2018年10月13日
悟り”って・・・ その6 親鸞 その2 女犯偈
今回も親鸞の話。
新宗教団の方には、”親鸞聖人”と言わないとお叱りを受けることがありました。”聖人”を"上人”と書いてもお叱りを受けます。その点はよく理解をしていますが、それをあえて無視して単に”親鸞”という表現をさせていただきます。
今回は”女犯偈”に絞っての話です。
ご存じない方のために伝えられている女犯偈の偈文を下に書いておきます。
これは和訳すると
行者(この場合は親鸞)が
前世の因縁で女犯(女性と交わる)事になったときは
私(ここでは観音菩薩)が
そのs女性の身代わりとなって受け入れよう
そして行者の一生を清らかなものとして
臨終に際しては浄土へ迎え入れよう
と、まぁ凡人からするとなんとも虫のいい話ということになりそうなのだ。親鸞がこの偈文を夢で見たのは、京都烏丸・六角にある頂法寺(池坊のご本家)の六角堂で、年齢は29歳のときだった。この時代の仏教界は、実際には有名無実になっていたが僧侶は女性と交わることは禁止されていた。そんなときに三十路になろうという親鸞はどうも悩みに悩んだと見受けられる。
このあたりは正式な文書が残っているわけではないので、小説や論文でかなり色んな話が書かれている。それに倣って私も私の思いをお持つことになって、それを書くことにする。
親鸞は”三夢記”というもので3つの大きな夢を診たと言われている(これは親鸞の奥さんの恵信尼さんが書き残した文に書かれているらしい)。一つは19歳のとき法隆寺にいったときについでに立ち寄った大阪府太子町の聖徳太子廟で、聖徳太子が夢に現れて”お前の命は後10年”と病気でもあるまいに余命宣告、そしてその10年後の29歳になって、また夢を見て観音菩薩(六角堂の本尊は如意輪観音だけど関連はわかんない)が現れて、”お前の願望を満足させよう”みたいな事を言ったと。それで、比叡山を下りて六角堂にこもって念仏三昧だったのかな?そして90日目に3つ目の夢で今度は救世観音が現れて、件の女犯偈の偈文を言ったと言われている。
まぁ最初の余命宣告は、”命短いからシッカリ修行せよ”ってことかもしれないけど、2つ目、そして最後の女犯偈は虫がいい夢と言われそうだ。とにかく願望=夢の達成を観音菩薩が保証してくれたということなんでしょう。そうありたいという親鸞の心の中が見えそうだ。
で、本題です。なんで親鸞は女犯偈を夢に見ることになったのか?そして、なぜこんな危険な偈文が世の残っているのかという疑問を私は持つに至った。
つらつら、いろいろ考えていたなぁ。親鸞研究、追っかけを始めてから10年位ったのかな?親鸞に習って夢を見たのです。
女犯偈の戯文が後世に残ったのは、信州教団”高田派”の開祖・真仏が書写したと一般に言われている。実際には恵信尼さんが親鸞からもらった偈文を長く持っていて、それを親鸞が浄土に旅立ったのを機に末娘の覚信尼に送ったことになっているが、それは現存しない(と言われている)。では、真仏は何を見て書写したのか?通説になっているのは、親鸞自身が書いたものを配ったらしく、それを書写したと言われている。これも、それを証明する証拠の存在はわからんのだ。
そこで私は、真仏が親鸞に会いに上洛した際に親鸞との話の中で、親鸞・恵信尼の馴れ初めの話となり、そこで女犯偈も話題に登り、「その席で真仏が書き取ったと」解釈した。
実は、この私の解釈は、現実の生活の中で生まれたものではなく、ある夜の夢の中で見たものなのだ。その夢を見たときに、何故かその場で起き出してPCに向かって、小説をかきあげてしまった。
とまぁ,今回も支離滅裂な話で、夢ばかりで申し訳なく思います。それに、まだ「親鸞が女犯偈を恵信尼書いたのか?」については書いていません。これは、次回ということにします。あしからず。
新宗教団の方には、”親鸞聖人”と言わないとお叱りを受けることがありました。”聖人”を"上人”と書いてもお叱りを受けます。その点はよく理解をしていますが、それをあえて無視して単に”親鸞”という表現をさせていただきます。
今回は”女犯偈”に絞っての話です。
ご存じない方のために伝えられている女犯偈の偈文を下に書いておきます。
行者宿報設女犯
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽
これは和訳すると
行者(この場合は親鸞)が
前世の因縁で女犯(女性と交わる)事になったときは
私(ここでは観音菩薩)が
そのs女性の身代わりとなって受け入れよう
そして行者の一生を清らかなものとして
臨終に際しては浄土へ迎え入れよう
と、まぁ凡人からするとなんとも虫のいい話ということになりそうなのだ。親鸞がこの偈文を夢で見たのは、京都烏丸・六角にある頂法寺(池坊のご本家)の六角堂で、年齢は29歳のときだった。この時代の仏教界は、実際には有名無実になっていたが僧侶は女性と交わることは禁止されていた。そんなときに三十路になろうという親鸞はどうも悩みに悩んだと見受けられる。
このあたりは正式な文書が残っているわけではないので、小説や論文でかなり色んな話が書かれている。それに倣って私も私の思いをお持つことになって、それを書くことにする。
親鸞は”三夢記”というもので3つの大きな夢を診たと言われている(これは親鸞の奥さんの恵信尼さんが書き残した文に書かれているらしい)。一つは19歳のとき法隆寺にいったときについでに立ち寄った大阪府太子町の聖徳太子廟で、聖徳太子が夢に現れて”お前の命は後10年”と病気でもあるまいに余命宣告、そしてその10年後の29歳になって、また夢を見て観音菩薩(六角堂の本尊は如意輪観音だけど関連はわかんない)が現れて、”お前の願望を満足させよう”みたいな事を言ったと。それで、比叡山を下りて六角堂にこもって念仏三昧だったのかな?そして90日目に3つ目の夢で今度は救世観音が現れて、件の女犯偈の偈文を言ったと言われている。
まぁ最初の余命宣告は、”命短いからシッカリ修行せよ”ってことかもしれないけど、2つ目、そして最後の女犯偈は虫がいい夢と言われそうだ。とにかく願望=夢の達成を観音菩薩が保証してくれたということなんでしょう。そうありたいという親鸞の心の中が見えそうだ。
で、本題です。なんで親鸞は女犯偈を夢に見ることになったのか?そして、なぜこんな危険な偈文が世の残っているのかという疑問を私は持つに至った。
つらつら、いろいろ考えていたなぁ。親鸞研究、追っかけを始めてから10年位ったのかな?親鸞に習って夢を見たのです。
女犯偈の戯文が後世に残ったのは、信州教団”高田派”の開祖・真仏が書写したと一般に言われている。実際には恵信尼さんが親鸞からもらった偈文を長く持っていて、それを親鸞が浄土に旅立ったのを機に末娘の覚信尼に送ったことになっているが、それは現存しない(と言われている)。では、真仏は何を見て書写したのか?通説になっているのは、親鸞自身が書いたものを配ったらしく、それを書写したと言われている。これも、それを証明する証拠の存在はわからんのだ。
そこで私は、真仏が親鸞に会いに上洛した際に親鸞との話の中で、親鸞・恵信尼の馴れ初めの話となり、そこで女犯偈も話題に登り、「その席で真仏が書き取ったと」解釈した。
実は、この私の解釈は、現実の生活の中で生まれたものではなく、ある夜の夢の中で見たものなのだ。その夢を見たときに、何故かその場で起き出してPCに向かって、小説をかきあげてしまった。
とまぁ,今回も支離滅裂な話で、夢ばかりで申し訳なく思います。それに、まだ「親鸞が女犯偈を恵信尼書いたのか?」については書いていません。これは、次回ということにします。あしからず。