2009年03月30日
五木寛之・親鸞 法然批判
五木寛之氏の連載小説『親鸞』は目下 吉水草庵で親鸞と法然が対面している。
**ここで書く『批判』とは、学者の間での論文の評価をするときの用語のようなもの。けなす意味での批判ではない。**
ここで親鸞は、法然教えは危険であると説いている。
確かに、法然の教えは、当時では危険極まりない教えである。法然が認めたように、法然自身の中の矛盾を突いていると書いているが、正直法然の教えは、そこまでぶれていたのだろうか?私は、五木氏と宗教観が違うせいからかも知れないが、そうは思っていない。法然の教えは、ぶれているのではなく、説く相手により話し方が異なるのでぶれているように思えるかもしれない。(『方便』という見方。しかし、それは、釈迦の説く話そのものにもあることだと思っている私である。)
念仏(正式には『称名念仏』かな?)は、仏説無量寿経の第18番の願を特に取り上げて説いている。法像菩薩が悟りを開いて阿弥陀如来になったときの四八願のうちの十八番。法然の気持ちの中にぶれが有れば、これだけとはいえないと私は思っているが。。。
実は、法然の説く教えの危険性は、誤解を名招く恐れが有るという点では、確かにそのとおり。法然の説く教え、それを危険と説いた場合には、親鸞が小説の中で法然に向かって話した『女犯偈夢告』の方がもっと危険なはずなのだ。しかし五木親鸞にはそのことが触れられていない。これから触れるというとなると疑問を感じるのだ。自分の体験した(危険な)話を先にしたうえで、法然の教えを危険と後に言うのは、私ならば耐えられない。
自力・他力の話は、私は非常に単純に考えている。
浄土に生まれるために、一生懸命修行して、考えて、善を積んでという立場の自力の人と、阿弥陀さんの力で浄土に迎えてもらおうと思う他力の人。ということではなく、仏説・無量寿経の法像菩薩が阿弥陀如来になるための四八願は、法像菩薩が阿弥陀如来となった(悟りを開いた)のだから、それは全ての願が成就したことを示している。ならば、人は誰でもみな(どうも一部除外されるものがあるようだが)浄土に迎えられるはずなのだと。他力、自力を云々する必要はあるのかと思っているのだ。(これを他力といわれてしまうとどうしようもないけど)
多分に、お叱りを頂戴する考えだろうと思う。この考えで行くと、宗教団体の意味がなくなりそうだから。
こうした、観点に立っている私なので、小説の中に出てくるものにどうしても違和感を感じざるを得ないのだ。
一番違和感を感じているのが、親鸞の女性観なんだけど。目下、吉水草庵にいるということは、もう赤山明神の逸話は出てこないだろう。その代わりに葛城山の女が出てきたのかもしれないが、『玉日』という親鸞にとって切り離せないキーワードがか無視されてしまっているところが、このまま行くと最後まで違和感を引きずることになると思う。
宗教の教えって、私には矛盾がいっぱいなような気ががしている。でも、信仰は、人それぞれです。
**ここで書く『批判』とは、学者の間での論文の評価をするときの用語のようなもの。けなす意味での批判ではない。**
ここで親鸞は、法然教えは危険であると説いている。
確かに、法然の教えは、当時では危険極まりない教えである。法然が認めたように、法然自身の中の矛盾を突いていると書いているが、正直法然の教えは、そこまでぶれていたのだろうか?私は、五木氏と宗教観が違うせいからかも知れないが、そうは思っていない。法然の教えは、ぶれているのではなく、説く相手により話し方が異なるのでぶれているように思えるかもしれない。(『方便』という見方。しかし、それは、釈迦の説く話そのものにもあることだと思っている私である。)
念仏(正式には『称名念仏』かな?)は、仏説無量寿経の第18番の願を特に取り上げて説いている。法像菩薩が悟りを開いて阿弥陀如来になったときの四八願のうちの十八番。法然の気持ちの中にぶれが有れば、これだけとはいえないと私は思っているが。。。
実は、法然の説く教えの危険性は、誤解を名招く恐れが有るという点では、確かにそのとおり。法然の説く教え、それを危険と説いた場合には、親鸞が小説の中で法然に向かって話した『女犯偈夢告』の方がもっと危険なはずなのだ。しかし五木親鸞にはそのことが触れられていない。これから触れるというとなると疑問を感じるのだ。自分の体験した(危険な)話を先にしたうえで、法然の教えを危険と後に言うのは、私ならば耐えられない。
自力・他力の話は、私は非常に単純に考えている。
浄土に生まれるために、一生懸命修行して、考えて、善を積んでという立場の自力の人と、阿弥陀さんの力で浄土に迎えてもらおうと思う他力の人。ということではなく、仏説・無量寿経の法像菩薩が阿弥陀如来になるための四八願は、法像菩薩が阿弥陀如来となった(悟りを開いた)のだから、それは全ての願が成就したことを示している。ならば、人は誰でもみな(どうも一部除外されるものがあるようだが)浄土に迎えられるはずなのだと。他力、自力を云々する必要はあるのかと思っているのだ。(これを他力といわれてしまうとどうしようもないけど)
多分に、お叱りを頂戴する考えだろうと思う。この考えで行くと、宗教団体の意味がなくなりそうだから。
こうした、観点に立っている私なので、小説の中に出てくるものにどうしても違和感を感じざるを得ないのだ。
一番違和感を感じているのが、親鸞の女性観なんだけど。目下、吉水草庵にいるということは、もう赤山明神の逸話は出てこないだろう。その代わりに葛城山の女が出てきたのかもしれないが、『玉日』という親鸞にとって切り離せないキーワードがか無視されてしまっているところが、このまま行くと最後まで違和感を引きずることになると思う。
宗教の教えって、私には矛盾がいっぱいなような気ががしている。でも、信仰は、人それぞれです。
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この記事へのコメント
私は不勉強なので、極力単純に考えておりますが・・・と言うか、そうしかとらえきれない
程不勉強なのですが・・・(笑)。
教えに矛盾が多々存在していて、受け取り手である混沌とした世界に住む私を始めとする圧倒的な「愚かなる者」が曲解を繰り返して・・・
でも、そんな情けない私にも救いの手を差し伸べて頂けるのだとしたら・・・
私はただ手を合せて涙を流すばかりであります。
仕事にあけくれて、学ぶ事から離れておりましたが、あらためて宗教感について一から
私も考え直してみたいと感じております。
程不勉強なのですが・・・(笑)。
教えに矛盾が多々存在していて、受け取り手である混沌とした世界に住む私を始めとする圧倒的な「愚かなる者」が曲解を繰り返して・・・
でも、そんな情けない私にも救いの手を差し伸べて頂けるのだとしたら・・・
私はただ手を合せて涙を流すばかりであります。
仕事にあけくれて、学ぶ事から離れておりましたが、あらためて宗教感について一から
私も考え直してみたいと感じております。
Posted by kin147 at 2009年03月30日 23:16
宗教は、人それぞれの問題で、他人様が否定するものではないとも浮けど。
私は、五木さんの宗教観を否定するつもりは無い。
でも、私の親鸞感とは、かなり違うということだけです。
私の親鸞感は、このブログの左上のつたない書き物「親鸞と真佛」に出ていると思います。
私は、五木さんの宗教観を否定するつもりは無い。
でも、私の親鸞感とは、かなり違うということだけです。
私の親鸞感は、このブログの左上のつたない書き物「親鸞と真佛」に出ていると思います。
Posted by 生田 at 2009年03月30日 23:33