2008年10月09日
小説『親鸞と真佛』(12)
女人差別 3
親鸞と真佛の会話は、穏やかなものであったが、二人の間の雰囲気はその穏やかさを持っているが、親鸞は『女人差別』ということに話が及んでから、穏やかな語り口とは言うものの、その話の中はかなりきついものになってくるような感じがする。
宗教の世界というものは、どうして男女を区別して扱うのだろうと、私自身思っている。仏教だけの話ではないのだ。日本古来の神道でも女人をけがれ;穢れとして扱う。『天照大神』というにょしん;女神がありながら、女性を敬うということは少ない。巫女となる女性は結婚前ではならない、男との交わりを持った女性は巫女にはなることはできない。有名な神社では、女性は神官となることはない。キリスト教然りである。ローマ法王というキリスト教最高位になるのは男性のみである。
こうした男女差別は、宗教界だけではなく実社会でもまだまだ尾を引いているといえるだろう。イギリスやフィリピンでは首相や大統領を女性が就任したとは言うものの、まだまだ数は少ない。男女の差が少ないといわれるアメリカであっても、まだ女性の大統領はない。
仏教の前身と思われるヒンズー教では、女性を大きく、重くその役割を扱っても、身分は高くはない。仏教はその流れを汲んだのか、いや流れは身分を低く扱うところだけではないのかと思う。キリストは、聖書の中ではいろいろ女性をやさしく扱っている。にもかかわらず女性の扱いの変化はマルチン・ルターの宗教改革を待たねばならなかった。親鸞は、日本における女性の扱いを変える宗教改革者であったといえるのかもしれない。
こんな思いを私は昔から持っているのだが、その思いに近い話を、親鸞と真佛が交わしているのだ。
二人の話はなかなか核心の話には行き着かない。しかし、その核心に至る二人の精神構造を垣間見ることができる。時代の違いはあっても、男と女の間、その扱いの難しさは変わらないのかもしれない。
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ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
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