2008年10月21日
小説『親鸞と真佛』(24・最終回)
霧 2
話を『女犯偈』に戻そう。
『女犯偈』は、理解できない人間が読んだ場合は、非常に危険な書き物である。特に親鸞、恵信尼の生きた時代でのこの書き物は、仏門にある人間にとっては命取りになる書き物である。その危険を冒してまでなぜ親鸞は書き残したのか。いや、それ以上に書き残す必要があったのかなのだ。
私のこの夢のような出来事での親鸞と真佛の会話でそれは氷解した。『女犯偈』が親鸞が恵信尼に書き送った文、つまりは恵信尼に妻となってほしいという求婚の、下世話な言葉で言えば口説き文句、つまりは恋文だったことになる。
真佛がなぜ『女犯偈』を書き写していたのかもこの会話の状態で理解ができる。何も親鸞の書物を書き写したのではなく、親鸞との話を記録としてしたためたのだ、だから手本の必要性はないのだ。
この二つのことが、私が経験したこと、たとえそれが夢であっても、過去において真実であったとしたら、今世で言われている論争が無意味になるものも多い。
私は、タイムスリップして見てきたことが、真実であってほしいと思う。親鸞の恵信尼に対する気持ちが一人の正直な男として、真剣に恵信尼と末永く添い遂げる気持ちが現れているからである。
これは、恵信尼が娘・覚信尼にあてた、親鸞入滅の知らせの返信に書かれた、熱い恵信尼の親鸞に対する気持ちの裏返しでもあるように思うのだ。
二人は、年老いても、遠く離れ離れになっても、お互いに熱い気持ちを持ち続けていたのだろう。親鸞から送られた女犯偈が書かれた手紙を恵信尼は死を迎えるまで持っていたのだろう。いや、持っていたかったのではないか。だからこそ娘・覚信尼に書き送った文に親鸞の真筆の女犯偈を添えることができなかったのだろう。恵信尼の親鸞に対する熱い思いがそうさせたのではないか。永年共に生き、何かの事情で別れて暮らさねばならなくなったとはいえ、心までもが離ればなれになることはなかったのだろう。
私は、興奮気味の気持ちを持ったまま喫茶店を出た。ここは三条通りなのだ。もうすっかり暗くなっているとはいえ、三条通りには間違いない。
秋口とはいえ、ほほをすぎる風は、もう冷たくなってきていた。
親鸞入滅の地といわれるところの一つ
京都御池中学校東、柳馬場通
ここまでが村沢の書き残した書き物だ。本当の結末をどう処理しようとしたのか、小説にしようとしたのか、いずれにしても完結しているようには見えないのだ。
しかし、話の筋としては、登場人物の少ない演劇か、テレビドラマにでもできる。村沢は、いったい何を狙っていたのだろう。
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ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
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