2024年05月27日
小学校時代の思い出 記憶のあるうちに その1 1年〜2年
私は昭和18年生まれ、戦争の最中に生まれた。そんな記憶はほんの少しだけしかないけど、今や80歳を超えて記憶が遠くなりつつあるので、まだ頭の中にあるもがせるなら出しておこうと、思い出話を書く気になった。
というのも、先日80歳になったジジババの小学校クラス会をやったばかりだし、テレビの朝ドラで終戦前後の話をしているので、色々と思う出すこともあって。それを書いて残しておこうということです。
記憶にあったと言っても、完全い確正確なものかどうかはわかりません、記憶違いもあるだろうし、証拠となづ映像も持ち合わせていないので、画像はネットで探してなんとか近いかなぁと思うものを拝借して、それを使わせてもらって助けにします。
まずは、入学前後かなぁ。。。
入学は、昭和25年4月です。日にちは覚えてません。が、記憶では、傘をさしていたんではないかなぁって思って、過去の天気を検索したら、4月1日と5〜6日が雨が降ったようです。
母親とともに学校に行ったと記憶してます。母親と一緒に学校に行ったのは、これだけかもしれない。色々悪さをしたらしい(本人自覚ない)その度に呼び出されてはいたようだけど、一緒には行ってないあなぁ。父親とはいくはずがない。戦争に行ったままいまだに帰ってこないから。
片親の同学年はいっぱいいた。先日のクラス会に来た同級の中で、私の記憶にあるのは15人中4人。卒業時のクラスは50人以上いたはずだから、もっといたという可能性が大きいと思う。
入学式の記憶は全く残っていない。ただ、最初にクラス分けして席に着いた時の隣の子は、先日のクラス会に来ていた。お互いそれがいつも話題になる。
入学当時の小学校は、20年3月12日の名古屋大空襲で校舎は焼けてしまって、応急で作られた校舎には焼け残ったコンクリートの隔壁も使って建てられていた。その時の写真がどこかにあったはずだけど、探せないのが残念。
授業は始まったものの、校舎の再建が進行中で、教室数が少ない上に、戦中の”産めよ増やせよ”の結果の膨大な数の児童数。教室不足はひどくて、2部授業になった。
記憶では、午前午後分かれた時も、また天気のいい日には、半分外で半分教室でと言ったとんでもない状況だった。これは新校舎ができる翌年度まで続いた。
2部授業をするためにクラスの児童数はひょっとしたら40人くらいだったかもしれないが、その代わりクラスは4クラスあったのではないかと思う。
左は、現在(令和6年)の正門ですが、私の入学当時はこの位置からかなり右にあって、植木(多分カイヅカ)がならんていて、これは卒業の時もその門から出たと記憶してます。
当時の正門の位置には、今は給食を作る厨房になっていたかと思うけど、今はここでで作ってないんではないかなぁ?
当時の記憶の中には、進駐軍(アメリカ軍)がらみのものがたくさんあるんですが、しっかり記憶に残っているのは、給食の”脱脂粉乳”と衛生上の”DDT"の体への噴霧です。
給食は、脱脂粉乳がおいしくなく、多くの子が飲めなかったり、吐き出したりしていたように思います。確かの、あの味は今でも吐き出したいと思います。
DDTは、戦後の衛生状態の悪さかあら、疫病なども多かったのでしょう、その感染媒体に”シラミ”がいたのでしょうね。シラミ退治のために、全身,頭からDDTをかけら手たもので、服の中には、建築関系の方だとご存知かと思う”コーキング”用のガンのようなもので服の中に吹き込まれました。(現在は”DDT"は使用禁止剤です)
担任の先生は、「細川静子」先生だったと記憶してます。2年まで受け持ってもらってますが、いい先生だったかなあ、ちょっと怖かった記憶ですが、それも私が悪ガキだったかかも。この先生の最後にお会いしたのは、大学生の時に一度ご自宅を報恩してます。
確か、細川先生は結婚直後で、受け持っていただいている間に出産されて、休暇を虎太かと思います。
こうして書いていると、当時のいろんなことが頭に出てきますが、みんな定かではないなぁ。。。。そうだ、その時の校長は、ちょび髭はやしてたんではないかな?
今はとにかく、頭に出てくるものを書き付けています。まとまりがなくて申し訳ないですが。。。
先日、みんなで校歌を歌いまっした。
歌詞を見てびっくり、三番まであった。覚えてない三番は。当時は何も考えないで歌ってたけど、いつ頃からか、変な歌詞だなぁとお思いはsじめて、先日歌詞を見て「あぁ戦時中に作られたんではないか」って思った。
というのも、先日80歳になったジジババの小学校クラス会をやったばかりだし、テレビの朝ドラで終戦前後の話をしているので、色々と思う出すこともあって。それを書いて残しておこうということです。
記憶にあったと言っても、完全い確正確なものかどうかはわかりません、記憶違いもあるだろうし、証拠となづ映像も持ち合わせていないので、画像はネットで探してなんとか近いかなぁと思うものを拝借して、それを使わせてもらって助けにします。
もし著作開けん云々の話が出るようしたら、削除しますので、お気づきの方ご連絡ください
まずは、入学前後かなぁ。。。
入学は、昭和25年4月です。日にちは覚えてません。が、記憶では、傘をさしていたんではないかなぁって思って、過去の天気を検索したら、4月1日と5〜6日が雨が降ったようです。
母親とともに学校に行ったと記憶してます。母親と一緒に学校に行ったのは、これだけかもしれない。色々悪さをしたらしい(本人自覚ない)その度に呼び出されてはいたようだけど、一緒には行ってないあなぁ。父親とはいくはずがない。戦争に行ったままいまだに帰ってこないから。
片親の同学年はいっぱいいた。先日のクラス会に来た同級の中で、私の記憶にあるのは15人中4人。卒業時のクラスは50人以上いたはずだから、もっといたという可能性が大きいと思う。
入学式の記憶は全く残っていない。ただ、最初にクラス分けして席に着いた時の隣の子は、先日のクラス会に来ていた。お互いそれがいつも話題になる。
入学当時の小学校は、20年3月12日の名古屋大空襲で校舎は焼けてしまって、応急で作られた校舎には焼け残ったコンクリートの隔壁も使って建てられていた。その時の写真がどこかにあったはずだけど、探せないのが残念。
授業は始まったものの、校舎の再建が進行中で、教室数が少ない上に、戦中の”産めよ増やせよ”の結果の膨大な数の児童数。教室不足はひどくて、2部授業になった。
記憶では、午前午後分かれた時も、また天気のいい日には、半分外で半分教室でと言ったとんでもない状況だった。これは新校舎ができる翌年度まで続いた。
2部授業をするためにクラスの児童数はひょっとしたら40人くらいだったかもしれないが、その代わりクラスは4クラスあったのではないかと思う。
左は、現在(令和6年)の正門ですが、私の入学当時はこの位置からかなり右にあって、植木(多分カイヅカ)がならんていて、これは卒業の時もその門から出たと記憶してます。
当時の正門の位置には、今は給食を作る厨房になっていたかと思うけど、今はここでで作ってないんではないかなぁ?
当時の記憶の中には、進駐軍(アメリカ軍)がらみのものがたくさんあるんですが、しっかり記憶に残っているのは、給食の”脱脂粉乳”と衛生上の”DDT"の体への噴霧です。
給食は、脱脂粉乳がおいしくなく、多くの子が飲めなかったり、吐き出したりしていたように思います。確かの、あの味は今でも吐き出したいと思います。
DDTは、戦後の衛生状態の悪さかあら、疫病なども多かったのでしょう、その感染媒体に”シラミ”がいたのでしょうね。シラミ退治のために、全身,頭からDDTをかけら手たもので、服の中には、建築関系の方だとご存知かと思う”コーキング”用のガンのようなもので服の中に吹き込まれました。(現在は”DDT"は使用禁止剤です)
担任の先生は、「細川静子」先生だったと記憶してます。2年まで受け持ってもらってますが、いい先生だったかなあ、ちょっと怖かった記憶ですが、それも私が悪ガキだったかかも。この先生の最後にお会いしたのは、大学生の時に一度ご自宅を報恩してます。
確か、細川先生は結婚直後で、受け持っていただいている間に出産されて、休暇を虎太かと思います。
こうして書いていると、当時のいろんなことが頭に出てきますが、みんな定かではないなぁ。。。。そうだ、その時の校長は、ちょび髭はやしてたんではないかな?
今はとにかく、頭に出てくるものを書き付けています。まとまりがなくて申し訳ないですが。。。
先日、みんなで校歌を歌いまっした。
歌詞を見てびっくり、三番まであった。覚えてない三番は。当時は何も考えないで歌ってたけど、いつ頃からか、変な歌詞だなぁとお思いはsじめて、先日歌詞を見て「あぁ戦時中に作られたんではないか」って思った。
今時「国のため」なんて歌詞はないだろうなぁ。。。それにしても終戦直後に近い時代でもこの歌詞はなx。。。と今は思う。
2年生になっても、クラスのメンバー同じだったかと思う。そして2部授業も続いいていて、同時の校舎の新築も行われていた。
本当なら 、遠足や運動会の記憶もありそうだけど、遠足は多くが雨に祟られたし、運動会も雨で順延なんてことが多かった記憶です。
私が、雨男の本領発揮かなぁ。 でも、同学年みんな同じだよなぁ。と慰めてます。
次回は、3年4年の覚えていることっを。
2009年04月02日
名古屋を歩く・納屋橋~広小路
昨日は、本当に精神的に欲求不満。いつも狭い部屋の中で、一人しこしこPCをいじっているのが馬鹿らしくなった。(非常に珍しい精神的現象)
それで、いっそのこととばかりに、歩くことにして、そして前回の八角堂にめぐり合った。
その跡、堀川沿いに出た。いろんなものが有りますね。昔は、このあたり『立ちんぼ』といった女性が沢山いたところ。今でも夜になると出没するのかな??
劇団四季の劇場を右手に見ながら堀川の東を北上。納屋橋まで来た。昔は堀川の川っ縁にいろんな建物店があった。どのくらい前だっけ?「薔薇の館」なんてのがあったように思う。その元もっと昔には納屋橋の東南角に漢方薬のお店があったと思う。ここが嫌いだった。見た目気持ちの割る伊のものがいっぱい店頭においてあったから。
写真は、納屋橋の東北角にあるビル。一時取り壊しと決まりながら文化財だと騒がれ、今はレストランになっているのかな?周りが変わりすぎたので、違和感すら感じるものになっている。
この交差点を北に渡って、広小路通を東進。少し行ったところで、母親の無二の親友だった「おばさん」の家、会社がまだあるかなぁとおもって北に入ったが、まったくそんな感じはなくなっていた。と、ここで180度向きを変えてまた広小路通に戻った。戻る途中でKDDIのビルを見つけたが、何かこのビル人を完全に拒んでいる。守衛さんがいるからというのではなく。ビル自体がものすごく陰気に見えたのだ。
広小路通を何年ぶりで歩いたことか。ずいぶん変わったなぁ。観光ホテルの入り口を知らない間に過ぎてしまった。道の反対側に現代式のパブなどもあるが、このあたり昔怪しい店もあったぞぉなんて思いながら。
伏見の交差点で19号線を左折。お客さんの会社にお届けものをして、海の向こうのきれいなお嬢さんときれいな日本語で話をして錦通に戻る。(実は、ここで地下鉄・桜通線で帰る選択肢もあったのだが)に広小路をと思ったのだが、何故か戻れずに、とうとう栄まで歩いてしまった。
観覧車のあるビル(元東映の映画館)のエスカレータで近い乗り手地下鉄に乗る。
実家を出てから1時間弱。久々の長距離の散歩でした。
汗をいっぱいかいて、強い少し冷たい風に吹かれて、気持ちよかったなぁ。体重1キロと減ってました。
しかし、おかげで、今朝は、花がむずむずしているよ。
それで、いっそのこととばかりに、歩くことにして、そして前回の八角堂にめぐり合った。
その跡、堀川沿いに出た。いろんなものが有りますね。昔は、このあたり『立ちんぼ』といった女性が沢山いたところ。今でも夜になると出没するのかな??
劇団四季の劇場を右手に見ながら堀川の東を北上。納屋橋まで来た。昔は堀川の川っ縁にいろんな建物店があった。どのくらい前だっけ?「薔薇の館」なんてのがあったように思う。その元もっと昔には納屋橋の東南角に漢方薬のお店があったと思う。ここが嫌いだった。見た目気持ちの割る伊のものがいっぱい店頭においてあったから。
写真は、納屋橋の東北角にあるビル。一時取り壊しと決まりながら文化財だと騒がれ、今はレストランになっているのかな?周りが変わりすぎたので、違和感すら感じるものになっている。
この交差点を北に渡って、広小路通を東進。少し行ったところで、母親の無二の親友だった「おばさん」の家、会社がまだあるかなぁとおもって北に入ったが、まったくそんな感じはなくなっていた。と、ここで180度向きを変えてまた広小路通に戻った。戻る途中でKDDIのビルを見つけたが、何かこのビル人を完全に拒んでいる。守衛さんがいるからというのではなく。ビル自体がものすごく陰気に見えたのだ。
広小路通を何年ぶりで歩いたことか。ずいぶん変わったなぁ。観光ホテルの入り口を知らない間に過ぎてしまった。道の反対側に現代式のパブなどもあるが、このあたり昔怪しい店もあったぞぉなんて思いながら。
伏見の交差点で19号線を左折。お客さんの会社にお届けものをして、海の向こうのきれいなお嬢さんときれいな日本語で話をして錦通に戻る。(実は、ここで地下鉄・桜通線で帰る選択肢もあったのだが)に広小路をと思ったのだが、何故か戻れずに、とうとう栄まで歩いてしまった。
観覧車のあるビル(元東映の映画館)のエスカレータで近い乗り手地下鉄に乗る。
実家を出てから1時間弱。久々の長距離の散歩でした。
汗をいっぱいかいて、強い少し冷たい風に吹かれて、気持ちよかったなぁ。体重1キロと減ってました。
しかし、おかげで、今朝は、花がむずむずしているよ。
2008年06月07日
育った学区を歩く その1
金曜日は、毎度バスと電車での移動。電車を降りてから実家での間を歩いている。
この歩くところの大半が、子供の頃遊びまわった小学校の学区の中。一部となりの学区もあるけど。。
急いでいないときは、歩くたびにルートを変える。いろんな道を歩いてみるけど、昔の道と違っている。何が違うか、それはその道に面して建っている家が変わってしまっているのだ。もう50年近くになるわけで、当たり前なのだが、頭の中に残っているイメージと違い違和感を覚えるときもある。
あるところでは、「同級生が住んでいた家があったなぁ」なんて思ったり、しかし、今、その学区に同級生は何人住んでいるのだろう。同じクラスの友人は誰もいないだろうと思う。
そして、「ここではこんな商売をしていたよな」と思ったりもするが、不思議に思うところもある。わずか数十メートルの間に3軒の床屋さんがあったり、「へぇ・・・」である。
この歩くところの大半が、子供の頃遊びまわった小学校の学区の中。一部となりの学区もあるけど。。
急いでいないときは、歩くたびにルートを変える。いろんな道を歩いてみるけど、昔の道と違っている。何が違うか、それはその道に面して建っている家が変わってしまっているのだ。もう50年近くになるわけで、当たり前なのだが、頭の中に残っているイメージと違い違和感を覚えるときもある。
あるところでは、「同級生が住んでいた家があったなぁ」なんて思ったり、しかし、今、その学区に同級生は何人住んでいるのだろう。同じクラスの友人は誰もいないだろうと思う。
そして、「ここではこんな商売をしていたよな」と思ったりもするが、不思議に思うところもある。わずか数十メートルの間に3軒の床屋さんがあったり、「へぇ・・・」である。