2016年10月29日
仏さんに惚れ込んで。。。22 薬師寺 薬師三尊
薬師寺、この寺の名は説明する必要はないくらいに有名な寺ですね。。私は何度訪れただろうか?記憶をたどって見ると・・・・といっても結構記憶がボケつつあるので何ともカントも回数はわからなくなっている。
最初に訪れたのは、中学の時の遠足である。名古屋から近鉄電車で八木までいたのかな?いや、ひょっとしたら関西線で奈良駅に行ったのかもしれない。そこから観光バスでいくつかの寺に行っているが、この時の覚えているのは、法隆寺、中宮寺、唐招提寺そしてこの薬師寺である。
何せ行った学校が浄土宗の宗門の学校だから遠足というとお寺巡りって感じがあった様な気もするが、まぁそれでも私は違和感を感じたことはなかった。不思議なのだが、お寺巡りは何お抵抗もない子供だったらしい。やはり、実の父親が僧侶の資格を持つくらいの血筋だから、そんなになったのかもしれないが。でも、母は、父と同じ道を歩まないかと心配はしていたらしい
同じ道は歩まなかったものの、何かにつけ仏像に興味を抱いていたらしい。とはいえ、学校の行事以外での寺巡りは大学を卒業するまですることはなかった。
余分な話になったしまったが、その中学の遠足の時に薬師寺に行った時に、金堂の仏像の解説をしてくださったのが、あの有名な、薬師寺の再興、西の五重の塔の再建をされた高田好胤師だったのだ。
当時、高田師は薬師寺で”主任”という地位におられたと記憶している。あの小さいお体で、とにかくものすごくかわいいお顔をしたお坊さんだった。あの時の高田師のお顔は今でも思い起こすことができる。
その時の高田師の説明で「菩薩はまだ修行の身で悟りを開いてはいないが、如来は悟りを開いた人なのだ」という内容のもの。この解説は、それから私の心の中で生き続けている。今となっては、知識としても当たり前の話だけど、その説明を受けた時には中宮寺で弥勒菩薩(=半跏思惟像)に出会ってショックを受けてきた後での、ショックのダブルパンチをもらった感じでそのダブルのショックが、今のこの歳になるまで生き続けているわけだ。
高田師の説明は、金堂の外。階段を上ったところで受けている。その金堂の扉の奥には、あの黒い、黒光りした薬師三尊が収まっていたのだ。この薬師三尊は、銅製である。多くの銅製の仏像は黒光りしている。その黒光りは、後背の金色によりいっそう引き立った黒になっている。
おそらく仏師の美的感覚のなせる技と思うが、この時代の一つの流行だったのだろうか?
大学の時に訪れた際には、ここで薬師三尊をスケッチし、写真を撮っている。これは今では考えられないことだと思うが、当時は今の様に参拝者も多くなはなかったので、許可さえ得られればスケッチも写真も許されたのだ。そのスケッチも写真も今は行方不明だ。写真は、ネガの多くが残っているから一枚一枚見て行けば見つかるかもなぁ。。。(勿体無い話だ)
その後数回訪れているが、西塔の再建の後、金堂の修復の後にも訪れているが、正直昔の風情がなくなってしまっている。しかし、どこかで修復をしないと、建物は朽ち果てていくから致し方ないとは思う。その反面、仏像は、修復によって新たな命、その姿を永遠に残すかの様に生まれ変わった感がある。
写真は、ネットから拝借した高田好胤師ですが、かなりお若い頃のものと思われますが、私の印象ではもう少し丸かったかなぁ。。。。です。
最初に訪れたのは、中学の時の遠足である。名古屋から近鉄電車で八木までいたのかな?いや、ひょっとしたら関西線で奈良駅に行ったのかもしれない。そこから観光バスでいくつかの寺に行っているが、この時の覚えているのは、法隆寺、中宮寺、唐招提寺そしてこの薬師寺である。
何せ行った学校が浄土宗の宗門の学校だから遠足というとお寺巡りって感じがあった様な気もするが、まぁそれでも私は違和感を感じたことはなかった。不思議なのだが、お寺巡りは何お抵抗もない子供だったらしい。やはり、実の父親が僧侶の資格を持つくらいの血筋だから、そんなになったのかもしれないが。でも、母は、父と同じ道を歩まないかと心配はしていたらしい
同じ道は歩まなかったものの、何かにつけ仏像に興味を抱いていたらしい。とはいえ、学校の行事以外での寺巡りは大学を卒業するまですることはなかった。
余分な話になったしまったが、その中学の遠足の時に薬師寺に行った時に、金堂の仏像の解説をしてくださったのが、あの有名な、薬師寺の再興、西の五重の塔の再建をされた高田好胤師だったのだ。
当時、高田師は薬師寺で”主任”という地位におられたと記憶している。あの小さいお体で、とにかくものすごくかわいいお顔をしたお坊さんだった。あの時の高田師のお顔は今でも思い起こすことができる。
その時の高田師の説明で「菩薩はまだ修行の身で悟りを開いてはいないが、如来は悟りを開いた人なのだ」という内容のもの。この解説は、それから私の心の中で生き続けている。今となっては、知識としても当たり前の話だけど、その説明を受けた時には中宮寺で弥勒菩薩(=半跏思惟像)に出会ってショックを受けてきた後での、ショックのダブルパンチをもらった感じでそのダブルのショックが、今のこの歳になるまで生き続けているわけだ。
高田師の説明は、金堂の外。階段を上ったところで受けている。その金堂の扉の奥には、あの黒い、黒光りした薬師三尊が収まっていたのだ。この薬師三尊は、銅製である。多くの銅製の仏像は黒光りしている。その黒光りは、後背の金色によりいっそう引き立った黒になっている。
おそらく仏師の美的感覚のなせる技と思うが、この時代の一つの流行だったのだろうか?
大学の時に訪れた際には、ここで薬師三尊をスケッチし、写真を撮っている。これは今では考えられないことだと思うが、当時は今の様に参拝者も多くなはなかったので、許可さえ得られればスケッチも写真も許されたのだ。そのスケッチも写真も今は行方不明だ。写真は、ネガの多くが残っているから一枚一枚見て行けば見つかるかもなぁ。。。(勿体無い話だ)
その後数回訪れているが、西塔の再建の後、金堂の修復の後にも訪れているが、正直昔の風情がなくなってしまっている。しかし、どこかで修復をしないと、建物は朽ち果てていくから致し方ないとは思う。その反面、仏像は、修復によって新たな命、その姿を永遠に残すかの様に生まれ変わった感がある。
写真は、ネットから拝借した高田好胤師ですが、かなりお若い頃のものと思われますが、私の印象ではもう少し丸かったかなぁ。。。。です。