2023年09月19日
23年9月19日 救急搬送顛末記 めまいと徐脈と。。


最近はこんなスタイルで
お出かけしているんですが
今日は
病院の中では車椅子という・・
9月19日
日付の変わった頃
救急車で名古屋大学病院に搬送されました
その顛末記です
記憶に残っていることを書きます
結構長い読み物になると思います
しかし
最後の方に
目眩と脳の疾患の症状の差を書くつもりでいます
******
18日はドラゴンズ の根尾君の今年は初めての1軍の先発登板。いい試合をしていたのに、7回、チームメイトのエラーがらみで6点のリードを守りきれずに、勝利は逃げていってしまった。
試合を見ていた、もう腹の立つこと。テレビに向かって、救援投手に「試合潰すなよ」って怒鳴ったくらい。本当に根尾君がかわいそう、みんなで寄ってたかって、潰そうとしている。本当は、根尾君を勝利投手にしたくてガチガチになっていてのエラーかもなぁ・・
とにかく根尾君の見事なピッチングとバッティングに関しいい気分でいた。そして夕飯後風呂に入って扇風機に当たりながらテレビをいていた。
10時ごろだったか、眠くなってきたので寝床に行った。まぁ暑くて扇風機に当たりながら、変な汗かくなぁと思いながらの就寝。
11時半頃だったか、お腹の調子が変とトイレに行った。便が固くて力んだときに異変。頭の中で「ゴー」という音。トイレから出たら少しめまいが。それでも寝床に転がったのだが、30分くらいして目を開けたら天井が動いている。ここのところ治っていたグルグルめまいの再発だ。トイレに行きたくて行ったのだが、まともに歩くことができない。なんとか用を済ませて部屋に戻ろうとしたが気持ちが悪くなってきた吐き気が少しする。もう寝ている相方を起こして「助けてほしい」と。
洗面器など用意してもらったが、呼吸もおかしくなってきている。その割に脈が遅い。両手の手首か皿記に痺れがあり、唇にも少し痺れがある。いつもと違うめまいなのだ。全身から力が抜けて、立つことも困難になってきている・
痺れがなければ。昨年8月の緊急入院の時と同じめまいなのだが、この痺れがともなうのは初めての経験。
名古屋大学病院に行きたいのだが、相方の運転で行くのは心許ない。運転が下手といのではなく、途中で私に気を取られ事故でもあればそれこそ面倒になるし。ということで救急車を呼んでもらうことにした。
救急車に乗せられて病院に行くのだが、実は近いのは日赤が近い。しかし、今回はひょっとすると頭部のMRIを取る可能性もある。しかし、日赤は人工内耳装着車のMRIは撮らないことになっているので、救急にもその話をして、少し遠いけれど名古屋大学病院に向かってもらったのだ。
家の中に救急隊員が入ってきて、私を抱きかかえるのだが、吐き気がすると言ったらビニール袋を渡されて、ここに数回少し嘔吐した。
搬送中、なぜか時間が記憶では短く感じた。ひょっとしたら、途中幾分か記憶が飛んでいたかもしれない。
大学病院に到着して、ストエッチャーから病院のストレッチャーに移されて、なんだか知らないけえど、周り女性ばかりであれこれいじ回されて、点滴用の針を打ち込んで、さらに血液検査のための採血のための針を打ちこむのだが、血管が細いからとあち試されてて、最終的に、足の付け根の血管で採血をした。これまた初めての経験。
ドクターに症状の説明をして、MRIの必要があるかどうか先にCTで頭部の撮影をすることになり、検査室に運ばれてた。ここでもストレッチャーから撮影台に移動するのにもなんやかんやいじられたが、撮影そのものは、頭につけている人工内耳のサウンドプロセッサーを外して手に持って撮影している。(多分MRIの時は撮影室には持ちか込まれないはず)
救急の処置室に戻ってから、記憶がかなり飛んでいる。点滴に眠くなるものをでも入れられていたかもしれない。とにかく意識がなくなった、でもないかな?まぁとにかくうつらうつらしていたと思う、時折ドクターや看護師と会話おsているから。
はっきりと記憶があるのは、病院についてからかなり時間が経ってから。目が覚めた時、相方が近くに座っていた。
しばらくして、ドクターから「歩けるかどうは見たい」と言われ、ついでにトイレに行くと言って、まずは車椅子に移ってトイレに行った。ようを済ませて処置室に戻って、支えられながら少し歩いた。まともに歩けたという記憶は残っていない。
この頃、時間は4時くらいだったのかな、入院して処置する必要もなさそうということで、一旦帰宅して改めて来院して担当医の診察を受けるようにとの指示が出た・
というのも、CT撮影を救急担当のドクターが詳しく精査して「脳出血などの頭部の異常はないと判断した」ということなのだ。
救急外来を後に、関所で治療費を払って、タクシーを呼んでもらって帰宅。
帰宅したものの、めまいはある程度寝たからか少しおさまってはいるが、当初からの頭痛が残っている。大した痛みではないということと、とにかく寝なければいけないという思いで、こう言ったときのために処方してもらっている薬を飲んで床についた。想定通りに眠りに落ちた。このときもう5時半くらいになっていた。
7時半頃に目覚めた。グルグルめまいはかなりおさまっているが、ふわふわめまいはいつもの倍以上で、歩くには何かを支えにする必要がある。
それでも新聞を入れにいけるほど回復していた。でも、側から見たら危なっかしかっただろうと思う。
余談ですが、新聞には根尾君のピッチングの素晴らしさが書かれていた。
朝飯は抜き。まだ少しむかつくものが残っていたのだ。
座椅子に座って、ボケェとテレビ見ていたけれど、体を横にしたくなり、寝床に。そして1時間半くらい熟睡。
目覚めたらさすがにお腹が空いていたので、コロッケサンドを食べて朝飯とした。
12時頃に、相方の運転で名古屋大学病院に向かった。この日2度目の大学病院だ。
病院の駐車場に車を入れて、車椅子を借りて、外来受付に。この日は予約をしていないので、予約患者のスケジュールの中に割り込ませてもらうのだが、担当医の判断になるので、担当医出勤までいつになるかわからない。
それでも、申し込みを受け付けてもらった。診療開始は1時半。それまでに相方が昼食をと、敷地内のフードコートに行って、ローソンで買い物して、空いていたテーブル席で食事。ここで昼にアップした記事を書いたのだ。
食べ終えて、耳鼻科の受付に。
担当医と連絡が取れたのか、担当の看護師から「しばらく待合で待て」と言われた。
1時間くらいは覚悟していたのだが、なんとわりと早くに診察室に通されて、主治医のドクターと面談。
ここで救急で撮影したCTの画像を見ながら。救急の担当医と同様に「頭部のない終結などの問題は見当たらない」と再確認。
そして、色々の今回の症状を話したところ、それに対しての担当医からの所見と、脳出血など脳障害と内耳からくるめまいの違いについて教えられた。
1:手や唇の痺れ
今回私は、めまいと当時に量手首から先の痺れ、そして唇に痺れがあった。こうしたことは脳出血などでも生じるが。。。
一般的に、脳出血などの場合はその出血箇所の脳機能が圧迫されるので、その部位の身に痺れが生じる。しかしメニエルなどのめまいいよるときの痺れでは両手などと全般出てくる。ということで、今回の場合は、「脳疾患によるものではない」という結論になると
2:頭痛
今回の私の頭痛は、頭部前部と後頭部だが、これは「耳に関する脳の脳の担当部署が特に後頭部にあるので、めまいがある場合にはよく後頭部に痛みが残る」とこのと。
めまいでの頭痛は、今回の場合は呼吸が荒くなっての過呼吸の可能性が大きいと・
3:グルグルめまいとふわふわめまい
実はこれらは、原因は同じで、耳石が悪さをしているのだということ。その悪さの程度で変わるとのこと。
私の場合は、グルグルめまいの時は、目を開けておれないくらいな症状になるが、「ふわふわめまいの時は歩いたり頭の位置が変わったりすると目眩を起こすが、運転する時のように頭が固定された状態や静止状態の時にはめまいは起こらない」と言われた
大きくこの2点について教えられた。特に手に痺れがあっても、両手の場合には、脳梗塞などの問題の可能性は低いので、さほどの緊急性はないと言われた。
こうしたことを教えられ、診察料70円(一割負担)を支払って帰宅。
帰り道で晩飯のネタなどを買うのに二つのスーパーをはしご。なんとかふらつくから亜を少しでも慣れさせるために、杖をつき、カートにしがみ付いて、買い物かy区から身を守り長あの買い物をした。
そして帰宅したのが4時ごろ。めまいがあるときの外出は、かなり疲れる。帰宅してほぼ即寝床に転がって1時間以上熟視したようだ・
かなり長いう書き物になりました。
これだけかけたのは、めまいはあるものの生きしは完全になくなっていない。薬で寝たこと以外は、ほぼ意識はあったと思う。
いつものとだけど、安堵も救急搬送されているが、意識をなくしたことはない。
今回の私の症状は、あくまでも記憶に残っているものであって、それに担当医の話は私の症状からの所見であるということです。同じ症状があっても。ご自身での判断は意見だということをたまに残していただきたく思います。
2023年09月14日
前立腺がん 宣告から12年4ヶ月目のPSA 検査結果
朝からお出かけで
時出発で
途中車のガスを入れて
(¥168 ひょっとしたら名古屋の最安値の部類も)
(他は180円台つけてるところ多かったから)
その足で最初の医院に
ここれでは前月採決した
その血液検査の結果を聞く

メインの前立腺癌のマーカーPSAは0.00未満
この値になって
もう10年近くになるのではないだろうか?
末期癌を宣告された時
がん病巣が大きくなりすぎて
他臓器に浸潤、癒着
そのために手術も放射線もできない
最後の手段として
ホルモン療法が残った
それがドンピシャリ当たって
腹にシュウシャオを打ち
毎日ホルモン剤を飲むという生活が続いている
いまでは
CT検査の結果
がん病巣な見えないと言われている
おそらくこのままがんは
悪さをしないだろうとも言われている
まぁPSAの値からガンは問題なしと
そして他の血液検査結果でも
内臓脂肪を除いて
ほぼ問題なしという結論
実は
この後別の内科医院でも
この検査結果を見て
問題視との所見をもらった
2人のドクターの意見として
ありがたく聞いて。。。
そうそう
腎臓病もマーカー クレアチニン
これの値が改善していた
明後日専門病院に行くけど
多分問題なしということになると思う
ただ
最近の旺盛な食欲が
奈増脂肪を増やしている可能性もあるので
この先食事には気をつけないとなぁ
二つ目の医院の診察を終えたのが
11時半頃
それから予定する友人宅に向かう
でも昼食を摂らねばと
目的地に向かいながら
たえbられるとk路を探すものの
不安ないなとちで
見つけられず
コーヒー専門店に入って
遅遅のモーニングを食べ
足りないので隣のすーぱーで
パンを買って凌いだ
友人のお宅で
約3時間ほどの寒暖
今日目的は
先日織り上げたで聖観音を
未定もらうこと
なんと もらっていただけることになって
心から感謝してます
お役に立ってもらえればと願うばかりです
帰りは
途中でいつものスーパーに立ち寄って
今回もまた鶏肉を4枚も買い込んできた
明日はそれを蒸し肉にします
あぁ
明日は木彫りの日だから
料理は昼から
記事アップも昼からだなぁ
2023年09月06日
人工内耳装着後の6回目のリハビリ 新マッピングなし
午後1時の予約で
名古屋大学病院耳鼻科の言語リハビリに行った
早めに行って
リハビリの後でドクターの診察を受けたいと
受付に頼みに行った
それから昼飯を食べようと
鶴舞公園のレストランに行ったのだが
なんだかあちこち研修日でお休み
諦めて病院に戻ろうとした時
池にハスの花が咲いているのを見つけた


同じ花ではないです
たくさんは咲いていなかった
季節的に遅かったらしい
いつもは仏像の蓮華座を彫る割には
ハスの花を身近に見ることは少ないので
これはショットしなければと
ちょいとふらつくの我慢してのショット
それにしても綺麗でした
病院に戻って
LAWSONでサンドイッチ買って
テーブル席だ食べた
そして
早めに健康診断を受けに行った
リハビリの前に
健康診断をいつも受ける
めまいがあっても問題なしとして通過
そして少し遅れて言語リハビリ室に
4月28日に装着手術をして
その後のリハビリ6回目
なんでも昨日は
調整用のPCの調子が悪いらしく
マッピングができないということ
いつもは聞き取り検査をいくつかやって
それに合わせて調整(マッピンう)してもらうのだが
マッピングできないけれど
いつもより多くの検査をした
特に聞き取りで
どれだけ正確に聞き取れているかを
単語と単音で
そして臨時にわが相方の声での単音検査
正解率60%ぐらいだそうです
母音の聞き取りは確率高いけど
過去からの流れを引いているらしく
子音の間違いが多い
これが聞き取り全体に影響して
会話が不成立ということになる
とはいえ
装着手術から4ヶ月
そして私の80歳と言う年齢から判断して
かなり順調に聞こえてが戻っているとの診断
平均的にはもっと正解率は低いとのこと
まぁ喜んでいいものだけど
患者本人としては
他の人のことは置いといて
もっと聞こえが良くなりたいと思う
確かに
装着後サウンドプロセッサーを初めてつけた
(これを『音入れ』というのだそうな)
直後からもうそれなりに会話できているので
ドクターの検査技師さんも
ちょいと驚きの感じだった
ただ これだけ聞こえて入るものの
まだ宇宙人は結構多いし
マスクを通した声は聞こえにくい
テレビの声も
あしょうわかるようにはなってきたけど
まだまだ字幕の支援が必要
我慢ですね
リハビリ終えて
耳鼻科のドクターの診察を受けることができた
少し待ったけど
思ったよりも早く受けられた
めまいの話が中心だけど
「だんだん治まってくると思います」との診断
その後で
とうぶのMRIの殺意の予約を取ってもらった
これまでは日赤で撮っていたのだが
2っっ咳が病院の方針で人工内耳小着車は
MRI の撮影をしないと
言われたので
致し方ない依頼をしたのだ
撮影はちょいと先です 12月
聞こえの調子は
その日の体調にもろ利蹴りだけど
全体的にはうわむにきなっている
鶴舞公園のハスの花
これはお祝いかなぁ・
2023年06月08日
6月8日 木曜日 雨 血液検査でPSA値の結果
行き先は2つのクリニックの診察
朝のラッシュは思ったほどではなく
結構スムーズに最初のクリニックに到着
先客が数人いたけど
いつもより診察が早く始まって
10時過ぎにすんなりおわった
先月とった採決の結果票を受け取った

赤い線のところが
前立腺癌マーカーPSA
もうこれ以上計測できないという値
0.009未満
まぁゼロですね
これは男として本来得る値ではないんですが・・
もうこの状態が
十年くらい続いている
それでも治療をやめるわけにはいかないんだって
死ぬまでお付き合いです。。。
でもどこかでや〜〜めたと言おうと思っている
二十年先かなぁ?
この後腹にリューブリンを打って解放された
そして次のクリニックに
ここは混んでるんで
1時間待ち
最近の体調の話
人工内耳装着後の問題などを話して
毎月の薬の処方箋をもらった
今日は相方が相談事があるので
その分診察は長く
おわって
今日は真っ直ぐに家絵に帰る
と言っても途中で昼飯のネタを買い込んんで
調剤薬局で薬受け取って
帰宅したのが1時少し前
昼飯食べて
それから昨日買ってきた
鶏肉の調理
相変わらず鶏ムネ肉のムシ肉を作っている
疲れたねぇ。。。
中国ドラマ2本の録画を見たところで
ええ加減にせえと睡魔が襲ってきた
1時間熟睡
起きたところで
相方とこ難しい話を大激論
結論は私が出せる問題ではないんで
今日は
雨予想で
クリニックへの往復も
雨にやられるかと覚悟していた
が
雨は夕方になって降り出した
梅雨の最中だから空いた仕方ないね

雨の中枚に行った沙羅双樹
今日の開花はなし
明日も咲かないかもしれないな
蕾は結構大きくなってはいるけど
2023年05月25日
聞こえにだんだん慣れていく まだ宇宙人いっぱいだけど
明後日で一月になる
そしておトイレをしてから
10日経とうとしている
今日は
新しい木彫りの準備をちょっとだけした
昼から本格的にやろうと思ったら
相方が買い物に行くと言うので
騒音にも慣れないといけないから
ついて行った
と言っても運転は私がしたよ
スーパー2つ梯子した
最初は客数がそんなに多くない
オーガニックなどを扱う店
音も少なく
どうってことなし
2軒目は客が3倍以上のところ
やはり騒音は大きくなる
それに人の声もたくさん入ってくる
やっぱり宇宙人がいっぱいいる
それでも
時折わかる言葉も
そしてこの騒音の中で
相方と話ができるようになってきた
ああ相方の声
宇宙人から地球人になりつつある
でも
まだ記憶の相方の声ではないな
いつかきっと記憶の声を取り戻すのだ!!!

この画像は
私の今の頭を後ろからショット
耳の真上の少し膨らんでいるところに
サウンドプロセッサーが入っている
本当は磁石でくっつけただけでいいのだけど
落ちやすいので
付属でついていたヘアバンドを使っている
いずれこれを隠す
できたら洒落たヘアバンドを探しに行こうと思う
じじいでも洒落たのがあればなぁ
聞こえは
毎日少しずつ慣れてきて
テレビの声も少し聞こえる
でもまだ!0%もわからないけど
とにかく今は慣れること
それに
これまで大きな音を
聞くことがなかっただけに
人工内耳から入ってくる
大きな音に慣れないといけないのだ
脳みそがガンガン言っているけど
これに耐えて
音に慣れ
そしていずれは
声になっれなければいけない
でもね
嬉しいですね
音が入ってくるって言うのは
夜になってサウンドプロセッサーを
外した時のあの静寂
懐かしくなってきた
でも
静かだなぁ
脳みそが休まる
2023年05月23日
人工内耳+サウンドプロセッサーで 電話で話した
今日火曜日は
人工内耳手術後最初の経過間s夏の新s夏を受け
その前に
サウンドプロセッサー(SP)の
調整をしてもらった
音をかなり大きくしてくれた
(ちょいと大きすぎたかも)
これまで麺と向かった会話だけを
考えていたけど
相方が電話してみろという
ならばと
ここ数年電話で話すことのなかった
(LINEの文字交換はしていた)
横浜に住む妹に電話した

こっちの事情を説明した上でのこと
拡声器を付けて話せばまともに会話できる
音声文字変換なくてもできる
では
受話器ではと
受話器をSPに当ててみた
おぉ
話せる
妹の声が聞こえる
でも
その声は
記憶にある声ではなく
やっぱり宇宙人の声に近い
それでも
話ができるということは
本当に嬉しいこと
また世界が明るくなった
2023年05月23日
人工内耳手術後 言語リハと経過観察の後 宇宙人の声が
人工内耳装着手術をした
それから26日
初めての主治医による経過観察
その前に
人工内耳のサウンドプロセッサー(SP)による
言語リハビリを受けてきた

言語リハビリの前に
健康チェックの関所
いつものように体調の問診があって
無事通過して
言語リハビリの待合室に
ちょっと早かったので
ここでしばし待つ
2時少し前に始まって
前週初めてつける時の調整を
今回さらに進んだものにするという
いろいろやってもらって
リハビリの先生の声は
はっきりと聞こえるようになった
かなりはっきりと
それにボリュームを上げてもらって
いろんなものを聞き取る力が増したと思う
それとSPの頭につける時の磁石
先週は弱くて頭につかなかった
そのために
バンダナもどきの帯にSPを入れて
頭に巻いていた
これが痛かったんだよね
(頭締め付けるから)
今回はその自社の強いのに交換してもらって
帯なしで頭に直接
痛くなくて楽だわぁ
でもなぁ
頭振ると落ちそうなんだよな
リハビリは2週間先にまたやります
リハビリ終えて
今度が主事の経過観察
ほぼ予約時間に始まって
これまでの経過を話したり
手術痕を見てもらったり
(経過に関してはブログにアップした)
(記事を編集してプリントアウトして持っていった)
主治医曰く
人月足らずでここまで会話ができれば
十分成果がている
確かに
確かに
筆談しなくても
話すことできる機会
多くなったもアンネ
感謝bの意を表して
次に観察日は2ヶ月先
病院の関所を通過して
車に乗った
相方と話
ん??
相方の声が記憶と違うぞ
宇宙人の声だ

カーラジオから剥がれる声
ナビの姉さんの声
みんな宇宙人の声
なんだか狐に包ままれた感じ
この状態を2週間続ける
そしてこれを記憶するのだ
慣れなければ
主治医にもリハ日血¥裏の先生にも言われた
慣れることです
と
慣れましょう
慣れましょう
一生懸命声を聞いって
慣れましょう
啜れば
わかるようにある
実際の話として
私は過去10年間両耳に補聴器をつけていた
その時の音よりもいいかもしれない
多分よくなるだろうと思っている
私のような
両側感音性難聴には
補聴器よりもうんと効果かがあると
今は思っている
2023年05月07日
人工内耳装着手術体験記 最終回 入院4日目・退院 その後

もう退院が決まったものと思って、朝の検温、朝食後から退院準備を始めた。そんなにたくさんのものがあるわけでもないし、簡単に済んでしまった。9時30分くらいに相方がやってきた。そして、相方は退院手続きを済ませに一旦出て行ったが、戻ってきたところで、看護師を呼んで最後の診察を受けに行くことになった。
病棟の中にある、耳鼻科診察室で男性のドクターの診察を受ける。そして、手術痕に貼られていたガーゼを完全に除去し、外からの所見で問題なしということで、これで晴れて退院することになった。
ドクターにお礼を言い病室に戻って、荷物の整理と再点検をして、看護師にお礼をいって病室を後にした。

左の画像は、診察してもらったドクターにショットしてもらたもの。
病室から病院出口までの歩きでは、体が多少ふらついている。筋肉の弛緩と手術の後遺症の目眩の軽いのがふらつきの原因だと思う。この後出口で退院処理をして、車に乗って帰宅することに。車に乗ったのが10時40分だった。
帰宅途中で何か食べる予定していたけど、時間が11時前ということで昼食には早すぎるしそもそも店がまだ開店前で諦めて、途中スーパーに立ち寄り昼飯の弁当を買い込んで自宅に帰った。
この時、眼鏡もマスクも外している。眼鏡もマスクもつけていると、手術した耳を引っ張って、手術痕に対象の痛みが出るので、外していた。退院前のドクターの診察で、マスクの紐がかからないように気をつけてくださいと念を抑えている。家にいるときは外しているけれど、外に出るときは、マスクがキツくならないように一工夫しなければならないと思っている。(結局外に出ることがないので考える必要もなかったが)
家に帰って、一息ついてから昼食。買ってきたのは、病院食と違って、脂がキツかった(後で思った)鶏の唐揚げ弁当。食べたときはい

気分が少し落ち着いたところで、布団を敷いてもらって寝ることにした。眠りについて、目覚めたときは目眩はかはなり治っていた。
・退院翌日及び翌々日
目眩に関しては、人によりけりだけど、症状が出ることがあるとは聞いていたし、多分自分でも出るだろうとは思ってはいたものの、想定していたよりも程度の悪い目眩になった。
これを書いているのは、退院から2日してからだが、目眩は少ないとはいえ、歩けば少しふらつく、そして夜中にとんでもない耳鳴りに襲われて目が覚めたほどだ。
当分こうした副作用、後遺症が出るものと覚悟はしているが、こうしたことに慣れていく必要があり、我慢が強いられそうだと思っている。
GWの連休で、何年ぶりかで息子が帰省した、どこかにドライブしようと言ってくれたけれど長時間車に揺られれば多分に目眩を起こすだろうし、吐き気を催したらとんでもないことになるし、目的地では杖が必須になるし、下手すれば車椅子に乗らねばならないからと、ドライブは遠慮した。
・退院から4・5日目
夜寝るときは、手術痕が下にならないように、できるだけ反対側を下にして寝るようにしている。夜中寝相の悪い私は、手術痕に影響を与えていなければいいがと思ってはいるが。。
夜中トイレに行くために起きようとすると、グルグル目眩の襲われる。なんとか我慢して立ち上がって、ふらつきながらもなんとか済ませて来る。グルグル目眩は、昼間起きて椅子に座っているときはほとんど治っているのだが、立ち上がって歩こうとすると今度はふわふわ目眩に見舞われる。なんとか歩けるので、やりたいことを済ませてまた椅子に戻る。
目眩は日に日に軽減されつつあるが、これは自然に収まっているのか、退院4日目くらいからの手持ちのビタヘスチンの服用が効いてきているのか判別できない。
耳鳴りは、寝起きが一番キツく、起き続けているとある経度軽減される。ひどいときはもう我慢の限界と言ってもいい。それで夜中目が覚めたこともある。耳鳴りは、いろんなものがあり、ジェット機の音やら、電子音やら、唸り声のようなものも、とにかく音は定まっていない。耳鳴りは完全に消えることはないのだが、時折瞬間的に消えたかと思うが、それは消えたのではなく、何種類かの音の集合から大きい音耳鳴りが消えたに過ぎない。しばらくするとまた違う耳鳴りが重なって始まる。
耳鳴り、目眩は、手術後1〜2風間くらいで収まると言われているが、まだ退院5日目では、最高に出ているのかもしれない。なんとか早く治ってほしい。
心配しているのは、プロセッサーをつけて言葉の聞き取りを始めても、この耳鳴りがあると、うまく聞き取りできないのではということ。耳鳴りは、手術後は全くなかったと言っていいくらいなのが、翌日突然に大きくなった。体、頭の中で何かが起きているのだろうとは思うのだが。。
・退院から9日 この連載の締めに
退院7日目に初めて車に同乗して、買い物に出掛けた。目眩もほとんどなくなっているので、歩くときのふらつきもほとんどない。しかし、スーパーの中では他の買い物客の動きにかなり警戒をしていて、人の動きに神経を尖らせていることからか、かなり疲れた印象だった。
ドクターからは、目眩は1−2週間で治ると言われていたが、確かにほぼ1週間でぐるぐる目眩はほぼ収まった。しかし、天気に左右されるのか、天気が下り坂に差し掛かると耳鳴りの鳴り方が変わって軽い目眩も生じることがある。

目眩や耳鳴りは、元々手術する前から抱えている問題なので、手術の影響かどうかの判断はできないが、この先どういったことになるのか、サウンドプロセッサーを取り付けて、音が左側から入る様になると、この症状にまたは変化が生まれるのだろうか?変化があっても、いい方向にかわあってくれることを願って、とりあえず連載を止める。
10日くらい先にサウンドプロセッサーの取り付けをし、言語リハビリがスタートする。そのことがどういった変化を持たすかは、またその後に報告をすることにする。

********人工内耳装着手術体験記*******
その1入院と手術前検査
その2 入院2日目 手術日 その1手術
その3 入院2日目 手術日 その2 病室で
その4 入院3日目 手術翌日
最終回 入院4日目・退院から退院8日目
2023年05月06日
人工内耳装着手術体験記 その4 入院3日目 手術翌日


手術日は、その前日夜9時から食べ物禁止、午前0時からは飲食禁止となっていたのでが、手術日の夕方の術後5時間くらいして、ゼリーやプリンが解禁となり、手持ちのパンを食べてもいいという許可が出ていた。いくつかかじって空腹を凌いだが、正式な朝食はありがたかった。食事が解禁されたと同時に、日頃服用している薬の服用も解禁された。なんだか日常が少し近くなった気もしたけど、まだまだ遠いな。
この日は、朝6時過ぎの検温に始まって、8時半頃の朝食を食べて、その後手術痕のガーゼの交換やら何たらいろいろあって、それに時折睡魔に襲われるし、手術体験記なんて書いておれないのだ。せいぜいブログ記事の短い文章を書くの時間しかなかったと記憶している。
書きつつ思い出したのだが、この日のどこかで病院用のでかいおしぼりを使って前身を清拭(せいしき)してもらった。気持ちよかったなぁ。。。
昼食時に、午後にX線検査をすると「その検査結果によっては翌日退院となるよ」と看護師から言われた。そして時間が来た、確か2時半だったかと思う、歩いていいけると思っていたけど、何と車椅子に乗っていくのだと。やはり目眩の心配があるので、検査室までの往復を歩くのはダメらしい。(本人は大丈夫と思っているのに)
一枚羽織って行こうかと思ったが、病棟が暖かいからと病室着のままで車椅子に乗った。エレベータの前で、ちょいと寒いかなと思ったものの大丈夫だろうとそのままX線撮影の待合まで来てしまった。が、やっぱり着てくれば良かった。ちょいと寒いのだなぁ、X線撮影室は外来に通じているので外気温に近い。病室よりも結構冷えていたようだ。
X線撮影室に呼ばれて車椅子のまま入室。何でこの病院の技師さんたち女性が多いの?この検査室も全部女性で、まぁありがたいが。。。

これで、検査ベッドに体を起こした瞬間に、人工内耳を埋め込んだ左耳にとんでもない、これまで経験したことのない大きさと音の耳鳴りが始まった。大きいだけではなく、音の種類がまるで違うのだ。

また車椅子に乗せられて、病室に移動してそのままベッドに。ドクターに連絡してもらって、現況を見てもらうことに。
ドクターが病室に来てくれて面談。耳鳴りの現状を訴えるが、正直どう伝えたりいのか難しい。耳鳴りは他の人には聞こえないし、ドクターがどういった経験をしているかにもよるし。とにかく患者それぞれの病状を正確に伝えるのは難しいのだ。
まぁ、そんなに手術痕は痛みは出ていた中田は、痛み止めをとりあえず飲もうということになって、看護師からもらっていた痛み止めを2錠服用。そのまま話を続けるうちに、耳鳴りはかなりゆるくではあったけど収まっていった。
途中で、ドクターが耳に張り付けているガーゼを外して、交換をしてくれて、その手術痕の所見から、これならば翌日退院でいいだろうと、翌日10時に再診察をした上で、退院となると言われた。主治医、執刀医のドクターから言われていた入院から退院まで4日ほどという通りの運びとなる。
このドクターとの診察の後に、主治医で執刀医でもあるおクターが来てくれて、現状を確認してくれた。そして翌日退院の作人をして、目眩や耳鳴りは1−2週間くらいで治ることが多いと言われた。
あぁ もうこの日の記憶が飛びつつある。ドクターの診察の後、何をしたのだろう??ブログ記事を書いたような記憶はある。それ以外は、体験記を少し書いたのかな。。。
あぁ、多分夕方になって睡魔に襲われているかもしれない。やはり全身麻酔手術の翌日ということで、病室から出て、動きのあるものを見ることで疲れたのではないかと思う。
トイレに行くのは、手術直後こそ尿瓶を使ったが、その後は自力で歩いていき、しかも3回目くらいからは看護師の付き添いもなく一人で行っている。ただ、術後、トイレの感覚が少し遠くなったのは助かっていた。
退院することが決まったことは、LINEを使って相方に報告した。まさかこんなに早いとは思ってもいなかったようだ。
このまま最後の夜を過ごしたが、動きが少ない割にはとにかくお腹が空いてしょうがなかった。これはいつも服用している消化器系の薬の効果かもしれないのだが。ということで、買って来てあるクッキーをかじったりして空腹を凌いだ。
実を言うと、私はストレス喰いをする傾向にある。何か精神的にストレスがかかっている状態の時には、何かを食べていないと落ち着かないのだ。自分絵もなんとかしたいとは思えども、長年生きてきてもその解決方法はいまだに見つかっていない。
夜の寝つき悪く、寝ても眠りは浅かった。そして最後の朝は6時前に目覚めてしまっている。
その1 入院と手術前検査
その2 入院2日目 手術日 その1手術
その3 入院2日目 手術日 その2 病室で
その3 その4 入院3日目 手術翌日
2023年05月05日
人工内耳装着手術体験記 その3 入院2日目 手術日 2 病室で
そしてベッドに寝かされた状態で手術前に歩いてきた廊下をぐるぐる回って病室に帰りついた。この時点で家族の顔の確認はできていなかった。
病室に戻って、3時間は安静にしているようにと言われていた。動けったって、まだ身体緩んででしまっているから動けないないけど、それでも指と頭はうごかせた。
家族の顔もわかった。ありがとうと声をかけ、息子は仕事を休みにして来てくれていたので、無事生還したことを確認して仕事に帰っていった。
実はこのあたり、完全に脳が目覚めていたとはいいづらく、細かいことは記憶に残っていないのだ、というよりも、いろんなことがオーバーラップしていて、時間系列で並べることができないのだ。
病室に帰ってきても、結構寝ていたようだ。相方も一旦息子と病室を出て行っていったようだ。どのくらい出ていたのかわからなかったが、私が眠ってしまっていたのだろう、目が覚めたら看護師が「ご家族はゼリーとプリン買いにいってるよ」っておしえてくれた。
それからまた寝たのだろう、気がついたら相方が補助椅子に座っていた。
相方はゼリーとプリンを買ってきてくれていたのだ。冷蔵庫に入れて、食べ終わったっ冷蔵庫いらないけど。。なんてことを看護師と話をしたりしていた。
このゼリーとプリンは、全身麻酔後に初めて摂取できる食べ物らしい。麻酔が開けても食べると誤嚥する可能性が高く、それを防ぐという小tもある様だ。
その相方も、私がほとんど寝ているので手持ち無沙汰たで、「大人しくするのよ」と言って帰っていった。
3時間の安静が過ぎた頃かな、手術跡の傷の出血を見にきた。安静とはいえ頭は自由に動いていたから、夢見つつ自然に動いていたのか、かなり出血して、シーツを汚していた。
この出血は、誰にでもあることのようで、傷口からじわじわと流れ出ているらしい。この後も3回ほど手術痕の処理をしてもらっている。
画像左から 手術後3時間後 術後直後と同じ状態
中央は 初めての取り替えで 看護師にとってもらった
右は 取り替え後にガーゼが新しくなった状態
手術後は何もすることができない。何しろ左手には点滴の針が刺さったままなので自由に歩くことができない。手術が終わって病室に戻ってしばらくしたら尿意を覚えたので訴えたら、尿瓶を持ってきて処理をしてもらった。
絶飲食のせいか尿意の感覚がいつもの倍位遠いと感じた。がそれでも出したくなり、次に訴えたら、歩いて行けと言われ、看護師随行でトイレに向かった。
この時術後初めて立ったのだが、ちょっと軽い目眩と、筋肉の弛緩がとれていないからかなり不安定だった。トイレは洋式を使うかと聞かれたが、大丈夫と男性用の立ち小便器を使った。
どのくらいの時間だったか、水を飲んでもいいと許可が出たので冷たい水を飲んだ、なんと美味かったことか。
しかし水を飲むときに違和感。味の問題ではなく、飲むために口を開けなければならないが、口を開けると手術痕に痛みがはしるのだ。想定外のこと、食べるときはもっとひどく、口を開くときも痛むが、それに噛むときにも痛みがあるのだ。でも我慢できる痛みではある。
それでも最初の頃合は、口が開けなくて、水もまともに飲めないから、看護師に頼んでストローを用意してもらったくらいだ。
手術後は、食事もできないので、時折パンを齧ったりしながら、寝てることが多かった。しかし、ブログで多くの人に心配かけているので、書けるようになったところで自撮りの私をめずらしくそのまま、と言っても酸素マスクして、寝巻き姿というとんでもないものをアップした。
この手術後は、麻酔が切れても結構眠気があって、なんだかずいぶんうとうとしたような気がする。テレビを見るわけでもなく、ただベッドに寝転がって、時折 iPad でゲームしていた。
何時ごろだろう、多分夜11時か12時頃だと思うけど、熟睡したようだ。が、3時頃に目が覚めてしまった。それからが寝られない、ゲームしたりもしたけどこの際とばかりに、記憶に残っているいる間にと、この体験記を書き始めた。
手術したその日に書いているのにもう記憶が飛んでいる。悲しい現実です。それに時間経過の混濁。何をいつしたのかまるで頭には、やったこと、見たこと、聞いたことが、時間系列に並ばないのだ。本当に情けない。
その1 入院と手術前検査
その2 入院2日目 手術日 その1手術
その3 入院2日目 手術日 その2 病室で
その3 その4 入院3日目 手術翌日
***
これを書い当ている最中
14時22分に能登半島で震度6強の地震があった
我が家の柱時計止まってた
名古屋でも珍しく揺れたのです
2023年05月04日
人工内耳装着手術体験記 その2 手術日 その1手術

まぁ、いうなれば飛行機旅行でのエコノミー症候群と同じことですねとドクターに確認したら、その通りですとのことです。

広い病院の中をエレベータで降りて、それから病棟の長い道をくねくね歩いて手術室の入り口に来た。ここで家族とはお別れ、お互い扉が閉まるまで手をを振った。
入り口のホールに入ると数人の手術看護師が待っていた。ここで病室用から手術室用のものに着替えをした。寝巻きみたいに前が開く全身用のものです。
看護師数人に取り囲まれて、「ハーレム状態ダァ」って冗談いったり、全く緊張感はなかった。
そして手術台のある手術室に向かう。病室からも長かったっけど、ここも入り口から手術ベッドまでの長かったことこと。もう手術の始まっている部屋もいくつかあり、その横を通っていく。先導と後に看護師に挟まれての行進、前日の死刑囚の思いの続きで、まるで死刑台に向かうみたいと頭にチラつく。が、決して心配したり、緊張していたのではない。ドクターの人柄から完全に身を任せるという安心感が先に立っている。
手術台に上がった。と言ってもこの手術台は記憶が薄れてしまっているので、表現が難しいが、ごくありきたりのベッドみたいな感じの上になんだか分厚いマットを敷いていたかと思う、今考えればこれで体を固定したのだろうと。
ベッドに寝かされて、いろんなものが体に取り付けられる。その都度「〇〇をつけるよ」と説明があるけど聞こえない。それでほとんどを筆記して読ませてもらった。ただドクターは私の病状を知っているだけに、耳元で大きな声で語りかけてくれていた。
そして点滴で麻酔薬を注入するために、前日夕方に病室まで事前調査に来た麻酔医が手の甲の静脈を探していた。私は極度に血管が細いと言われているが、どうもその通りで打ち込に必要な静脈が見つからず、かなり手の甲を叩いて血管を浮き出させていたが、やっと見つかったようで「今から少しちくっとしますよ」と声がかかって、少々でなかったがちくっとして針が差し込まれた。かなり弄った感じだなぁ。。。さらに説明が「量が多いので手が痺れるかもしれない」と、寝てしまったら痺れもわからないけどなぁ。
私は覚悟して目を瞑っていたら、トントンされて目に前で指で丸を作って「目を開けていろ」と、これは目が空いていれば、寝たのがわかるからだろうと思う。
この後しばらくしたら、完全に寝たのだろう、記憶が全く無い。ただ、記憶には内容は残っていないけれど、何かの夢を見続けていたように思う。
その見ていた夢を破るように、左肩をトントンされた。「終わりましたよ」と。本当に夢破られての目覚めで、一瞬目の前がなんだかわからなかったが、たくさんの顔が私を覗き込んでいたが、執刀医の私の主治医のドクターの顔が見えた。「あっ先生だ」と声を上げた。ドクターが耳の横にきて「無事終わりましたよ、人工内耳も完璧に埋め込まれましたよ」と話してくれた。私は感謝に気持ちをいうとともに「家族が心配ししているから連絡してください」とお願いをした。
目が覚めた。「生きていた」といいのが正直な気持ちだ。
体から取り付けられていたものが取り外されれていく。残ったものは酸素マスクと足のマッサージ器具、そのほかの観察用機器のケーブルは皆外されたようだ。ただ、酸素マスクがいつ取り外されたのかは、全く記憶に残っていない。麻酔から覚めたと言っても、脳は完全に目覚めていなかったのかもしれない。
マッサージ機は、酢術中からつけっぱなしで、病室に来ても3時間以上はつけてたのかな?気持ちよかった。ストッキングは退院して家に帰るまで履き続けてました。
その1 入院と手術前検査
その2 入院2日目 手術日 その1手術
その3 入院2日目 手術日 その2 病室で
その3 その4 入院3日目 手術翌日
お断り
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2023年05月03日
人工内耳装着手術体験記 その1 入院と手術前検査


そして落ち着いたかなと思ったところで、看護師が来て「麻酔科ドクターから呼び出しです」と言ってきた。そしてその時事に従って、相方を伴って(一緒に注意事項を聞いてもらうのだ)外科麻酔科の受付に向かった。
入院初日に麻酔科ドクターから全身麻酔の詳しい説明を受ける。
何せ頭の一部を切り開いて、人工内耳を埋め込むのだから、頭部に麻酔をかける必要があるのだ。
私個人としては、過去にいくつかの手術を受けている。扁桃腺除去では喉の局部麻酔、アキレス腱断裂、鼠径ヘルニアでは脊椎からの下半身麻酔、そして前立腺がんの生体検査でも脊椎からの下半身麻酔を使った。

テレビドラマなどで顔にマスクをかけて手術するシーンが出てくるので、そんなもんかという思いもあったのだろうが、ドラマに出て来るシーンでは見たことがない話がでてきた。私の全身麻酔の知識といえば、マスクから笑気ガスを吸い込んで眠りにつくのだが、今回の手術では手の甲の静脈からの点滴による全身麻酔だと聞いた。ちらっと頭に出てきたのは、米国の死刑執行に使われる方法の死なないだけだのだなぁって、不吉なことは出てこなくてもいいのにと我ながらあきれたものに、これは口には出さず心の中にしまい込んだ。
この後、肺機能検査を受けに検査室に向かった。
少しタムラグがあって、検察に呼び込まれた。する検査は、肺活量などを測って、多分麻酔時の呼吸器の状態を検査したものだと思う。
麻酔時には、口から色々管を挿入して、マスクで人工呼吸を続けると、麻酔医から説明を受けているので、その際の肺機能の検査だと思う。

そして16時からシャワーを浴びることになった。手術後しばらく先発などできなくなる可能性があるので、全身洗い流しておくようにということだ。
その1 入院と手術前検査
その2 入院2日目 手術日 その1手術
その3 入院2日目 手術日 その2 病室で
その3 その4 入院3日目 手術翌日
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2023年04月08日
祝 末期・前立腺ガン宣告 12周年
末期の前立腺癌を宣告されたのは、何の因果か知らないけれど、あの東日本大震災の年のお釈迦様の誕生日、誕生会(花まつり)だった。
大震災は3月11日だったけれど、私の体の中での激震から大津波はもう襲ってきていたらしい。ただ自覚症状全くなく、たまたま2月に特定検診(通称メタボ検診)を受けた際にワンコイン=500円で受けられる前立腺癌検診を何となく受けることにした。
特定検診の結果を聞くのは一月後ということで、何の心配もせずに一月を過ごした。
そして一月後に結果を受け取りに行った。診察室でドクターは、それまでに見ていれば連絡くれたのかもしれないが、多分私が受け取りに行ったから初めて見たんだろう。血液検査の結果を見て「398だ?なんだこれ〜」と言ったのだ。そして「前立腺癌の疑いがあるので、大きい病院で見てもらえ」と。その時の記憶ほとんど残っていない。たぶん「がん」という言葉で頭の中真っ白になっていたのだろうと今更ながら思う。しかし、家に帰ってPSAについて調べて、標準値が3前後だと知って、単位の間違いではないのかとすら思ったのだが・・
紹介状を書いてもらって、数日後に大病院に。そしていろいろ検査、採血して後日再審を受けることになった。再審に出かけ、担当ドクターから「精密検査の必要があるので入院してください」と。
指示に従っての検査入院。あまり記憶に残っていないけれど、検査室で針を12本打たれて、そのうちの9本に癌細胞がついていたと、後々分かったのだ。
検査入院から20日くらい経って、その結果を聞きに行ったのが12年前の今日4月8日だったのだ。「ステージIVの末期癌」と言われた。当たり前だなぁ。12分の9の癌細胞、それに大病院での最初の血液検査ではPSAはすでに500を超えていたのだから。
そしてこの後放射線科の所見を聞いたりした結果、「放射線は多臓器にあたるので不可」そして「手術はた臓器に浸潤、癒着しているのでふか」との宣告。残されたのは”ホルモン療法だけ”と言われた。
私はその時、「セカンドオピニオンを」とドクターに申出したのだが、ドクターは「これしか方法ないと思いますが」と言いつつ、紹介状の準備に入ってくれたようだ。
そして翌日、消化器系のドクターの友人のクリニックに行き「セカンドオピニオンどこで取ったらしい?」と相談したのだが、友人から帰ってきたのは「お前なぁ、セカンドオピニオンは必要ないわ。これしか方法ないぞ」と冷たい回答(本当は暖かいんですけど)。ということで、この友人の言葉が正解のセカンドオピニオンになった。そして数日後に大病院に行き、セカンドオピニオン取らないことになった旨を連絡、そして5月の連休明けから治療開始となった。
腹にゾラデックスを打ち、毎日過疎デックスを服用するという、ホルモン療法が始まったのだ。最初は一月おきに空デックスをうちに病院に行く、そして血液検査でPSAの値を観察する。
ホルモン療法開始食後は、まだPSAは上がっていて同じ月に最高591を記録している。それから1ヶ月後の採血と診察で、PSAは495に下がっていた。この時のドクターの言葉は「これで行きましょう」ということで、完全に治療方針が決まったのだ。
そして5ヶ月後には、PSAは0.1台に落ち着いたのだ。
12年の経過を描くつもりはない。過去の記事で「奇跡の軌跡」という連載をしたいるbので、そちらをご覧いただきたいです。
2022年12月12日
12月12日 月曜日 晴 ほぼ無風 これで鼻血騒も終焉か?
土曜日の未明に
名古屋大学病院の救急外来に行ったが
出血止まっていたので帰宅させられて
1日置いて
今日一般外来で見てもらってきた
実は
土曜の夜中だけでなく
帰宅後の夕方にも出血
そして昨日日曜日も
3回にわたる出血
一度は
昼食後に今で座っていたら
突然口に中に血が流れ出てきたり
最後は夜7時頃に出血して
止血に1時間かかるという
これだけ出血すると
体がだるくなったりする
今日は
午前の診察に合わせて外来に
予約がないのでかなり待たされて最後の患者になった
診察室に入って
経過をいろいろ話をして
先週の画像を見たり
今日もカメラを挿入して検査したり
結果として
今日は止血している瘡蓋が残っていたので
出血点はここと断定
粘膜焼灼術というある種の手術で
傷口を焼いて塞ぐということをした

某クリニックの画像を拝借
こんなイメージで
バイポーラを使って出血点を焼いてもらった
これで止血されて
出血は無くなるだろうと
麻酔なしなので痛かった
そう言ったら
毒たがごめんというので
「この痛みは許せん」と言ったら
のけぞってたな
いい先生に出会ったのだ
出血は止まった
楽になった
でも今度は鼻水が止まらなくなったぞ
実のところ
今日は入院をさせてもらうつもりで
入院準備を完璧にして出かけたけど
入院なしで
日帰り手術で完了
もっと早くやってもらっていれば
こんなに騒ぐこともなかったのになぁと
ブツブツブツ・・・・
あぁこれで
夜もぐっすり寝られる
今までもぐっすり寝ているけど
幅字が出ないように
那覇に穴に詰め物して寝てたから
それなしでなられるのが嬉しい
さて
これで今週の木曜日に入院です
そして金曜日朝イチで手術らしい
退院予定は日曜日ですが・・・・
2022年12月09日
ドラマ「silent」第9回を見て聴覚障害者の私が思ったこと
人工内耳を装着しようとする私に
つまされるような話
年代が同じなら
同じようなことをしていたのかもなんて
思いながら毎回見ているけど
(でもこんなに暗くはないかもな)
今回第9回で”佐倉想=目黒蓮”が
なぜ手話を使うようになったのかの理由がわかった

東京から地元に帰って
母親=篠原涼子との話
そして聞こえなくなった頃の回想
想は 聞こえなくなった
そして話す自分の声すら聞こえなくなった
これで自分が何を話しているのかが分からなくなった
話すことに自信をなくしただろう
実はこのことは私はよく理解できるのだ
想は全く聴力を失ったと見受けられる
聴力を失うと
実際に自分の話している言葉も聞こえないのだ
聴力を失っていく過程で
自分の話し声が聞こえなくなると
聞こうとして話し声が大きくなる
聞こえなくなる程度に反比例して大きくなる
周りからはうるさいと言われるくらいに
歳を取った人の話し声が大きいのはこれが原因
そんな可能性が大きい
私自信 聞こえないから話し声が大きくなる
もともと地声がおおきい
さらにはよく通る声らしいので
周りは私の話し声にかなり迷惑を感じていらしい
しかしそれを指摘する人は少ない
ドラマの話に戻って
想は聞こえないから
話し言葉に自信をなくして
手話を学んだ
ドラマの時系列からは
聴力を失ったのは時代的にかなり前で
現在のようにデジタル機器が未熟だった
現時点で同じことになったら
どうしていただろう?
私は聴力が極度に低下して10年
補聴器を装着した
この時すでに話し言葉の聞き取りが
かなり悪くなっていた
さらに今から4年くらい前から
話し言葉をほとんど受け付けなくなるという
そんな症状に落ち込んんだ
補聴器をつけても音は入るものの
人の言葉が判別できない
私の場合は
母音はなんとか判別できても
子音が判別できない
例えば”ま”と”ば”
このために聞き間違いがもともと多かった
ある大学病院のドクターは
年齢による認知力の問題と片付けた
しかし実情は違う
今の名古屋大学病院ではこんなことはないのだが
聞こえなくなると
自分の話す言葉も聞こえなくなる
私は
頭の中に思い浮かんでいることを話すから
自分が聞こえなくても
話せているだろうと判断していた
しかし 佐倉想のように自信がなくなると
パニックになるだろうとは思う
が
ここで後ろを向かないでもらいたい
想は手話に向かったが
聞こえなくても話せるのだということを認識して
それに基づいて対処してほしい
今なら話し言葉をスマホなどで音声文字変換できる
自分の話す言葉を確認できる
テキスト入力できるアプリで
スマホに向かって話しかければ文字になる
おそらくそれを知れば自信をもていると思う
さらには人の話し声も
音声文字変換で見る=聞くこともできるのだ
ただし
現時点(22年12月)では
音声文字変換はスマホの通信量が発生する
WIFIのあることならば問題ないが
ないところだと通信量が発生する
聴覚障害者への福祉の支援はあるものの
現時点では限られている
どちらかといえば
ロウ朝は対象もののが多く
話すことができて聞こえないという
ある種の聴覚情報処理障害の人には
福祉の支援は
補聴器が最大かもしれない
なんとか行政に訴えて
聴覚情報処理障害者に
デジタル機器の支援ができるように
法改正をしてほしいと思っている
私はもう補聴器では聞き取りできないと判断され
人工内耳を装着する
ちょうど1週間先が手術の日
今頃手術の最中かもしれない
手術成功して
最初の音入れは26日
それから聞き取りのリハビリが始まる
これは
リハビリ担当からの思いやり
できたら正月に聞き取りが少しでもできればという
さて
ドラマは、後1回か2回で終わると思う
どのような結末になるのか?
できたら総構えを向いて
明るく生きていくようにしてほしい
ちょっと全体に暗く感じるドラマだったので
結末は明るくしてほしいと望んでいる
****
余談ですが
私は通常電話で話すことが難しいです
このためにガラホ携帯の音声を
スマホもどきのiPodやiPadを使って
音声文字変換して相手の話を聞き(見て)
なんとか意思疎通を図ってます
もっとも話す前に
音声文字変換して話している
と断ってますが
もし聞こえないから電話もできない
と持っておられる方がいたら
こちらが話せるのなら
音声文字変換を使った方法も
一つの手段だと思います