2018年05月10日
子供の頃の地元で慰霊祭・塩釜神社
今日は昼からお出かけ、実家に寄って荷物を車に乗っけた。これは断捨離の一環でして・・・
それから西日置の塩釜神社に移動した。この日は靖霊社で戦没者慰霊祭が行われるからだ。
この画像は靖霊社の前にある国旗掲揚柱の基礎にあったものだが、ここで「広見・六反遺族会」とある。広見は中川区、六反は中村区と行政区はわかれるが、2つの学区は隣合わせで昭和20年の名古屋大空襲で同じように焼けてしまった地域だ。
その2つの学区の戦没者の遺族が集まっての慰霊祭を毎年5月10日に行っている。私は今回で4回目の出席で、もともとは私の祖母が出ていたのか、私が参列するまではおじが参列していた。この4回は叔父とともに参列している。
私は戦没者お遺族なのだ。実の父親が23歳という若さで戦没している。本来私が参列すべきだたのだろうが、大学では桃居へ、その後は大阪に就職してしまって名古屋にいなかった。名古屋に帰っても、こうした慰霊祭があることはしsらなかった。
叔父が年齢もかなりいってしまい、私に引き継げと神社からの案内を私にもと神社に頼んだようだ。それで参列することになったのだが、叔父が元気なのでおそらく当分2人揃っての参列になるだろうと思う。
参列するようになって4回目、参列者がだんだん少なくなっている。戦没者の遺族というのは、親か配偶者か子供ということになるのだろうが、親の生存者はいない年数だろうし、配偶者ももうそれなりに歳を重ねてしまっているから、残るは子供ということになるのだが、それらしい年齢の人は、私も含めて学区から出ていってしまっているから、当然のごとく参列しなくなるのだろう。私の場合は、たまたま実の父親の弟が顕在で住んでいるから参列しているし、その流れを私が受け継ぐことになっているわけだ。
私の小学校の同級生で、同じ境遇の友人もいるが、その人もこの学区には住んでいないし、親ももう他界されているようだし、参列することはないのだろう。そういえば、知っている同年齢の人にあってないなぁ。。。まぁ同じような年齢の人はいたように思うが。。。。
そのうちに配偶者と思しき人や兄弟姉妹も他界する年令になってしまっているが、そうなると誰も参列することもできなくなる。慰霊祭は消滅するかもなぁ。。。。
私としては、もう70年という年月を過ぎているので、戦没者の遺族が慰霊祭を望んでいるかというのは疑問視している。宮司に聞いたことがある、「もうやめてもいいのでは?」と。返事は「まだ奥様がご健在の人がおいでになるので」ということだった。さて、いつまでつづくのか。続く限り、私が元気である限り、父親の鎮魂のために参列します。
まだ、こうした太平洋戦争の戦没者慰霊祭が、残っていることを、知っておいていただかいたいと思います。
話は変わりますが、
5月10日という日になぜ? と叔父と話していたのですが、ひょっとして「名古屋大空襲の日」かと思ったが、家に帰って調べてみたら違っていた。
この広見学区、六反学区が空襲に見舞われたのは、
以上はWikiに書かれているものを引用させてもらいました。ということで、5月10日ではなかった。
いずれにしても、私の記憶にも防空壕に逃げたことが残っている。戦争で土親もなくしている。もう戦争はゴメンです。子供や孫にもそんな思いをさせたくない。そういう意味でも、慰霊祭が残っていてもいいのかも。。。。。
それから西日置の塩釜神社に移動した。この日は靖霊社で戦没者慰霊祭が行われるからだ。
この画像は靖霊社の前にある国旗掲揚柱の基礎にあったものだが、ここで「広見・六反遺族会」とある。広見は中川区、六反は中村区と行政区はわかれるが、2つの学区は隣合わせで昭和20年の名古屋大空襲で同じように焼けてしまった地域だ。
その2つの学区の戦没者の遺族が集まっての慰霊祭を毎年5月10日に行っている。私は今回で4回目の出席で、もともとは私の祖母が出ていたのか、私が参列するまではおじが参列していた。この4回は叔父とともに参列している。
私は戦没者お遺族なのだ。実の父親が23歳という若さで戦没している。本来私が参列すべきだたのだろうが、大学では桃居へ、その後は大阪に就職してしまって名古屋にいなかった。名古屋に帰っても、こうした慰霊祭があることはしsらなかった。
叔父が年齢もかなりいってしまい、私に引き継げと神社からの案内を私にもと神社に頼んだようだ。それで参列することになったのだが、叔父が元気なのでおそらく当分2人揃っての参列になるだろうと思う。
参列するようになって4回目、参列者がだんだん少なくなっている。戦没者の遺族というのは、親か配偶者か子供ということになるのだろうが、親の生存者はいない年数だろうし、配偶者ももうそれなりに歳を重ねてしまっているから、残るは子供ということになるのだが、それらしい年齢の人は、私も含めて学区から出ていってしまっているから、当然のごとく参列しなくなるのだろう。私の場合は、たまたま実の父親の弟が顕在で住んでいるから参列しているし、その流れを私が受け継ぐことになっているわけだ。
私の小学校の同級生で、同じ境遇の友人もいるが、その人もこの学区には住んでいないし、親ももう他界されているようだし、参列することはないのだろう。そういえば、知っている同年齢の人にあってないなぁ。。。まぁ同じような年齢の人はいたように思うが。。。。
そのうちに配偶者と思しき人や兄弟姉妹も他界する年令になってしまっているが、そうなると誰も参列することもできなくなる。慰霊祭は消滅するかもなぁ。。。。
私としては、もう70年という年月を過ぎているので、戦没者の遺族が慰霊祭を望んでいるかというのは疑問視している。宮司に聞いたことがある、「もうやめてもいいのでは?」と。返事は「まだ奥様がご健在の人がおいでになるので」ということだった。さて、いつまでつづくのか。続く限り、私が元気である限り、父親の鎮魂のために参列します。
まだ、こうした太平洋戦争の戦没者慰霊祭が、残っていることを、知っておいていただかいたいと思います。
話は変わりますが、
5月10日という日になぜ? と叔父と話していたのですが、ひょっとして「名古屋大空襲の日」かと思ったが、家に帰って調べてみたら違っていた。
この広見学区、六反学区が空襲に見舞われたのは、
1944年(昭和19年)12月13日以降、名古屋は軍需工業地帯が集中していたため下記の大空襲を含む63回の空襲を受けて死者8630名、負傷者11164名、罹災者52万3千名の被害を出した。実際には死者は1万名以上にのぼるとみられる。
1945年3月12日 名古屋大空襲 B29・288機。死者602名。負傷者1238名。全焼2万9千戸。
3月19日 死者1037名。負傷者2813名。焼失3万6千戸。
5月14日 B29・480機。この日の空襲で名古屋城が焼失した。
6月9日 熱田空襲 B29・43機。死者2068名。負傷1944名。
6月21日 B29・120機。死者426名。負傷者327名。
以上はWikiに書かれているものを引用させてもらいました。ということで、5月10日ではなかった。
いずれにしても、私の記憶にも防空壕に逃げたことが残っている。戦争で土親もなくしている。もう戦争はゴメンです。子供や孫にもそんな思いをさせたくない。そういう意味でも、慰霊祭が残っていてもいいのかも。。。。。