2008年10月15日
小説『親鸞と真佛』(18)
親鸞の結婚 2
「真佛よ。本当に、お世話になっているお二人のお勧めを無碍にお断りすることもできず。それにも増して、僧たる私が、女人を追って越後に下るわけにも行かぬしな。意を決して、妻を娶ることにした」
「上人。それでは恵信様とは・・・」
「真佛よ。まあ、そう急くな。弥陀の計らいは、奥が深いと申したであろう」
「上人。重ね重ね、失礼しました。その奥の深いところをお聞かせください」
「真佛よ。これは、お二人のご進言は、私に力を下されたものであり、私の女人の差別をなくすという考えをお認めいただいたものなのだ。九条様の計らいで九条様のお屋敷に近い五条西洞院に庵を設けさせていただいた。その庵から空師の法話をお聞きするために黒谷まで毎日通うことになった。玉日もお聞きするのに支障のない限り通ったものだ。二人そろってな」
「上人。それは目立ったことでございましょう。抵抗も多かったのではございませんでしょうか」
「真佛よ。確かに、目立ったであろう。抵抗は空師の門下の中でも多かったといえるであろう。釈尊の教えに背くものという謗りは絶えることはなかった。空師がお認めになられたといっても、世の考えが即日変わるものでもなく、ほとんどの人々が理解できないものであったのだろう。空師は、いつも私におおせられたものだ。『これも弥陀の計らい。そなたの苦労が世の中を変えるための方便と弥陀のお考えであろう。』と、あくまでも弥陀のお心を信じていくことを説かれておった。
その後は、宗門の受けた弾圧は真佛も知るところだが、その中には空師が私の妻帯を認め、いや勧めたことへの揶揄もあったのは確かだ。承元の法難は、表には私が妻を娶ったことは出てはいないものの、叡山や南都がいきり立っていたのは、私の妻帯も遠因になっていたことは確かであろう。そのために、私は空師には教えを五年という短い間だけしか受けることができなかったのが、これも弥陀の計らいとはいえ残念に思われてならない」
真佛としては、恵信尼との話までもう一度もって行きたいのだろう、つらい思い出を話す親鸞に、さらに問いかけた。
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ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
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