2024年06月05日
小学校時代の思い出 記憶のあるうちに その2 3年〜4年
私は昭和18年生まれ、戦争の最中に生まれた。そんな記憶はほんの少しだけしかないけど、今や80歳を超えて記憶が遠くなりつつあるので、まだ頭の中にあるもがせるなら出しておこうと、思い出話を書く気になった。
というのも、先日80歳になったジジババの小学校クラス会をやったばかりだし、テレビの朝ドラで終戦前後の話をしているので、色々と思い出すこともあって。それを書いて残しておこうということです。
1年と2年の時はクラス替えあったけど、担任の先生は私は同じだった。ただ担任の細川先生が出産休暇をとったことは前回書いた。
3年になって教室は新しい校舎に移った。校舎がいくつか経ったので、二部授業は無くなった。そして担任も変わった。
最初は三重県出身の井村妙先生。私が一番好きだった先生だなぁって、何せ中学校の時に仏像に興味を持つきっかけになった、和辻哲郎の「古寺巡礼」を貸してもらった先生なのだ。つまりこの先生とは中学、高校の時も時折お自宅にお邪魔して、色々話をしている。
井村先生は、3年の途中で転勤するということになった。というのも、音楽の担当だった水野先生と結婚されたので、夫婦が同じ学校は御法度だったのか、転勤を余儀なくされたのだろう。私にしてみるとかなりショックだった。
この水野妙(結婚後の名前)先生の時の5月だったか、私は10日間学校を休んでいる。なんと風邪を拗らせて肺炎を起こし、死にかけたらしい(記憶はあるよ)、先生がお見舞いに来てくれたことはしっかり覚えている。
ついでだから書いておこう。実は3年〜4年にかけて、私は病欠をかなりしている。ほとんどが風邪を拗らせているのだけど、休めば1週間くらいは学校に行っていない。なんとも虚弱体質だったんだということだろう。
水野先生が結婚しての転校、で次に来られたのが水野妙尾先生、名前に”尾”がついてる。妙先生と、妙尾先生は、体系的にかなり差があって、妙先生はかなりガッチリしていたけど、妙尾先生は細身だった。性格的にもその体系的な面がでてたのか、お二方とも素晴らしい先生だったけど、私自身には妙先生の方が当たりが柔らかかったかなぁ。。妙尾先生は結構きつかったという記憶です。
妙尾先生は確かそのまま4年に持ち上がったと記憶しているけど、この妙尾先生も途中で転勤ということ(理由の記憶はない)になってしまって、次に記憶が定かでないのだけど、確か杉山先生が赴任された。先生の下の名が思い出せない、”千枝子”だったかと)
この杉山先生は、かなり当たりが柔らかい先生だったけど、それは見た目であって、結構厳しくお叱りを受けている。まぁ私はやんちゃだったし、わがままだったから、年に一度は親が呼び出されるくらいだったからなぁ。
杉山先生の思い出は、小学校の時ではなく、高校1年の時のものがが残っている。私が高校1年の9月26日に伊勢湾台風で東海地方がかなり打撃を受けたが、先生は桑名・長島の長良川と木曽川の間の高いところにお住まいだったかと思う。災害から2ヶ月近く経った頃、近鉄が線路冠水のまま止まってしまっていたので、バスに乗って桑名まで行き、国道一号線でバスを降りて、川沿い先生のお自宅まで登っていき先生に被害のお見舞いに行った。
先生から、伊勢湾台風の惨劇を教えていただいたが、お会いしたのはそれが最後になった。 *後書あり
4年の時にも病欠したけど、先生のフォローがあったかと記憶が少し。 そうそう、4年時は校舎が変わって、新しい東側の校舎(現在ここには体育館がある)に移ったと記憶している。
実のところ、この3年4年の学校の授業などの思い出は頭に残っていない。なぜだかわからないが、この3人の先生の入れ替わりで慌しかったことと、何度も病欠したことで、学校自体の記憶が飛んでいるのかも知れない。
とにかく、この2年間は私にとっては、激動の年だった。そう言えるだろうなぁ。。。
*あと書
細川先生
今思い出した、1年2年の細川先生は、大学の時に一度お宅にお邪魔している。場所は今でも覚えているよ
水野妙尾先生
大学の時に、春の教員の移動記事で先生の名前を見つけて、数回手紙の交換をした。