2024年06月18日

小学校時代の思い出 記憶のあるうちに 最終回 5〜6年生

記憶のあるうちに書いておこうと思い立って
これまで2回に分けて
1〜4年生までをかいた
戦争が終わって
激動の時期を過ごしてきた数年だった



 今回は 小学校の最後で5年と6年の残っている記憶を書こうとしている。

 まぁ色々と思い出す。この記事を書こうとMacsちゃんに向かったら、頭の中に5年生の時のことがまず出てきた。平屋の校舎が校庭の南東にあって、現在は体育館になっているところだったはずだ。



 この画像は、現在の広見小学校の正門で、私が通学した頃もののは全く残っていない。左の植木の奥にあるのが体育館(だと思う)で、ここに木造の平屋建ての校舎があった。古かったかと記憶しているけど、ひょっとして戦災で焼けなかったのかな?

 この古い校舎の廊下を掃除をして、床を磨くのに(ある女性の先生が磨くのが好きだった)米糠を布袋に入れてそれでゴシゴシ擦ったものです。
 そうそう、この女性の先生、掃除をすることを「はしれ」と言っていた。どこかの方言かな?記憶違いなかぁ?先生がそういつと、みんな廊下を走ってたけど・・・

 5年と6年の2年間は、男性の先生 名前を平川清雄先生です。体育が得意な先生で、体育が苦手な私には結構きつかった。運動会でどれだけ尻を叩けれかか。
 過去4年間は女性の先生だったし、それに生まれてから長いこと女性の間で育った私には男性の先生との付き合いがなんとなくギクシャクきしていたように記憶している。多分、女性の中で育って 甘えることに慣れていた、それが許されなかったからかもしれない。

 5年の時は、本人はそんな気は全くなかったけれど、悪ガキ扱いで
他の数人と並んで授業の席は特熱の場所だった。しかし、ここで議会の運営の基本を体験させてもらった。(このことは高校以降に役に立ったなぁ)

 私は、人付き合いが苦手で1匹狼的だった。クラスのジャイアン的存在にみんなは楯突くことはなかったけど私は果敢に反発して挑戦もした。(と本人は思っている)

 あぁ 今思い出したぞ
 先生は体育と理科系がお得意だった。理科の時間は好きだったなぁ
色々実験をしてくださったし、それにテープレコーダーにも初めて接し自分の声を聞いて思っている自分の声と違って違和感を覚えたことを記憶している。

 あぁ 実験から芋蔓式に出てきた。
 カエルの解剖をしたんだ。腹を切り開いたが、そのカエルは貼り付けのまま翌日まで生きていて心臓がピクピク動いていた、朝それを見て驚いたものだ。うまいこと解剖したらしいが、今思うと残酷だったなぁと思う。

 6年生になって、初めて2階建ての2階に教室が変わった。この教室の窓は東向きで、近くを通る東海道線の列車をボケーと見ていたり、反対側の廊下の窓からは伊吹山が見えていた。毎日伊吹山を見ながら・・・(伊吹山って遠いんだけどなぁ)(冬の伊吹山は冠雪して綺麗だったよ)


 この画像は、今年3月に名古屋テレビ塔からのショット
遠くに伊吹が映ってます。今現在、母校から伊吹山を見ることできるかなぁ?


 5年6年は、よくよく先生に叱られた。叱られて記憶しかないかと思うくらいに。
 この歳になって木彫りをしているけど、当時も工作が苦手で、作品を母親が気に入らず、「恥ずかしいからだすな」というので出さなかったら、先生に「親の言うことが大事なら学校に来るな」とかなりきついお叱りを受けた。それが今に影響しているのかもなぁ。 めちゃくちゃ悔しかったたもん。

 この先生には、私学中学進学に関してかなりお世話になった。(と思っている)進学を目指す友人たちは、それぞれ競い合って勉強していたようだが、私は蚊帳の外だったのでなんの知識もなく一人での勉強していた。(受験にはそれなりの方法があるらしいが)そんな状態を陰で支援してもあったのかと思っている。(本当はみんなに公平だったかと思うけど)

 今思うと友人たちの進学の勉強の会話の記憶では、なんだか無駄なことをしていたんではないかって思う。みんな古文なんかの知識も持っていたもんなぁ。私はそんな知識全くなく受験したけど、なぜか合格したぞ。

 友人たちには、悪ガキの印象のまま卒業してしまったらしい。でもなぁ6年の最後の方で、体力的に悪ガキだったやつに喧嘩をふっかけられて、真っ向から相手になった。相手に足蹴にされたところでその足を捕まえて反対の足を払ったら相手はひっくりえって大泣きして逃げていってしまった。それ以降、他のも含め悪ガキから攻撃されることはなかったけど、こっちが悪ガキの印象になったのかもなぁ。

 まぁ、子供の頃から天邪鬼で、人の言うことをそのまま受け取るなんてないとんでもないガキだったので、どうしても同級生の間では浮いてしまっていた。いつも一人で本を読んでいたから考えることも
かなり違っていたらしい。(今はもっと違っているかもしれない)

 それでも野球はやってたみたいだ。運動音痴だからエラーはするし走るのも遅いし、レギュラーなんて夢のp夢だったけど、それでも投げることは野球部の連中よりもうんと遠くに投げて彼らをびっくりさせた。
 肩が強かった理由はあるが、それは書くとまた物議を顔しだすので書かないことにする。

 また
 色々芋蔓式に出てくるかから
 この辺りで止めないと
 延々と書くことになるので
 この辺りで

*****************
「記憶」につて
別に記事を書こうかと思ってます
今日は木彫りを休みます
歯医者に行くだけの予定です
なので
私の記憶に関して書いておこうかと
  

Posted by 生田 at 11:41Comments(0)TrackBack(0)思い出・想い出

2024年06月05日

小学校時代の思い出 記憶のあるうちに その2 3年〜4年


 私は昭和18年生まれ、戦争の最中に生まれた。そんな記憶はほんの少しだけしかないけど、今や80歳を超えて記憶が遠くなりつつあるので、まだ頭の中にあるもがせるなら出しておこうと、思い出話を書く気になった。
 というのも、先日80歳になったジジババの小学校クラス会をやったばかりだし、テレビの朝ドラで終戦前後の話をしているので、色々と思い出すこともあって。それを書いて残しておこうということです。


 1年と2年の時はクラス替えあったけど、担任の先生は私は同じだった。ただ担任の細川先生が出産休暇をとったことは前回書いた。

 3年になって教室は新しい校舎に移った。校舎がいくつか経ったので、二部授業は無くなった。そして担任も変わった。

 最初は三重県出身の井村妙先生。私が一番好きだった先生だなぁって、何せ中学校の時に仏像に興味を持つきっかけになった、和辻哲郎の「古寺巡礼」を貸してもらった先生なのだ。つまりこの先生とは中学、高校の時も時折お自宅にお邪魔して、色々話をしている。

 井村先生は、3年の途中で転勤するということになった。というのも、音楽の担当だった水野先生と結婚されたので、夫婦が同じ学校は御法度だったのか、転勤を余儀なくされたのだろう。私にしてみるとかなりショックだった。

 この水野妙(結婚後の名前)先生の時の5月だったか、私は10日間学校を休んでいる。なんと風邪を拗らせて肺炎を起こし、死にかけたらしい(記憶はあるよ)、先生がお見舞いに来てくれたことはしっかり覚えている。

 ついでだから書いておこう。実は3年〜4年にかけて、私は病欠をかなりしている。ほとんどが風邪を拗らせているのだけど、休めば1週間くらいは学校に行っていない。なんとも虚弱体質だったんだということだろう。

 水野先生が結婚しての転校、で次に来られたのが水野妙尾先生、名前に”尾”がついてる。妙先生と、妙尾先生は、体系的にかなり差があって、妙先生はかなりガッチリしていたけど、妙尾先生は細身だった。性格的にもその体系的な面がでてたのか、お二方とも素晴らしい先生だったけど、私自身には妙先生の方が当たりが柔らかかったかなぁ。。妙尾先生は結構きつかったという記憶です。

 妙尾先生は確かそのまま4年に持ち上がったと記憶しているけど、この妙尾先生も途中で転勤ということ(理由の記憶はない)になってしまって、次に記憶が定かでないのだけど、確か杉山先生が赴任された。先生の下の名が思い出せない、”千枝子”だったかと)

 この杉山先生は、かなり当たりが柔らかい先生だったけど、それは見た目であって、結構厳しくお叱りを受けている。まぁ私はやんちゃだったし、わがままだったから、年に一度は親が呼び出されるくらいだったからなぁ。

 杉山先生の思い出は、小学校の時ではなく、高校1年の時のものがが残っている。私が高校1年の9月26日に伊勢湾台風で東海地方がかなり打撃を受けたが、先生は桑名・長島の長良川と木曽川の間の高いところにお住まいだったかと思う。災害から2ヶ月近く経った頃、近鉄が線路冠水のまま止まってしまっていたので、バスに乗って桑名まで行き、国道一号線でバスを降りて、川沿い先生のお自宅まで登っていき先生に被害のお見舞いに行った。

 先生から、伊勢湾台風の惨劇を教えていただいたが、お会いしたのはそれが最後になった。 *後書あり


 4年の時にも病欠したけど、先生のフォローがあったかと記憶が少し。 そうそう、4年時は校舎が変わって、新しい東側の校舎(現在ここには体育館がある)に移ったと記憶している。


 実のところ、この3年4年の学校の授業などの思い出は頭に残っていない。なぜだかわからないが、この3人の先生の入れ替わりで慌しかったことと、何度も病欠したことで、学校自体の記憶が飛んでいるのかも知れない。


 とにかく、この2年間は私にとっては、激動の年だった。そう言えるだろうなぁ。。。 



 *あと書

 細川先生
 今思い出した、1年2年の細川先生は、大学の時に一度お宅にお邪魔している。場所は今でも覚えているよ

 水野妙尾先生
 大学の時に、春の教員の移動記事で先生の名前を見つけて、数回手紙の交換をした。  

Posted by 生田 at 15:12Comments(0)TrackBack(0)思い出・想い出

2024年05月30日

朝ドラ「虎に翼」をみて 母を思い出し。。。。


朝ドラ「虎に翼」
5月30日の最後のシーンからお借りしました
どうしてもこの表情が欲しかったのです


この日のシーンの設定は
昭和21年10月
戦争が終わって1年以上経っているけど
父親の”直言”が最後の最後に
寅子の夫・優三の戦死を知らせた
そして戦友が優三からもらった
寅子の作ったお守りを返しにきた

まぁ詳しくは番組見てください
ネタバレをするつもりはないのですから


実は
寅子の娘さん
私と同い年です
つまりは昭和18年の生まれ
月は私が7月娘さんは12月
母親としての寅子の歳は28歳です

私の母親はこの18年の時は23歳でした
まぁ結婚したのが早かったらしいのです
この21年の時は26歳になっていたと思う

寅子は父親が隠していたものの
戦後に夫の死を知ります
そして 夫の戦友から
死の様を聞き泣きました

私の母親とほぼ同じです

私の母親も戦争が終わってから
父親の戦友から
死に様を知ったようです
(私の父親の命日はs19年11月6日)

戦争が終わって
帰ってくると信じて待っていて
戦死を知った

どんな気持ちだったのだろうって
今回の朝ドラを見ながら
寅子の表情を見ながら
母親の受けた衝撃を
私は思い起こそうと・・・
でも
母親からは聞いていないので
どんな気持ちだったのだろうかと
とにかく居た堪れなかっただろうということは
思わないわけにはいきません

今日の最後のシーンの
寅子の泣き顔
多分
母親が生きていてこれを見たら
ボロボロ涙を流すのではないかと
隣にいた相方と話したものです

寅子は実の母親と同居してた
それなりに母親が気遣ってくれている

私の母親は
終戦の時は私の父親の祖母と同居しかし
曽祖母は父親の戦死を知らずに亡くなっている
つまり
父が戦死したと知った時は
私の二人暮らしだった
誰も支える人はいなかったらしい
2人で一所懸命生きていた
いくつかの瞬間的な記憶があります

辛かっただろうなぁ。。。

その母親は
復員してきた父の戦友から
死に様を聞いたらしい
南方のブーゲンビル島では
日本軍は孤立していたのだろう
食料がなくなって
島民の作物を盗んで飢えを凌いだ

父親は僧侶になるべく教育を受けていて
多分五戒の「不偸盗戒*1」に原れて
盗み食いをすることができなくて
それで餓死したんだと

妻子よりも
仏さんを選んでしまったようだ

私に言わせれば
「仏さん選ぶなよ」
「生きて妻子のところに帰って置いよ」
ってことです

それが原因かどうかは知らないが
母親は私が宗教に近づくことを
かなり警戒していた

でも
進学した学校は
めちゃくちゃ宗教の学校だったよ

話がそれたので戻します

夫の戦死を知った母親は
それから私と二人暮らしで
かなり生活に困窮したようで
父親が生前に買い込んだ
今ならお宝になりそうなものを
売って凌いでいたと聞いてます

それは私を育てるため
戦友が語り残した言葉
「息子を頼む」
だったのだろうなぁ

母から聞いた記憶に何
父親は私を大学に行かせろ
というのがあった
そのために
母親はものすごい教育ママになって
私は苦労した


思い出すとめちゃくちゃ出てくるけど
辛いことが多いのでやめておこう

いずれにしても
戦争が終わって
必ず生きて帰ってくると
待っているところに
戦死の知らせ
受けた本人は
どう受け止めていいのやらわからないのでは
なかっただろうか

こんな辛い思いは
もう二度と起こして欲しくない


私は
母の苦闘もあるけれど
片親だった私自身の苦労から

私は死なない
死んでいけない

これを心の中に持ち続けて
もうじき81歳になる


*1  不偸盗戒
仏教の教えの中の五戒
不殺生戒
不偸盗戒
不邪淫戒
不妄語戒
不飲酒戒
その中の一つで
「盗んではいけない」
私はこれはあくまでも最低基準だと思っている
法律にいう「緊急避難」
生きるために止むに止まれず盗む
お釈迦さまも許してくれるのではないかと思う
ただし 何も無闇にぬすいんでいい
ということでは絶対にない
これだけは強調しておきます
  

Posted by 生田 at 20:19Comments(0)TrackBack(0)思い出・想い出

2020年10月08日

今日は雨 暗い日になってます  昔の思い出を書こう

今日は朝から雨
おかげで外のことは何もできず
家の中のことを
久々にちょっと断捨離

自分の作品を
捨てるのね
これはねぇ勇気いるんだな
せっか作ったものを
捨てるなんて
売れば売れるんだけど
売る場所がない
(ネットで売るのは嫌なんだ)


貯まるわなぁ
家の中仏さんがいっぱい
生きているうちに浄土にいる
ありがたいけど
家族からは邪魔者扱いで
たまに
いや今年は
とんでもない断捨離したぞ
何時10体も割ったもんね
ごめんね って言いながら

で今日は
少しだけ

その代わりに
整理してゴミ出し

疲れたんでPCの前に来た


先日お片付けで見つけた
英語の詩は記事アップしたけど
まだ他にもいっぱい見つかった

***************


 



なんだか上から目線の
慰めにもなってない詩だなぁ
って思うけどね

書いたのは私
送ったのは同期の同僚
それなりに理由があって
書いたらしい

いまおもえば
こんなのよくかけたわ

こいうのが出てくると
すべて単純に捨てていると
何なかったように捨てて
思い出も消えていくんだろうな

でも
この詩のことは
今でも覚えているよ
出てこなくて覚えてるよ

当てと
coffee break


スペルチェックのために
coffee break

翻訳したら
コーヒーブレイク
だって
ここでお茶を
くらいな訳できないかな?
  

Posted by 生田 at 16:37Comments(0)TrackBack(0)思い出・想い出

2018年11月01日

ドラマ見て 別れと迷える子羊 思い出した

ハローウィンクッキーの昼飯を食べながら
つけっぱなしのテレビをみていたら
BSで懐かしい”早乙女千春の添乗員報告(名取裕子・主演)”をやっていた

北海道・函館、江刺が舞台で
回想シーンで駅ホームで見送る少女の姿が出てきた
これ見てね
40数年前に釧路駅でのある別れを思い出した
 多分に夫婦の関係が壊れて
 妻が子供を連れて釧路から札幌の方に行く
 その女性の関係者と思われる数人が、なんとか止めようとしていた
 あさイチの急行だったと記憶
 なんかねぇ・・・
 当時私は新婚半年だったんでねぇ


そして同じドラマの最後の方のシーンになって
サスペンスドラマの定番・最後のシーンそのものの断崖で
犯人が捕まって最後に 千春=名取のセリフ
 ”人間てみんな迷える子羊・・・」
 これ聞いて昔々アメリカ・パロアルトでのこと
 仕事の取引先の人たちとの食事会
 そこできっかけは何だったかな?
 占いだったかな?
 その流れの中で”干支”の話になった
 それで私が未年
 目の前にいた取引先の人の奥さんが
  たまたま2回り下の未年とわかった
 みんなで”same same”とはやしていたところで
 私がおもむろに ”not same” といった
 周り(日本人以外)が ”Why”とみんな怪訝な顔
 そこで私のセリフ 
  ”You are a sheep, I"m a stray sheep”
 これでみんな取引先の人は大笑いで
  日本人は キョトンとしてぞ。。。

この話は、学校で学生に話したことがある
海の向にいくのなら、できたらその国の宗教を少し知っておくと
会話のすれ違いが少しは少なくなるかもなぁ って

まぁ、あまり英語の得意でない私なので大きな事は言えませんが
  

Posted by 生田 at 12:47Comments(0)TrackBack(0)思い出・想い出

2018年08月01日

8月1日の想い出 その2 運河神社夏祭り

画像は、記事リスト表示用のためのもので記事とは無関係

今日は8月1日
昔昔の思い出がいっぱいある日です

頭の中に残っている思い出が2つあり、その2目

・名古屋・中川運河の運河神社の夏祭り
  名古屋の港と旧国鉄の笹島貨物駅(現・笹島ライブ)を結ぶ
  中川運河
  最近再開発できれいにしようとしているが
  作られたのは昭和初期(らしい)
  私が子供の頃は水がまだ綺麗で泳げたし底も見えた
  しかし、流れのない運河で水は淀んでヘドロで埋まってしまったが

 その中川運河の北の方に
  小栗橋という北から3番目の橋があるが
  その端の北西に”運河神社”という小さい神社がある
  その神社の8月1日の夏祭りだ
  今は全くそんな気配もないのだが
  当時は神社の祭りはそれはそれは賑わっていた
  子供の絵画コンクールみたいなものもあり
  何度か賞をもらった記憶もある

  この夏祭りの最高のイベントは
  大花火大会だ
  当時の名古屋の花火大会でも屈指のものだった
  昼間からボンボン昼花火が上がり
  夜になるとものすごくたくさんの花火が打ち上げられた
  運河にかかる一番北の運河橋から
   猿子橋を過ぎて3番目の小栗橋まで
  今でいう”歩行者天国”になり
   この運河沿いの道をとにかくものすごい人が行き交ったのだ

 その花火大会は
  私が名古屋を離れるまで行われていたと記憶している
  しかし
  高校を卒業後10年間名古屋を離れていた
  その間に夏祭りも花火大会もなくなっていた
  その10年の間にはかなりな不況が有ったので
   花火を上げる寄付が集まらなくなったのかもしれない
  何にしても今は昔の話になった
 
中川運河は目下再整備中
  小栗橋の北東にある下水処理場も整備され
  公園の様は空き地もできているが
  できれば、これを使って
  名古屋中川運河の花火大会を再興してほしいものだ

  

Posted by 生田 at 11:21Comments(0)TrackBack(0)思い出・想い出

2018年08月01日

8月1日の想い出 その1 和良村の夏祭り

画像は、記事リスト表示用のためのもので記事とは無関係

今日は8月1日
昔昔の思い出がいっぱいある日です

頭の中に残っている思い出が2つ
まずはその1

・岐阜県郡上市和良の8月1日(だったと記憶)
  小学校の2年背の夏まで毎年名古屋から追い出されて
  祖父母のいる和良村(現・和良町)にいっていた
  都会っ子でもやし状態の私には
  かなりきついことも多かったが
  近くにいたお兄さんお姉さんのおかげで
  色んな思い出を持つことができた

 その中の一つに花火の話がある
  花火といっても夜打ち上げる大輪の花火の記憶はなぜかない
  ひょっとしたら上げてなかったのかも
  しかし、昼間は大きな竹筒を使った爆竹で
  周りが山に囲まれたこの地域では
  ボン、ボンと勢いのいい音がしていた
 
  祖父母の住んでいた地域の
  和良川(飛騨川、木曽川の上流)を挟んだ反対側の
  神社の夏祭りなのだ
  (今は寂れてしまってたなぁ)
  
  この爆竹の仕組を
  お兄さんが教えてくれたのだが
   記憶が違うかもしれないけど
    竹筒とカーバイトを使っていたのかな?

  ”ドン”と大声で脅されたのを覚えている
  あのお兄さんどうなったかなぁ。。。
  確か、お寺の息子さんだったと記憶しているけど

8月1日には、別記事にする名古屋の花火大会があった
  この日に和良に来ていたときは
  名古屋の花火が見れないなぁ って思ったものです

和良は当時は、ゲンジボタルがものすごくたくさん飛んでました
 今でも村内のあるところでむることができるそうです
 この6年いってないので、生きたいと思って入るけど。。。。

  

Posted by 生田 at 10:43Comments(0)TrackBack(0)思い出・想い出

2018年07月01日

生きた証 誰が残す?

 昨日友人がFaceBookで”断捨離”で捨てられないものを書いていました。思い出の品というものは、人それぞれいろんな思い入れがある。それを捨てられるかどうかは、その人の思い入れの重さが決めることで、他人が決めることではありません。
 人はそれぞれ価値観が違うので、ある人間にはものすごく重要なものでも、他の人は全くの邪魔なものと思うことも多いものでしょう。

 私も”断捨離”は幾分命令されてやっているところはありますが、最後の最後には「私が生きている間は絶対に捨てない」と宣言するときもあります。特に仕事で使っていたもの、自分の作ったものは、子どもたちが”どうするの?”と困惑しているらしいですが、私が向こうの世界に行ったら、捨ててくれてかまわないからと言ってありますが、それでも「邪魔だからさっさと捨てろ」と言われる面もあります。


 上の画像は、2冊の英語の辞書です。左は、まぁ捨ててもいいものです、私が中学か高校くらいに使っていたものですから。右は、実の父親が中学校時代に使っていたもので、10年くらい前に叔父(母の弟)から手渡されたものです。
 辞書には、父親の名前と叔父の名前が書き込まれています。

 辞書の上の写真がその父親の遺影です。この父親の写真の裏書きに「昭和17年入隊・・・」という物があるので、ひょっとしたら入隊に際して、工業系の中学にいた頃の叔父に贈ったものらしいのです。
 戦争のさなか、英語は敵性外国語でご法度だから、この辞書は叔父が学校で使うことはなかったかと思いますが、父の思い出ということなのか大事に保管していてくれて、なくなる数年前に私が叔父の家を訪れたときに「返すよ」といって手渡してくれました。

 父は、昭和19年23歳で南方の島”ブーゲンビル”で命を落としています。私は、生まれたときに一度抱かれただけと聞いています。なので顔は全く知りませんが、写真は一部残されているので知ってはいましたが。。。
 私には、育ての父親がいました。母親が、気遣って実父のものをほとんど処分したようで、実家に行っても今は何あもありません。再婚する前にはいろんな遺品があったのですが。

 叔父からこの辞書を受け取ったときは、本当に嬉しかったのです。子供の頃接していた実父の書籍がなくなっていただけに、これはお宝になりました。
 生きている間は、絶対に捨てられません。また、息子たちにも実の祖父の生きた証として「捨てるな」と遺言しておこうと思います。しかし、どう思うかなぁ???

 この英語の辞書は、私のものは昭和33年ころのもので、それまでは母親の選択するものを押し付けられていたのですが、初めて自分で選択したものです。

 実父の辞書は、昭和9年の出版です。叔父の保管がよかたので、今でも使えそうで、私のものはもうぼろぼろですが、父のものは装丁もしっかりとしています。
 この先、誰がこれをどう保管してくれるかわかりませんが、若くして命をなくさなければならなかった一人の男の生きた証として、残しておいてほしいと思っています。
  

Posted by 生田 at 11:25Comments(0)TrackBack(0)思い出・想い出
  
2015大津・京都の旅
1泊2日のドライブ旅行
2015北海道・道東の旅
1週間870kmのドライブ旅行
大学OB会と
50年ぶりの鎌倉
OB会の後に鎌倉と横浜に行ってきました
15年年頭 広島宿泊の旅
鞆の浦、竹原、宮島に行きました
14年秋 京都宿泊の旅
久しぶりに新幹線に乗りましたが・・・
13年秋 京都ドライブ旅
京都の紅葉の名所・毘沙門堂に行きました
12年秋 室生寺ドライブ旅
すてきな観音様と再会です
室生寺五重塔
12年秋 京都ドライブ旅
1年ぶりの京都です
三千院
10年秋 平泉ドライブ旅
4泊5日 2000キロの一人旅です
平泉・わんこそば
   
10年夏 室生寺 日帰り旅
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10年初夏 宇治・長岡 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに黄檗山満福寺・六地蔵・法界寺谷寺・長岡天神
布袋さん
09年秋京都 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに 紅葉がきれいな京都
南禅寺の紅葉
08年秋京都 日帰り旅
08年11月25日貧乏・一人・日帰り旅の記録です。
鳳凰堂を望む
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京都市・地下鉄 東西線沿線
09年浅草と川越
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生田
生田
 トップの写真は、我が家の庭で、鳥達につつかれ実もなくなり枯れ果てた柿の枝です。人生も同じで、仕事仕事で突き回されてここまで来て、落ち着いたら、だんだん枯れていくんだという思いです。  
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