2007年12月25日
京都への思い入れ 北大路
京都への思い入れは、前回書いた「親鸞研究」の他にもう一つあります。
若いころ そう、大学を卒業して就職したのが大阪。
名古屋生まれで育ちも名古屋。東京で5年過ごして、身についている文化は、名古屋と東京の下町。
大阪の河内に住み着いたものの、文化の違いには戸惑いも多く、勤めの人間関係もいろいろストレスになって、時折京都の、人があまり来ないお庵でボォ~~としていたことが何度となくある。
そのボォ~~としていた寺がわからなくなってしまった。いや、寺そのものはわかっている。その寺の中の一つの庵なのだが、それがわからない。もう40年にもなるので、庵の中にいた僧職の方々もほとんど変わってしまったので、訪ね歩いてもわからなういという返事ばかりだ。
3回ほど寺に通い、たずねることが出来る庵は全部訪ねたのだが、拝観拒否の庵まではやはり遠慮してしまう。ひょっとしたらその拝観拒否の庵の中の一つなのかもしれないのだが。
今でも、情景は頭の中になるのだが。その情景に会うところが見つからない。
40年という年月の流れが、庵の立替もあったという。
そういったことから、私の思い出の場所が、いまだに見つかっていない。機会があるごとにたずねて、何とか見つけたいとは思うのだが。
寺は、大徳寺。おそらく『大仙院』という庭園で有名な寺としてご存知の方も多いと思います。
この寺の中にあった小さい庵で、いくたびにお話したのが、黒い袈裟を召された尼さんだったのです。大徳寺で尼さんという記憶を持つ人に出会っていないのです。
その庵の入り口には、与謝野晶子の詩を書いたものがありました。
手がかりは、これだけです。
藁をもつかみたい心内です。
若いころ そう、大学を卒業して就職したのが大阪。
名古屋生まれで育ちも名古屋。東京で5年過ごして、身についている文化は、名古屋と東京の下町。
大阪の河内に住み着いたものの、文化の違いには戸惑いも多く、勤めの人間関係もいろいろストレスになって、時折京都の、人があまり来ないお庵でボォ~~としていたことが何度となくある。
そのボォ~~としていた寺がわからなくなってしまった。いや、寺そのものはわかっている。その寺の中の一つの庵なのだが、それがわからない。もう40年にもなるので、庵の中にいた僧職の方々もほとんど変わってしまったので、訪ね歩いてもわからなういという返事ばかりだ。
3回ほど寺に通い、たずねることが出来る庵は全部訪ねたのだが、拝観拒否の庵まではやはり遠慮してしまう。ひょっとしたらその拝観拒否の庵の中の一つなのかもしれないのだが。
今でも、情景は頭の中になるのだが。その情景に会うところが見つからない。
40年という年月の流れが、庵の立替もあったという。
そういったことから、私の思い出の場所が、いまだに見つかっていない。機会があるごとにたずねて、何とか見つけたいとは思うのだが。
寺は、大徳寺。おそらく『大仙院』という庭園で有名な寺としてご存知の方も多いと思います。
この寺の中にあった小さい庵で、いくたびにお話したのが、黒い袈裟を召された尼さんだったのです。大徳寺で尼さんという記憶を持つ人に出会っていないのです。
その庵の入り口には、与謝野晶子の詩を書いたものがありました。
手がかりは、これだけです。
藁をもつかみたい心内です。