリーを得た
それが本当であって欲しいと
小説まがいに書いたんだけどねぇ
それはこちらにあります。
下手な文章、文脈ですが、興味がおありでしたら、ご一読いただけると幸いです。
考え始めたら、もう訳がわかんなくなって。
ネットで”さとり 定義”で検索しても
確固たる話はなく、人それぞれいろんな考えを述べている
つまりは、一般の人間には”悟り”の定義は難しいということなんだろう
私は、友人のFBに書き込んだのは
”自分の身の程を知る”でいいじゃぁないのって。
ある定義による”真理を知る”ってことなんて
今度は”真理”ってなんだってことになってしまって
ぐるぐる回って落ちていくって感じだな
それに気づいたら
感がることやめると思う
まぁ若い時なら
学友たちと徹夜して論議をしただろうけど
今になって思えば
その論議自体が”不毛”に近いものだったのかもしれないって
でもなぁ
親鸞研究を始めてから
過去の有名人の言葉は
何を言おうとしていたのか? って考えたなぁ。
親鸞の生涯の中での大事件
”三夢記”と言われているものの中の”女犯偈”
それが一体何を意味し
なぜ書き残したのかって
結構長いこと考えたことがある
そして
その書き残したとされている
親鸞の弟子と言われる真仏がどうして書き残したのかってことも
ある時私は夢を見て
その全てを解決する(と勝手に思い込んだ)ストーリーを得た
それが本当であって欲しいと
小説まがいに書いたんだけどねぇ
それはこちらにあります。
下手な文章、文脈ですが、興味がおありでしたら、ご一読いただけると幸いです。
2018年08月30日
”悟り”って・・・ その2
”悟り”と言うのは、その定義によって中身が大きく違うのではないかと思う。仏教の世界には”悟り”と言う言葉が出てくるけど、キリスト教で”悟り”って聞いたことがないような。仏教でも密教やら禅宗やらと浄土教ではなんとなく違う。なので育った環境で、宗教的な”悟り”は大きく違うかもしれない。
しかし、一般的に生活の中で”悟る”と言うことはよく使われる。でも、会話が本当にまとものぶつかっているとは限らないのではないか。人それぞれの”悟り”の定義の差で本当は噛み合ってなかったりしてるかもしれない。
で、今回はそんなこととは無関係に、私が20年前に思ったことを書いてみることに。
今からほんと20年前、55歳の誕生日のこと。ふと自分の年齢を思った時、「年齢というのはこれまで生きてきた時間だけど、あぁこれまでと同じ時間生きることはできないのだ」と思った。いやその時は”悟った”と思った。つまり自分の死というものがいつかくることを悟った=実感したということなのだ。
この場合の”悟り”は、”知る”、”実感”、”理解”と言ってもいいかな。。。 かなり強引な自分勝手の解釈だけどね。
実はこの後、私は”ではどう残りを生きるか”をある程度考えるようになった。当時はまだまだ現役バリバリで、自分仕事をこなし、教職も2つ、いや3つこなしていたはず。なので、さほど深く考えたわけではないけど、”何か生きた証を残さねば”と思うよになったことは確か。
過去には、お力をいただいて出版したのが5冊あったけど、それは生きた証にはなるとは思うけど、小説などとは全く世界の違うもので、後世に残るものではない。なので”生きた証”にするのはちょいときついだろうって。。。
それからは生きた証を残すというよりも、生きることに精一杯だったこともあるけど。”証”なんて残せたものではない。
10年前に父を亡くし、そのおかげで残されたた私の仕事でない仕事をもこなさねばならなくなったところで、本業を上手くこなすことが無理になってしまった。その前に教職もそ遊行をしていたし、時間的な余裕を生んだ。そこで何か趣味を持たねばと、木彫りを始めた。
最初は、木彫りの範疇を決めないで、とにかくいろんなものに手を出したが、その中の一つに”円空仏”があった。円空仏を彫り始めてから、それに前から持っていた仏像拝観の趣味が一体化してきて、木彫りを始めた頃は無理と思っていた”十一面観音”の全身像に手を染めた。
そして、義弟、叔母、叔父をなくして、その弔いの気持ちを持つようになり、義弟の闘病期には病気平癒の願掛けを初めてした。このことから、自分の病気平癒、がん患者仲間の病気平癒を願う気持ちを込めて掘るようにもなった。
ただ、仏教の教え、教義云々は一切頭にない。ただただ自分の気持ちを込めているに過ぎないけど、その形を何かの仏などの形で表して自己満足の世界に入っている。
たまたま彫ったものをもらってくださった方に喜んでいただけるものあり、これでその方の中に私の”生きた証”が残るかなぁって思ったりもしている。
自分の彫っているときの気持ち、願いが叶うといいなぁとは思うなぁ。法蔵菩薩が48の”願”を成就して阿弥陀如来になったように。到底無理な話ですが。。。。。
今回は、20年前に私自身が”死”というものがいつか必ずくると、悟った(確信した)ことを書きました。
しかし、一般的に生活の中で”悟る”と言うことはよく使われる。でも、会話が本当にまとものぶつかっているとは限らないのではないか。人それぞれの”悟り”の定義の差で本当は噛み合ってなかったりしてるかもしれない。
で、今回はそんなこととは無関係に、私が20年前に思ったことを書いてみることに。
今からほんと20年前、55歳の誕生日のこと。ふと自分の年齢を思った時、「年齢というのはこれまで生きてきた時間だけど、あぁこれまでと同じ時間生きることはできないのだ」と思った。いやその時は”悟った”と思った。つまり自分の死というものがいつかくることを悟った=実感したということなのだ。
この場合の”悟り”は、”知る”、”実感”、”理解”と言ってもいいかな。。。 かなり強引な自分勝手の解釈だけどね。
実はこの後、私は”ではどう残りを生きるか”をある程度考えるようになった。当時はまだまだ現役バリバリで、自分仕事をこなし、教職も2つ、いや3つこなしていたはず。なので、さほど深く考えたわけではないけど、”何か生きた証を残さねば”と思うよになったことは確か。
過去には、お力をいただいて出版したのが5冊あったけど、それは生きた証にはなるとは思うけど、小説などとは全く世界の違うもので、後世に残るものではない。なので”生きた証”にするのはちょいときついだろうって。。。
それからは生きた証を残すというよりも、生きることに精一杯だったこともあるけど。”証”なんて残せたものではない。
10年前に父を亡くし、そのおかげで残されたた私の仕事でない仕事をもこなさねばならなくなったところで、本業を上手くこなすことが無理になってしまった。その前に教職もそ遊行をしていたし、時間的な余裕を生んだ。そこで何か趣味を持たねばと、木彫りを始めた。
最初は、木彫りの範疇を決めないで、とにかくいろんなものに手を出したが、その中の一つに”円空仏”があった。円空仏を彫り始めてから、それに前から持っていた仏像拝観の趣味が一体化してきて、木彫りを始めた頃は無理と思っていた”十一面観音”の全身像に手を染めた。
そして、義弟、叔母、叔父をなくして、その弔いの気持ちを持つようになり、義弟の闘病期には病気平癒の願掛けを初めてした。このことから、自分の病気平癒、がん患者仲間の病気平癒を願う気持ちを込めて掘るようにもなった。
ただ、仏教の教え、教義云々は一切頭にない。ただただ自分の気持ちを込めているに過ぎないけど、その形を何かの仏などの形で表して自己満足の世界に入っている。
たまたま彫ったものをもらってくださった方に喜んでいただけるものあり、これでその方の中に私の”生きた証”が残るかなぁって思ったりもしている。
自分の彫っているときの気持ち、願いが叶うといいなぁとは思うなぁ。法蔵菩薩が48の”願”を成就して阿弥陀如来になったように。到底無理な話ですが。。。。。
今回は、20年前に私自身が”死”というものがいつか必ずくると、悟った(確信した)ことを書きました。
2018年08月30日
”悟り” って・・・・ その1
学友でFB友のNNくんが「そろそろ悟りを求める修行を始めないと・・」という題のブログを書いた。それ読んで、”悟り”ねぇ。。。。って、考えてしまった。
だいたい”悟り”ってなんなんだ。”何かを悟る”って。。。
仏教の世界ではお釈迦さんが悟りを開いたことになっている。でも彼は最初その悟りを公表するつもりはなかったとか。しかし、梵天に諭されて広めることになったとも聞いている。
じゃぁその悟りってなんだ?となると、難解なのか知らないが、仏教の宗派の中で色々と違うようにも受け取れるし。。。。
日本では、平安の末期に浄土教が普及して法然や親鸞が説いて来た世界では”悟り”は一般の人間には必要なく、”ただただ阿弥陀に帰依する”ことで”浄土に生まれる”ということで、これが涅槃、成仏というとことで”成仏”すなわち悟りを開いたことになる、と私は教えられている。
しかし、浄土教の世界ではないところでは、自力で善行やらなんたらそれに修行することで”あとリロ開く=往生”必要があるらしい(これを”自力”というらしい)。まぁ、これを否定して”南無阿弥陀仏を唱えることで往生を遂げる(これを”他力”というらしい)ことができる。
まぁ、この話は”往生”つまり”極楽に行って生まれる”ことを悟りと言っているよなものだけど、この辺りは実際はかなり複雑で、細かいこというと本当は違うみたいだとな。”悟り”って意味がわかんないから。
教義の話は、本当の教育を受けていないから正直わからない。幼少の砌から浄土教の世界の中で育ったから、当然のように”南無阿弥陀仏”という言葉が染み付いているだけのことで。
しかし、もう20年近く前になるかな。ふとしたことから”親鸞研究”に入り込んで、そこで”法蔵菩薩”が48の願掛けをし長い時間かけて成就したことで阿弥陀仏になった”と知った。その48の願も一応読んだけど、最終的には”浄土教では18番だけでいい”と言うことになっている。
と言うことは、人は全て浄土に受け入れてもらえるんだって、ことになるわけで、ならば”阿弥陀さんを信じていればいい”と言うことになる。どうもこれが”南無阿弥陀仏”の意味らしい。
とは言うものの、私はその”南阿弥陀仏”を唱えないんだよなぁ。。。。
かなり”悟り”の話がずれて来たかのように思える。でも、”悟り”って”自覚すること”ではないのかな?浄土三部経の大無量寿経で法蔵菩薩が「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。(WikiArcより抜粋) 」と言うことを自覚すれば、言葉を変えれば理解すれば、またはそう思えば、それで極楽浄土に行ける、つまりそれで悟りとなる、って。。。安易すぎるかな?
滅多に考えないことで、書いている本人が何を書いているのかわからなくなって来た。ということで・ここでとりあえず一旦打ち込みをやめて、またしばらく考えてから、思うことを書くことにします。
だいたい”悟り”ってなんなんだ。”何かを悟る”って。。。
仏教の世界ではお釈迦さんが悟りを開いたことになっている。でも彼は最初その悟りを公表するつもりはなかったとか。しかし、梵天に諭されて広めることになったとも聞いている。
じゃぁその悟りってなんだ?となると、難解なのか知らないが、仏教の宗派の中で色々と違うようにも受け取れるし。。。。
日本では、平安の末期に浄土教が普及して法然や親鸞が説いて来た世界では”悟り”は一般の人間には必要なく、”ただただ阿弥陀に帰依する”ことで”浄土に生まれる”ということで、これが涅槃、成仏というとことで”成仏”すなわち悟りを開いたことになる、と私は教えられている。
しかし、浄土教の世界ではないところでは、自力で善行やらなんたらそれに修行することで”あとリロ開く=往生”必要があるらしい(これを”自力”というらしい)。まぁ、これを否定して”南無阿弥陀仏を唱えることで往生を遂げる(これを”他力”というらしい)ことができる。
まぁ、この話は”往生”つまり”極楽に行って生まれる”ことを悟りと言っているよなものだけど、この辺りは実際はかなり複雑で、細かいこというと本当は違うみたいだとな。”悟り”って意味がわかんないから。
教義の話は、本当の教育を受けていないから正直わからない。幼少の砌から浄土教の世界の中で育ったから、当然のように”南無阿弥陀仏”という言葉が染み付いているだけのことで。
しかし、もう20年近く前になるかな。ふとしたことから”親鸞研究”に入り込んで、そこで”法蔵菩薩”が48の願掛けをし長い時間かけて成就したことで阿弥陀仏になった”と知った。その48の願も一応読んだけど、最終的には”浄土教では18番だけでいい”と言うことになっている。
と言うことは、人は全て浄土に受け入れてもらえるんだって、ことになるわけで、ならば”阿弥陀さんを信じていればいい”と言うことになる。どうもこれが”南無阿弥陀仏”の意味らしい。
とは言うものの、私はその”南阿弥陀仏”を唱えないんだよなぁ。。。。
かなり”悟り”の話がずれて来たかのように思える。でも、”悟り”って”自覚すること”ではないのかな?浄土三部経の大無量寿経で法蔵菩薩が「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。(WikiArcより抜粋) 」と言うことを自覚すれば、言葉を変えれば理解すれば、またはそう思えば、それで極楽浄土に行ける、つまりそれで悟りとなる、って。。。安易すぎるかな?
滅多に考えないことで、書いている本人が何を書いているのかわからなくなって来た。ということで・ここでとりあえず一旦打ち込みをやめて、またしばらく考えてから、思うことを書くことにします。