2017年06月23日
小林麻央 逝く に思うこと
きょう2017年6月23日の政治などを除く最大の話題が「小林麻央逝く」ではないかと思う。
言わずと知れた”市川海老蔵”の奥さん。そして”乳がん”の闘病記をブログで書き続けて来た彼女。まだ若いのに、人生ってわからんものです。
彼女のブログの中に「抗がん剤で毛が抜ける、その対策のウィッグ」とニュースの中で見た。彼女は抗がん剤を使っていたということで、ステージ4でどうしようもなかったのかもしれないが、どの段階から抗がん剤を使っていたのか?副作用はどの時点でで始めたのか?こんなことを本人から聞いて見たかった。
私自身ステージ4のガンを抱えていた人間。もっとも彼女の癌が女性特有に近い(というのは乳がんは男でも発症するが極めて少ない)癌で、私の場合は男専用の癌で比較の対象にはならないのだが、”抗がん剤”という言葉にどうしても反応してしまうのだ。
実は、某病院の癌患者の集いに毎月参加しているのだが、乳がん患者は独立したグループを作っていなくなってしまった(らしい)ので、現在どのくらいの人が乳がんで抗がん剤を使っているかわからない。しかし、その他の癌で末期と言われている人と多く接している。ステージ4でなくともなかなり重症の人もいるし、私のように4でありながら6年経って平穏に生活しているのもいいる。
この患者の会で知る限り、結構な人が抗がん剤を停止している。抗がん剤を初めて対象を崩してしまう人がそうした停止という選択をしている。抗がん剤を売っている時には副作用に悩まされていたが、辞めてからはその悩みから解放されて、かなり楽に生活している人も結構いる。逆に抗がん剤をを続けていた人で旅立たれた方も多くいる。私の義弟も抗がん剤を売ってい事で癌宣告から半年持たないで逝ってしまった。
抗がん剤は、避けて通れないのか?これは担当医師によりけりかもしれない。副作用が出はじめた時に、患者がどのようにその症状を話すかにもよりけりだが、多くは「抗がん剤しかない」という宣告をしている可能性が高い。
癌は、患者100人いたら100通りの症状があると思う。全く同様の症状ではないらしい。さらには、抗がん剤の副作用も症状はそれぞれ違っていると、接している人の話から思う。私は、本来の”抗がん剤”を使ったことがないのでコメントできない部分だが、別な意味で癌対策として”ホルモン剤”を使用している。
前立腺癌の場合、手術、放射線、ホルモン剤、抗がん剤などの処方があるが、私の場合は手術、放射線が適用できないまで進行した癌だったわけで、残されたのはホルモン剤だけだったから結果としてホルモン剤治療ということになったのだが、このホルモン剤治療の結果は現時点で担当医も驚くほどの効果を得ていて、多くの場合5年から6年くらいで再燃する可能性が高いのだが私は6年経った今も効果は全く変わっていないで継続している。
しかし、一方で同じ処方でありながら効果の出ていない人もいると聞いている。その効果の出ている私でもホルモン剤の副作用のおかげで自律神経がめちゃくちゃになっているが、これは可愛いものと思っている。
抗がん剤とホルモン剤とは大きく違うが、副作用があるという共通点で見た時に、その副作用の程度は患者一人一人違うのだが、その副作用を担当医がどう判断するかで、治療方針が決まるだろうが、医師は患者で本人ではない、患者の体の中で何が起きているのかを正確には把握できていないかもうせいもある。
入院治療しているとかなり難しいが、通院治療の場合は「セカンドオピニオン」をするべきだろうなぁ。
よく耳にするのは、抗がん剤治療をしていた患者が死ぬと「抗がん剤にやられた」と。多くは真実ではないだろうが、一部は真実だと言えるようだ。祈願剤で副作用がひどい時はそれなりに医師と真剣に話をするべきだろうし、本来医師はもっともっと詳しく副作用を患者に話さねばならないし、副作用の研究をしなくてはならないと思っている。
癌患者は、がん検診の精度の向上でこれからも増え続けるだろうが、その治療に関してもっともっと医療側は情報を公開、いや広く伝わるように考えるべきだと思っている。
最後に、小林麻央さんのご冥福を心から祈ります。
言わずと知れた”市川海老蔵”の奥さん。そして”乳がん”の闘病記をブログで書き続けて来た彼女。まだ若いのに、人生ってわからんものです。
彼女のブログの中に「抗がん剤で毛が抜ける、その対策のウィッグ」とニュースの中で見た。彼女は抗がん剤を使っていたということで、ステージ4でどうしようもなかったのかもしれないが、どの段階から抗がん剤を使っていたのか?副作用はどの時点でで始めたのか?こんなことを本人から聞いて見たかった。
私自身ステージ4のガンを抱えていた人間。もっとも彼女の癌が女性特有に近い(というのは乳がんは男でも発症するが極めて少ない)癌で、私の場合は男専用の癌で比較の対象にはならないのだが、”抗がん剤”という言葉にどうしても反応してしまうのだ。
実は、某病院の癌患者の集いに毎月参加しているのだが、乳がん患者は独立したグループを作っていなくなってしまった(らしい)ので、現在どのくらいの人が乳がんで抗がん剤を使っているかわからない。しかし、その他の癌で末期と言われている人と多く接している。ステージ4でなくともなかなり重症の人もいるし、私のように4でありながら6年経って平穏に生活しているのもいいる。
この患者の会で知る限り、結構な人が抗がん剤を停止している。抗がん剤を初めて対象を崩してしまう人がそうした停止という選択をしている。抗がん剤を売っている時には副作用に悩まされていたが、辞めてからはその悩みから解放されて、かなり楽に生活している人も結構いる。逆に抗がん剤をを続けていた人で旅立たれた方も多くいる。私の義弟も抗がん剤を売ってい事で癌宣告から半年持たないで逝ってしまった。
抗がん剤は、避けて通れないのか?これは担当医師によりけりかもしれない。副作用が出はじめた時に、患者がどのようにその症状を話すかにもよりけりだが、多くは「抗がん剤しかない」という宣告をしている可能性が高い。
癌は、患者100人いたら100通りの症状があると思う。全く同様の症状ではないらしい。さらには、抗がん剤の副作用も症状はそれぞれ違っていると、接している人の話から思う。私は、本来の”抗がん剤”を使ったことがないのでコメントできない部分だが、別な意味で癌対策として”ホルモン剤”を使用している。
前立腺癌の場合、手術、放射線、ホルモン剤、抗がん剤などの処方があるが、私の場合は手術、放射線が適用できないまで進行した癌だったわけで、残されたのはホルモン剤だけだったから結果としてホルモン剤治療ということになったのだが、このホルモン剤治療の結果は現時点で担当医も驚くほどの効果を得ていて、多くの場合5年から6年くらいで再燃する可能性が高いのだが私は6年経った今も効果は全く変わっていないで継続している。
しかし、一方で同じ処方でありながら効果の出ていない人もいると聞いている。その効果の出ている私でもホルモン剤の副作用のおかげで自律神経がめちゃくちゃになっているが、これは可愛いものと思っている。
抗がん剤とホルモン剤とは大きく違うが、副作用があるという共通点で見た時に、その副作用の程度は患者一人一人違うのだが、その副作用を担当医がどう判断するかで、治療方針が決まるだろうが、医師は患者で本人ではない、患者の体の中で何が起きているのかを正確には把握できていないかもうせいもある。
入院治療しているとかなり難しいが、通院治療の場合は「セカンドオピニオン」をするべきだろうなぁ。
よく耳にするのは、抗がん剤治療をしていた患者が死ぬと「抗がん剤にやられた」と。多くは真実ではないだろうが、一部は真実だと言えるようだ。祈願剤で副作用がひどい時はそれなりに医師と真剣に話をするべきだろうし、本来医師はもっともっと詳しく副作用を患者に話さねばならないし、副作用の研究をしなくてはならないと思っている。
癌患者は、がん検診の精度の向上でこれからも増え続けるだろうが、その治療に関してもっともっと医療側は情報を公開、いや広く伝わるように考えるべきだと思っている。
最後に、小林麻央さんのご冥福を心から祈ります。
2017年06月23日
金曜日の墓参り 暑くて・・・
今日墓参りに行って来た。本当は数日前に行かねばならんのだけど、なんやかんやスケジュールが混んで今日になってしまった。
まぁ午前ぞさんの命日でもないんだよな。月命日は数日ずれているけど、今日よりも前、なので・・・
車で行っているのだが、緑の公園墓地は道路整備されたはいいけど、出入りが面倒になった。それに整備された道路がまだ完全ではないけどいずれ幹線になるもので、まだ知れ渡っていないからそんなに交通量は多くはないものの段々知ったドライバーも増えて来て出入りに気を使うことが多くなった。
今日も入るときは、後ろにトラックがぴったりくっついていたので、早めにウィンカーを出して墓に入ると宣言をしてことなきを得たが・・・・
公園墓地の中は墓参の人はまばら、なので車はどこに止めようとも平気な感じだ。ということで木の陰になるところに止めた。
墓に行くと毎度の草抜きをするのだが、例年に比べると草が少ない。雨が少なかったせいなのかな?墓の掃除が楽でいいけどねぇ。
掃除をして、手を合わせて、終わり。
車を出口に走らせたが、今日みたいに空いているときはいいけど、お盆や年始、それに彼岸などの時はもうめちゃくちゃ混雑すると思う。そう行ったことが考慮されていない道路整備で、計画したやつの顔が見たい。
観戦になる道路の下をくぐって、公園事務所の前を通って反対側に出るのだが、この出口がまた見にくい。右からくる幹線道路の車を見るのが難しいのだ。が^ドレールト植木が視界を邪魔している。おそらくそのうちに交通事故を起こすことになると思う。
きょうも気をつけて出たつもりなのだが、幹線に出たら少しで追いつかれた。そしてパッシングをしおった。されるいわれはないのだが、かなり向こうはスピードを題していたのだろう。ちょいうと腹が立ったが。。。。。
お昼を過ぎていたので、ヒルズウォークで昼飯。まだ腹が空いたか感じがしない。
まぁ午前ぞさんの命日でもないんだよな。月命日は数日ずれているけど、今日よりも前、なので・・・
車で行っているのだが、緑の公園墓地は道路整備されたはいいけど、出入りが面倒になった。それに整備された道路がまだ完全ではないけどいずれ幹線になるもので、まだ知れ渡っていないからそんなに交通量は多くはないものの段々知ったドライバーも増えて来て出入りに気を使うことが多くなった。
今日も入るときは、後ろにトラックがぴったりくっついていたので、早めにウィンカーを出して墓に入ると宣言をしてことなきを得たが・・・・
公園墓地の中は墓参の人はまばら、なので車はどこに止めようとも平気な感じだ。ということで木の陰になるところに止めた。
墓に行くと毎度の草抜きをするのだが、例年に比べると草が少ない。雨が少なかったせいなのかな?墓の掃除が楽でいいけどねぇ。
掃除をして、手を合わせて、終わり。
車を出口に走らせたが、今日みたいに空いているときはいいけど、お盆や年始、それに彼岸などの時はもうめちゃくちゃ混雑すると思う。そう行ったことが考慮されていない道路整備で、計画したやつの顔が見たい。
観戦になる道路の下をくぐって、公園事務所の前を通って反対側に出るのだが、この出口がまた見にくい。右からくる幹線道路の車を見るのが難しいのだ。が^ドレールト植木が視界を邪魔している。おそらくそのうちに交通事故を起こすことになると思う。
きょうも気をつけて出たつもりなのだが、幹線に出たら少しで追いつかれた。そしてパッシングをしおった。されるいわれはないのだが、かなり向こうはスピードを題していたのだろう。ちょいうと腹が立ったが。。。。。
お昼を過ぎていたので、ヒルズウォークで昼飯。まだ腹が空いたか感じがしない。
2017年06月23日
4泊5日 石垣島の旅 最終日 12 那覇空港
ゆいレールで那覇空港に到着。石垣島から来たのが前日だったなんて思えない、何か長くいたような錯覚がここでも。なんでそんな錯覚になるのかわからないんですが・・・
空港に着いたものの全くの不案内、来た時とは全く違う場所なので右往左往というところ、なんとかANAの受付カウンターを見つけてたが、まだ荷物を預けるわけにはいかない。トランクを一つからに近くしてあるから、これから土産を買い込んでそれに詰め込まねばならないのだ。といって、私は首里城のあののぼり下りと国際通りを歩いたことでもう足が限界に近い、とりあえずANAのサービースクーポンで買えるものを買いに売店をうろちょろ、そこで石垣島の織物を使った名刺入れを買った。(あの模様は石垣島の独特ものらしくて初日に先輩が来ていた服の模様もそれだったなぁ)
それから家族やらご近所へのお土産を買った、買った。トランクに詰め込んで登場受付カウンターへ。この時私は足がもうパンパンに張っているから首里城の上り下りに使った杖をそのままついていた。カウンターの係りの女性が「お足がお悪いようですが、機内でお手伝いが必要ですか?」と尋ねて来た。そこまでは必要ないかと思ったので「結構です」と答えた。
それからまだ時間が1時間近くあったので、家内はあちこちと冒険をしていたが、私は椅子に座って売店の様子を観察していた。観光客がいっぱい。さすが沖縄那覇空港。単純なローk流空港ではないなぁ。などと思いながら。
時間も残り30分くらいになったので搭乗口に移動して待つことにした。そして登場案内のアナウンスが。最初は子供づれや体の不自由な人の案内があったのだが、私は移動だけで列に並んでいたが、前の方だったこともあって係りの女性から声をかけられ、「〇〇様ですか?」と聞かれたので「そうです」と答えたら、先に登場くださいと言われた。荷物を預けた時の係りが杖をついていたことを連絡していた(多分コンピュータに入力した)のだろう。ここはありがたくと先に登場させてもらった。(左の画像は待合から外を見ています)
機内に入って席に着いた。おぉ〜〜〜〜また主翼のところだヨォ。。。これで3機ともに羽の横それも必ず右側で。。。。ありがたいのかどうか、できれば主翼の前の方がありがたいんだけどねぇ。。。。
さて、最後のフライトです。まずは南に向けて飛び上がったようです。太陽が右に見えている。。。。
だんだん外の明るさが消えていきます。そして何も見えなくなりました。夜のフライトは、海の上がつまらんですねぇ。昔アメリカに行く時も暗くなると外の星を見ていたのですが、星の名前なんか知らないからすぐに飽きてしまって寝たのをもいだしましたね。
さて、次回は最終回「お家に帰ろう」です。
空港に着いたものの全くの不案内、来た時とは全く違う場所なので右往左往というところ、なんとかANAの受付カウンターを見つけてたが、まだ荷物を預けるわけにはいかない。トランクを一つからに近くしてあるから、これから土産を買い込んでそれに詰め込まねばならないのだ。といって、私は首里城のあののぼり下りと国際通りを歩いたことでもう足が限界に近い、とりあえずANAのサービースクーポンで買えるものを買いに売店をうろちょろ、そこで石垣島の織物を使った名刺入れを買った。(あの模様は石垣島の独特ものらしくて初日に先輩が来ていた服の模様もそれだったなぁ)
それから家族やらご近所へのお土産を買った、買った。トランクに詰め込んで登場受付カウンターへ。この時私は足がもうパンパンに張っているから首里城の上り下りに使った杖をそのままついていた。カウンターの係りの女性が「お足がお悪いようですが、機内でお手伝いが必要ですか?」と尋ねて来た。そこまでは必要ないかと思ったので「結構です」と答えた。
それからまだ時間が1時間近くあったので、家内はあちこちと冒険をしていたが、私は椅子に座って売店の様子を観察していた。観光客がいっぱい。さすが沖縄那覇空港。単純なローk流空港ではないなぁ。などと思いながら。
時間も残り30分くらいになったので搭乗口に移動して待つことにした。そして登場案内のアナウンスが。最初は子供づれや体の不自由な人の案内があったのだが、私は移動だけで列に並んでいたが、前の方だったこともあって係りの女性から声をかけられ、「〇〇様ですか?」と聞かれたので「そうです」と答えたら、先に登場くださいと言われた。荷物を預けた時の係りが杖をついていたことを連絡していた(多分コンピュータに入力した)のだろう。ここはありがたくと先に登場させてもらった。(左の画像は待合から外を見ています)
機内に入って席に着いた。おぉ〜〜〜〜また主翼のところだヨォ。。。これで3機ともに羽の横それも必ず右側で。。。。ありがたいのかどうか、できれば主翼の前の方がありがたいんだけどねぇ。。。。
さて、最後のフライトです。まずは南に向けて飛び上がったようです。太陽が右に見えている。。。。
だんだん外の明るさが消えていきます。そして何も見えなくなりました。夜のフライトは、海の上がつまらんですねぇ。昔アメリカに行く時も暗くなると外の星を見ていたのですが、星の名前なんか知らないからすぐに飽きてしまって寝たのをもいだしましたね。
さて、次回は最終回「お家に帰ろう」です。