2008年03月23日
カーリング世界選手権
カーリング 世界選手権
最初の試合、イタリア戦の最後の目黒のショットは最高でした。
昨年の攻めないで負けたときとは大違いの戦い。
この先が楽しみ。
本橋が、細くなったなぁ。
第2戦は、アメリカにまけたようだ。残念
最初の試合、イタリア戦の最後の目黒のショットは最高でした。
昨年の攻めないで負けたときとは大違いの戦い。
この先が楽しみ。
本橋が、細くなったなぁ。
第2戦は、アメリカにまけたようだ。残念
2008年03月23日
2008年03月23日
桜開花
昨日 山王通りを車で
19号線との交差点の少し西の桜 四分咲きくらいに見えた。
あぁ。もうここまで春になったのだと。。
ここの2ヶ月近く 自然を見ての余裕はあまりなかった。
街路樹のもくれんは散っている
我が家のモクレンは、今が盛り。
二月の季節のずれ、頭の中もずれてしまった見たい。
ちょっとした 浦島太郎かな?
19号線との交差点の少し西の桜 四分咲きくらいに見えた。
あぁ。もうここまで春になったのだと。。
ここの2ヶ月近く 自然を見ての余裕はあまりなかった。
街路樹のもくれんは散っている
我が家のモクレンは、今が盛り。
二月の季節のずれ、頭の中もずれてしまった見たい。
ちょっとした 浦島太郎かな?
2008年03月23日
春の選抜高校野球開幕
毎年恒例の春の選抜 高校野球が始まった。
実は、私は高校野球が好きではない。本当の意味で勉強そっちのけで野球だけをしているような印象は、高校生というよりもプロ野球の予備校にいるような印象を持っているからだ。
高校野球などで有名になるとそれだけ多くの生徒を招き寄せることができるから、野球だけで入学を許可する。
それはそれで結構なことだと思う。人は人それぞれ得意なものがあるので、その道を開くためのものがあってもいいから、結構なことだとは思うのだ。しかし、それならば、本当の意味で野球を勉強させたほうがいいのではないのか?野球をする上で必要なものを教育するということがあってもいいように思う。
私の知る限り、通常の教育とは別なところ、つまり部活の延長上で野球をし、その部活の戦いとして高校野球の全国大会などがある。なんとなく中途半端に思えてしょうがない。
多くの生徒が世の中のエチケットを知らずに、野球エリート校という看板を誤解し、自分がさもエリートになったかのような行動をよくとる。そして、体育系といわれるジャンルの中で通用するだけの上限関係を持つ。しかし、そこで学んだ人間関係は、それはそれで有効なものであるものもあるににもかかわらず、外の世界には採れとは違った語りで、自分が上に立ったように振舞ったりもする。特に上級生になると、これが顕著になり、世の中とのずれから軋轢を起こし、問題となりマスコミに騒がれる要因にもなっている。
NHKラジオがばっくで流れているので、聞くとも鳴く耳に入ってきた、今日の選手宣誓。何で、毎度あんなしゃべり方をしなければいけないのか毎度の疑問である。一語一語しか声を出すことができない。それも絶叫である。もっと自然体で話してもいいように思うのだが。あれがスタイルという人がいることだろう。しかし、誰が作ったスタイルだ?誰もあれを共用しているわけではないと思う。ただただ先輩たちがしてことをまねているだけに思えてならない。もっと独自性のある先生を考えるようになれないのだろうか?
こんなことは、この年になって思ったことではない。同じ年代だった頃から思っていることだ。もっと、もっといろいろ考えうことができてもいいのではないのか?などと、開幕の日にはいつも思うことだ。
実は、私は高校野球が好きではない。本当の意味で勉強そっちのけで野球だけをしているような印象は、高校生というよりもプロ野球の予備校にいるような印象を持っているからだ。
高校野球などで有名になるとそれだけ多くの生徒を招き寄せることができるから、野球だけで入学を許可する。
それはそれで結構なことだと思う。人は人それぞれ得意なものがあるので、その道を開くためのものがあってもいいから、結構なことだとは思うのだ。しかし、それならば、本当の意味で野球を勉強させたほうがいいのではないのか?野球をする上で必要なものを教育するということがあってもいいように思う。
私の知る限り、通常の教育とは別なところ、つまり部活の延長上で野球をし、その部活の戦いとして高校野球の全国大会などがある。なんとなく中途半端に思えてしょうがない。
多くの生徒が世の中のエチケットを知らずに、野球エリート校という看板を誤解し、自分がさもエリートになったかのような行動をよくとる。そして、体育系といわれるジャンルの中で通用するだけの上限関係を持つ。しかし、そこで学んだ人間関係は、それはそれで有効なものであるものもあるににもかかわらず、外の世界には採れとは違った語りで、自分が上に立ったように振舞ったりもする。特に上級生になると、これが顕著になり、世の中とのずれから軋轢を起こし、問題となりマスコミに騒がれる要因にもなっている。
NHKラジオがばっくで流れているので、聞くとも鳴く耳に入ってきた、今日の選手宣誓。何で、毎度あんなしゃべり方をしなければいけないのか毎度の疑問である。一語一語しか声を出すことができない。それも絶叫である。もっと自然体で話してもいいように思うのだが。あれがスタイルという人がいることだろう。しかし、誰が作ったスタイルだ?誰もあれを共用しているわけではないと思う。ただただ先輩たちがしてことをまねているだけに思えてならない。もっと独自性のある先生を考えるようになれないのだろうか?
こんなことは、この年になって思ったことではない。同じ年代だった頃から思っていることだ。もっと、もっといろいろ考えうことができてもいいのではないのか?などと、開幕の日にはいつも思うことだ。