2022年05月19日

52年前の記憶を蘇らそうと・・・・ 電車特急とYS11

今朝の記事アップで
朝ドラ「ちむどんどん」の
公衆電話の違和感から
60年近く前のことを思い出した

60年前といえば
1962(昭和37年)年私は東京で
浪人ぐらしを初めたときだ
いやぁまだ高3になったときかぁ
そうだ
東京に出たのは1963年だ

辛い浪人の1年だったなぁ
3畳一間の間借り
自炊して
翌年の1月ころには
受験の重圧で
どうも鬱になっていたらしい

でも克服して
大学に合格
晴れて荻窪に引っ越して
なんてことを思い出しながら
書いていると終わらなくなるので

朝の記事に書いた公衆電話の話を
少し膨らませて
記憶に残っている
東北本線のことを書こう



この画像は
52年前の記憶を呼び起こそうと
ネット検索して見つけた画像
電車を撮ろう
から拝借しました

たしかこんな感じの電車だったと思う
昼間は電車特急で”はつかり”
夜は寝台電車特急”ゆうづる”だったかな?
両方とも乗ってます
寝台はものすごく広くて
3人くらい寝られるんじゃないかな?

この電車で青森駅を朝出発
時刻表を調べてたけど見つからない
記憶では8時か9時ちょうどだったと思っている
当時の所要時間は
上のまで8時間半
8時に出発したとして
午後4時半に上野に着く

この出発前に
大阪の相方に電話
(相方は実家に行っていた)

10円玉をたくさん用意して
公衆電話で
つながると同時に
「今青森駅 今から帰る 夜遅くなる」
これだけ
これを話すのに30円かかったと記憶している

とにかく
当時の遠距離電話はとんでもなく金がかかったのだ


この”はつかり”の車中
何故かものすごく記憶に残っていることがある

盛岡だったと思う
きれいなご婦人とお子さんが乗車
私と同じボックスになった

仙台でも
上の青森間の半分くらいかな?
それが盛岡となると
もっと時間がかかる

子供さんにとては
それはそれは大変な試練を求められる

子供さんの年齢は
年中か年長さんだな
このくらいの年齢は
じっとしているなんてできやしない
電車の中を行ったり期待

母親は気が気じゃなかっただろうなぁ
でも
叱り飛ばすということはなかったと思う


そのお子さんが
座っている時に
私の対面
私に声をかけた
「おじさん」って

母親がオロオロしてしまって
「お兄さんでしょ?」と

当時の私は28歳だったかな
まぁ子供から見れば”おじさん””おっさん”
私は高校卒業したころから
「おっさん」と言われていたので
子供から「おじさん」と言われても
全く抵抗はなかったな

この親子とは上野まで同じで
お二人の行き先が小田原ということで
上野で乗り換え
京浜東北か、山手線で東京駅までご一緒した
この乗換で30分はかかっている

東京駅で”バイバイ”して
私は新大阪まで
当時はまだ3時間かかってなかったなかぁ

つまり
青森を8時に出発したとして
上のには8時間半後の16時半
30分の移動があって
東京新大阪が3時間

ジャスト12時間
新大阪から自宅まで1時間以上かかったから
それはそれは大変な移動だったのです

こんなことを半年以上続けたせいで
体を壊してしまった

北海道と東北3県を股にかけ
電車での移動をし続けた
2週間連続で家に帰らなかったことも
(新婚なのにねぇ)

体を壊して
(背筋痛という病名をもらった)
これはいまだに
疲れると出てくる
厄介なやつです

でも
この半年の経験は
いい思い出になってます

行ったところ
一番北は 稚内
東は釧路
北海道は他に
名寄、北見、帯広、苫小牧
岩見沢、室蘭、旭川、滝川
小樽、札幌、箱宛

営業の仕事で
客先に同行して
稚内から名寄まで車で
途中 音威子府でホワイトアウトに遭遇
地元民はそれにめげす
前線60キロ保持して走行したよ

旭川から留萌まで
3月くらいだったか
「ブレーキ踏んだら死ぬと思え」と脅されて
取引先の車を運転した

旭川から帯広に向かうのに
特急に乗り遅れて
富良野の経由で鈍行乗り継いで

富良野の駅前
何もなかった
ただの広い駅前だった


東北の方も
色々思い出があるけど
他移動のほうが記憶に残っているのが
何故か多い

そうだ
函館も何度か行っているけど
時間が足りなくて
函館山内はいけなかったなぁ

その函館で
最初に宿泊したホテルが
なんと昔 銀行だった建物
それを改修してホテルにしたところだった
そこに行くのに市電に乗ったのは覚えている

函館には東京からYS11で
うるさかったなぁ
それが原因で耳がおかしくなったかもな

YS11といえば
千歳から羽田経由で伊丹まで
夜間飛行があった
これには2度乗ったか


FlyTeamのHPから拝借してます

ちなみに
私が北海道の第1歩を踏んだのは
函館空港です


思い出せばもっと色々出てくると思う
限りなく出てくるかもしれないので
ここで打ち切ります
  

Posted by 生田 at 21:28Comments(0)TrackBack(0)思い出話

2018年01月01日

正月早々 懐かしいものを

 年末に大掃除をしていて子供たちが使っていたおもちゃ箱を何年振りかで開いて見た。そうしたら、懐かしいものがいっぱい出て来た。百人一首、カルタ、コマ、だるま落としなどなど。そしてその中にジグソーパズルがあったのだ。


 そのジグソーパズルは、Apple II の発売の頃、まだApple II コンピュータの日本法人もなく、CANONが販売をしていた頃で、販売速品物として制作頒布していたものだ。私はApple II の販売はしたことはIICくらいしかないけど、このジグソーはCANONからもらったものだろう。
 これが残っているとは全く思っていなかった。もう30年以上も前の話になるかなぁ。。。。


 由来をネットで探したけど、見つからなかったが、逆にネットオークションで三千六百円だったかの値がついているものを見つけた。と言って、私は売るつもりはありませんが。。。
 ちなみに、我が家にはMacintoshの初代のもの(ただ、バージョンアップしているのでキーボードはフルキーになっている)ものが3台あります。この中には、本体の裏側(特殊ドライバーで開ける必要あり)に製作者たちのサインが彫り込まれているし、中にはマジックインクでサインしたものまだである。これはお宝なんだけど、誰がこれの価値を認めてくれるかなぁ???
 私があの世に行ったら、子供達はどするだろう?ネットで売れと遺言しておくつもりですが。。(ちなみに、OSが入手できれば動きます。)  

Posted by 生田 at 13:16Comments(0)TrackBack(0)思い出話

2017年06月16日

久しぶりのナタリー

 今日3月16日の昼下がり、NHKのBSで映画をやっていた。なんとなんと「草原の輝き」なのだ。
 この映画、私が高校3年の時にロードショーになった。何回見たかなぁ。。。
 あの年(昭和36年)の秋は色々な映画に出会った。大学受験を控えてよくもなぁそんなに映画を見ていたなんて、だから落っこちたんだよなぁ。
 記憶に残る映画は、この「草原の輝き」の他には同じナタリー・ウッドの「WestSide Story
」そして「ベン・ハー」と私の人生に欠かすことのできない3作。

  「草原の輝き」は、ナタリーとの出会いだったけど、その他に”ワーズ・ワース」との出会いでもあった。映画の中で、特に最後のシーンで病院から出て昔のコイビチに友人たちと会いにいった帰りに車の中でみんなで唱和するのが”ワーズ・ワース」の「草原の輝き」なのだ。
 英語の題名は”Splendor In grass"で、これが映画の原題にもなっている。

 左の画像は、その映画「草原の輝き」の中での彼女が昔の恋人(ウォーレン・ビーティー)に会いにいった時の衣装のもので、かがきを表現していたのかなぁ?

 この映画を見て”ワーズ・ワース”に接してから大学を卒業するまでの5年間の間に、たくさんの英語の文章、師に出会ったけどこの氏が一番長く記憶に残っていたと思うし、大学卒業間際の秋に真似て英語の詩も書いいたことあったよなぁ。。本当は、その師に絵をつけたかったけど、美大生でありながら絵が描けないというなんとも不思議な人間なので、ついぞ実現することはなかった。
What though the radiance
which was once so bright
Be now for ever taken from my sight,
Though nothing can bring back the hour
Of splendour in the grass,
of glory in the flower,
We will grieve not, rather find
Strength in what remains behind;
In the primal sympathy
Which having been must ever be;
In the soothing thoughts that spring
Out of human suffering;
In the faith that looks through death,
In years that bring the philosophic mind.

 これが、元になったワーズ・ワースの詩で、14行のソネットです。今となっては、そんな詩の意味も忘れかけているし、作る英語力ももう全くなくなっているから、絵付きの英語のソネットなんて無理、無理、無理ですねぇ。。。

 ナタリーは、一昨日だったかBSの映画「グレートレース」でもトニー・カーチスとの共演もあったけど、あまりたくさんお映画には出なかったのかな?最も私は就職してから映画を見ることがほとんどなかったので、わからないけど。。。
 ナタリー・ウッドは、事故で死んだ。噂では事故ではなく、殺されたとも言われている。やったのは、旦那だった”ロバート・ワグナー”という話もあったけどねぇ。その死ぬ前に撮った最後の映画が「ブレイン・ストーム」だったと思う。あの映画のどこだったっけかな?「For Natalie」と書かれていたと思う。いい俳優さんだったけど、早くなくなって惜しい気がのこ凝ってます。

 あぁ。このテレビの今回の放映は、最初の方見てたけど、なぜか睡魔に襲われて2時間はくらい寝てた。なのでほとんど見てませんが、録画しっかりとしてます。あとでじっくり見ます。ということでこの記事は、すべて記憶で書いてますので、間違っていることも多いかも。  

Posted by 生田 at 15:51Comments(0)TrackBack(0)思い出話

2016年12月22日

映画 赤い靴

 昨日のこと、NHK BSで映画「赤い靴」を放映していた。ものすごく懐かしい映画だ。制作が1948年というから68年前の映画なのだ。
 この映画をご存知の方は、古くはわたしの年齢以上の映画好きな方、50年くらい前に劇場で再上映された時にご覧になったか、そして数年前にテレビ放映されたのをご覧になった方、といったところだろうか。

 私は、前に書いた3つのもの全てを見ている。
 最初は、いくつだったかの記憶はないが、映画好きだった叔母に連れられて、まだ幼稚園に行ったかどうかってくらいの時に、その時の記憶はとにかく赤い靴が踊っているということだけで、そのほかの記憶はさすがに残っていない。
 2回目は、浪人中だったか、大学の1年の時かと思うが、再上映の試写会に申し込んだから当たって見に行った。客は女性オンリーで男は私一人で、なんか怪しい人間に思われたようだ。子供の頃の思い出を再確認したくて行ったんだけどねぇ。。その時の記憶は、最後に主人公が死んでしまうってこと額割ったくらいかなぁ。アァ、それと主人公を演じたのが「モイラ・シアラー」という女優さんだということも記憶した。。

 今回のテレビでの放映は、ながらで見ていたので新しい情報はいずれゆっくりと録画で見ようと思っている。でもなぁ、最後の最後のシーンは、子供の頃にはきついものだったかもなぁ。

 何はともあれ70年近く前の記憶を呼び起こす映画でした。  

Posted by 生田 at 14:54Comments(0)TrackBack(0)思い出話

2016年09月17日

そばを食べるようになったのは

 私はよくそばを食べる記事を書いている、と言ってもグルメではないので食べ歩きをしている人に比べればほんの少しなんだろうけど。

 私は名古屋生まれで名古屋育ち。子供の頃は”そば”を食べるという習慣が全くなかったまぁ食べさせてもらって、きしめんかうどんで、中華そばとなると年に数回のご馳走の部類に入った。つまりは、全くと言っていいのだが、そばなんて知りもしなかった。そして「蕎麦屋」なるものも知らないで高校まで行ってしまった。
 大学に行くために東京へ。1年浪人したのだが、東京では自炊生活が基本、たまに外食をするときはほとんどがラーメンだったなぁ。。。。実は猛暑にある有名お蕎麦やさんに2ヶ月くらい居候したことがあるが、そばはついぞ食べたことはなかった。
 大学に入っても、自炊が続いて、外食は貧困生活ではなかなか。それが2年生のときにクラブの合宿で蓼科に行った。合宿を終えて蓼科から中央線で名古屋に戻るときに塩尻で乗り換えることになったのだが、(当時の塩尻は今と違う亜場所になったよ)そこで画家うゆうたちと「信州に来たのだから本場のそばを食べよう」と駅構内の立ち食いでそばを食べたのだ。それがわたh氏のそばデビュー。
 なんと美味しかったことか。今考えると大した味ではなかったかともうけど、初めてのそばの味はうどん屋きしめんとは大違いで、それ以降そばを食べるyほうになったのだ。

 もっとも、大学を卒寮して大阪に就職してしまった。またまたそばから離れることになったのだが、新婚旅行で蓼科に行った折に、ホテルで久ビッサの本場物を食べて、やはりうまいと思ったものだ。
 家の事情で会社を辞めて名古屋に戻ってからは、時折そばも食べる機会が多くはなったが。本格的にそばを食べるようになったのは、ここ20年くらいかなぁ。。。。
 旅に出れば、その土地のそばを探して、いい店があれば食べるように努力している。

 食べたそば
 長野県は、塩尻、松本、篠ノ井、長野、上田
 名古屋から西では、京都のニシン蕎麦、三重産の常陸秋そば、徳島鳴門のそば、出雲そば
 東では東京、新潟の上越(ここは長野産だと言っていた)、村上の道の駅のそば
  岩手県は一関、平泉のわんこそば、
  北海道は、新得、旭川、 などなど、
 かなり忘れてしまっているなぁ。。。。  もっとたくさん食べているはずなんだけど。  
タグ :そば

Posted by 生田 at 19:31Comments(4)TrackBack(0)思い出話

2015年08月01日

八月一日 遠い遠い・・・

今日は八月一日
今年も残りもう5ヶ月になっちまったぁ
先がだんだん短くなる・・・・

この八月一日といえば
実家のある中川運河の北の方は
この日は
運河神社のお祭りで
小栗橋でたくさんの花火が上がったものだ
小栗橋から北の西側道路はほぼホコ天状態で
ものすごくたくさんの人が来たものだ

今でも夏祭り流行っている(らしい)
しかし、さみしいものです
花火なんてもう・・・・・・・

時代の流れ


もう一つの思い出
これは私が子供の頃小学校3年まで
毎年行っていた和良村(現・郡上市和良町)
この日はお祭りだったと思う
確か法師丸のある神社の夏祭りではなかったか?
夜の花火に記憶はないが
昼には大きな竹筒を使って
爆竹を作って鳴らしていた記憶が残っている
(記憶間違いがあるかもしれないが)

とにかく両方とも
遠い遠い思い出になってしまった

思い出を思い出として
懐かしく胸の中にしまっておくだけでは
何かもったいないような気もするなぁ
  

Posted by 生田 at 18:54Comments(0)TrackBack(0)思い出話

2013年07月21日

涙の郡上八幡

 NHKテレビの「新日本風土記」で”郡上八幡”をやっていた。再放送なのはわかっている、昨年だったかに見ているから。それでも”郡上”と聞くと見てしまう私です。

 郡上といっても私は八幡の出身でもないし、住民でもない。ただ子供頃今は郡上市に合併した”和良”に毎年行っていた。
 わたは当時は村だった、いや、合併までも村だった。一番の過疎地といわれる村だったのだが。。その村で小学校の2年まで毎年夏休みを過ごしていたのだ。思い出せば、いじめにあったり、助けられたりといろいろ。自然の中で、蛍を見、近所のお兄さんに蜂の子を食べさせられたり。。。。

 テレビで、郡上八幡の子供たちが”がっこう橋”から飛び込むを見ていて、つい涙を流してしまった。なぜ涙が?もっとも涙のもとは飛び込みだけではないのだが、飛び込みは私も似たようなことを経験しているから。私は水に入るのが苦手なのだが、それでも小さいときはそれなりに水に入った。
 近所のお兄さんやらお姉さんが結構親切にしてくれて、泳ぎに行ったときも面倒を持てもらったのだが、その彼ら、彼女らがしていたことに岩の上から飛び込むというのがあった。今思えば大した高さではないが、その岩の横がちょっと深いところになっていて、少しだけ飛び込みを味わうことができたのだ。

 この川、じつは”日本一のアユ”で有名な”和良川”なんです。この上流から流れて、和良の真ん中を流れて現在の下呂市の阻止ので馬瀬川と合流し、飛騨金山で飛騨川となってそしてず~~~と下って木曽川と合流する、そんな清流の上流の方です。
 今は、護岸工事のためにあまり泳ぐ場所の無くなってしまっているようで、子供たちの泳ぐ姿は見られなかったなぁ。。(おととしの話)もっとも、子供があんまりいないから、子供自体を見ることも少ないけどね。

 飛び込みで涙、というよりももっと涙の原因があったのだ。
 郡上八幡といえばお盆の徹夜踊り。今では観光化されてしまっているけど、昔はそんな雰囲気なかったんではないかなぁ。でも、子供のころ、お盆の時にはわらのあちこちで夜になると踊りの輪があったと記憶している。その中に私の祖父の姿が。あまり派手なことをせずひっそりと暮らしていた祖父だがなぜか盆踊りの踊りの輪の中の姿が目に焼き付いている。
 
 テレビの徹夜踊りの様子を見て、その中に祖父を見たような感じで、思わず涙があふれてきた。その祖父が亡くなってもう30数年。その祖父の年に、だんだん近づいていく私です。  

Posted by 生田 at 09:14Comments(0)TrackBack(0)思い出話

2009年06月14日

昔の思い出


 今6月14日午後9時35分 TVで開場時得たいものかな?海上保安庁ものかな?をやっている。こういうのを見ると、小学校の時に海上保安庁の巡視船に乗って名古屋港から鳥羽まで往復したこと思い出す。
 今ではとてもできる精神状態ではないが、あの頃は高所恐怖症でもなかったので、船首にいって船首の波切りの状態を腹這いで眺めたり、操舵室にいってレーダーを見せてもらったり、機関室に行ってディーゼルエンジンのガチャガチャやるのをおもしろく見たり、うるさいということ感じたり。もう50年以上も前の話がちらちらと頭の中に出てくる。
 
 この年になると、最近のことが頭をよぎるよりも、昔の思い出が頭をよぎる方が多くなるのか?

 町の中を歩いていても、生まれたところの近くや、小さいことにたまにいったことろを通ってもそのときの記憶がよみがえることがある。昔の記憶は死んではいないようだが、新しい記憶がのこらなくなっているのかもしれない。
 幸い仕事のことは、記憶に残っているようだが、それでもまともに火難が得ようとする力が失せてきたように思える。いずれ考えることを完全に拒否する自体にもなりかねないが、そうなる前に記憶に読みがったものを書き記しておかねばならないかもしれない。。。。

 悲しい現実かな?
  
タグ :記憶思い出

Posted by 生田 at 21:45Comments(1)TrackBack(0)思い出話
  
2015大津・京都の旅
1泊2日のドライブ旅行
2015北海道・道東の旅
1週間870kmのドライブ旅行
大学OB会と
50年ぶりの鎌倉
OB会の後に鎌倉と横浜に行ってきました
15年年頭 広島宿泊の旅
鞆の浦、竹原、宮島に行きました
14年秋 京都宿泊の旅
久しぶりに新幹線に乗りましたが・・・
13年秋 京都ドライブ旅
京都の紅葉の名所・毘沙門堂に行きました
12年秋 室生寺ドライブ旅
すてきな観音様と再会です
室生寺五重塔
12年秋 京都ドライブ旅
1年ぶりの京都です
三千院
10年秋 平泉ドライブ旅
4泊5日 2000キロの一人旅です
平泉・わんこそば
   
10年夏 室生寺 日帰り旅
素晴らしい観音さんに出会いました
室生寺・五重塔
10年初夏 宇治・長岡 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに黄檗山満福寺・六地蔵・法界寺谷寺・長岡天神
布袋さん
09年秋京都 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに 紅葉がきれいな京都
南禅寺の紅葉
08年秋京都 日帰り旅
08年11月25日貧乏・一人・日帰り旅の記録です。
鳳凰堂を望む
観光シーズン 京都の歩き方
京都市・地下鉄 東西線沿線
09年浅草と川越
浅草観音
07年信州の旅
上田城内
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生田
生田
 トップの写真は、我が家の庭で、鳥達につつかれ実もなくなり枯れ果てた柿の枝です。人生も同じで、仕事仕事で突き回されてここまで来て、落ち着いたら、だんだん枯れていくんだという思いです。  
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