2016年12月02日
2016年11月日帰りドライブ 10 横蔵寺5
横蔵寺の寺宝のある瑠璃殿を出て、もう一つの建物「舎利堂」に行く。拝観料は共通の300円をもう支払ってあるので・こちらで払うことはないのだが、瑠璃殿で払った時に2枚の券をもらった。舎利堂に入って見せて堂内を見ていたら、女性がすっ飛んで来て「一枚を回収する」と言って、なんか知らんがすごい剣幕で1枚をひったくって言った。それを回収しないと誰かにそれをあげると入ってこれるとでもいうのか?それなら、先に払った時に言えばいいんだよ。怒ったように取り上げることはないともう。
それから、ついでに拝観者が注意すべきことというか、嫌な思いをするかもしれないということを書いておこう。朱印をもらおうとすると、だいたいが一つ書いてもらうと300円、2つ書いても裏かどうかは拝観者の自由だと思うのだが、この横蔵寺はすでに書かれた朱印の紙を2枚セットでしか販売していないらしい。1枚でいいのになんで2枚もいるんだ?日頃あまり拝観者がないから、このサイトばかりに売ってるの?」って言われそうだぞ。
さて、この堂の中は、ガランとしてます。真ん中に小さい祠がある、その中に何か祀ってある。近くに行かないとわからないので生きました。仏像でもあると思っていたのだが、暗くてよく見えていなかったが、じっくりと目を凝らして見るとなんとそこには”ミイラ”が安置されているのだ。いわゆる「即身仏」である。初めて見ました。この世に存在するのは知ってましたが見るのは初めてだった。厳しい断食修行の果てにお亡くなりになられたんです。
パンフレットの写真載っけようと思ったけど、あんまり気持ちのいいものではないので、説明文をね。
修行は、いろいろあります。なんでも、悟りをイラクために修行されるのだとか。では、悟りはなんのために開くのか?非常に難しいはないで、お釈迦さんは悟りを開かれてそれからいろいろ説法されたんですが、お釈迦さんの場合は、悟りを開かれるために修行はされたが、死んではいないのです。死んでいないから、この世の人に自分の悟ったことを伝えることができるんですね。ところが、このミイラになってしまった人は、死んでしまったので、死=涅槃と一般に言うけど、死んでしまったら、本当の意味で悟りを開いた”涅槃”の意味にはならんのではないか?
涅槃は、今では”死ぬ”ことを意味しているようだけど、本来は”悟りを開く”こと。でも、悟りを開いても、この世に村zないしないと、どんな悟りを開いたかを伝えることができない。だから、死んでしまうような修行は、私から見たら無駄なことと言わざるを得ない。
信者の方からはお叱りを受けるかもしれないが、仏教の教えの中兄出てくる涅槃は死ぬことではないと思うよ。子供の頃からいろいろ仏教の教えを受けて来ているけど、どうもこの”涅槃”が違い見にしか教えてもらっていないように思う。
人は、死んでしまったら、それで終わりです。思いを語ることはできないのです。仏像は何も言いませんが、仏になるのはいいとしても仏像になっては行かんのです。生きて語ってこそ”現世往生”で生き仏になって、悟りを語ることだと思います。
厳しい修行された方を腐すわけではありませんが、お亡くなりになったのは、行き過ぎではなかったかと思います。手を合わせるのは、お亡くなりになって、無念の気持ちを少しでも和らげることができれば、、、と言うような意味です。
舎利堂は、このミイラさん以外みるもはどうかなぁ。。。。。。覚悟してお入りください。
さて、これでみるものは終わりました。車に戻って帰り道です。遠いなぁ。。。。
それから、ついでに拝観者が注意すべきことというか、嫌な思いをするかもしれないということを書いておこう。朱印をもらおうとすると、だいたいが一つ書いてもらうと300円、2つ書いても裏かどうかは拝観者の自由だと思うのだが、この横蔵寺はすでに書かれた朱印の紙を2枚セットでしか販売していないらしい。1枚でいいのになんで2枚もいるんだ?日頃あまり拝観者がないから、このサイトばかりに売ってるの?」って言われそうだぞ。
さて、この堂の中は、ガランとしてます。真ん中に小さい祠がある、その中に何か祀ってある。近くに行かないとわからないので生きました。仏像でもあると思っていたのだが、暗くてよく見えていなかったが、じっくりと目を凝らして見るとなんとそこには”ミイラ”が安置されているのだ。いわゆる「即身仏」である。初めて見ました。この世に存在するのは知ってましたが見るのは初めてだった。厳しい断食修行の果てにお亡くなりになられたんです。
パンフレットの写真載っけようと思ったけど、あんまり気持ちのいいものではないので、説明文をね。
修行は、いろいろあります。なんでも、悟りをイラクために修行されるのだとか。では、悟りはなんのために開くのか?非常に難しいはないで、お釈迦さんは悟りを開かれてそれからいろいろ説法されたんですが、お釈迦さんの場合は、悟りを開かれるために修行はされたが、死んではいないのです。死んでいないから、この世の人に自分の悟ったことを伝えることができるんですね。ところが、このミイラになってしまった人は、死んでしまったので、死=涅槃と一般に言うけど、死んでしまったら、本当の意味で悟りを開いた”涅槃”の意味にはならんのではないか?
涅槃は、今では”死ぬ”ことを意味しているようだけど、本来は”悟りを開く”こと。でも、悟りを開いても、この世に村zないしないと、どんな悟りを開いたかを伝えることができない。だから、死んでしまうような修行は、私から見たら無駄なことと言わざるを得ない。
信者の方からはお叱りを受けるかもしれないが、仏教の教えの中兄出てくる涅槃は死ぬことではないと思うよ。子供の頃からいろいろ仏教の教えを受けて来ているけど、どうもこの”涅槃”が違い見にしか教えてもらっていないように思う。
人は、死んでしまったら、それで終わりです。思いを語ることはできないのです。仏像は何も言いませんが、仏になるのはいいとしても仏像になっては行かんのです。生きて語ってこそ”現世往生”で生き仏になって、悟りを語ることだと思います。
厳しい修行された方を腐すわけではありませんが、お亡くなりになったのは、行き過ぎではなかったかと思います。手を合わせるのは、お亡くなりになって、無念の気持ちを少しでも和らげることができれば、、、と言うような意味です。
舎利堂は、このミイラさん以外みるもはどうかなぁ。。。。。。覚悟してお入りください。
さて、これでみるものは終わりました。車に戻って帰り道です。遠いなぁ。。。。