2018年10月19日
悟り”って・・・ その7 親鸞 その2 女犯偈・続き
悟りって何?と考え始めて、ブログに書いていらたら話がずれていって、親鸞の話になってしまった。と言っても、全く関係がないわけではなく、前回書いた”女犯偈”は、ある種の親鸞の悟りと思っている。というのは、この”女犯偈”の考え方というか、そのそこにある考え方が親鸞の生涯に通じた考えの根本ではないかって思っているんです。
親鸞は、一般的に言われていることは”僧侶として日本で最初に妻帯した人”なのだが、まぁこれは完全に建前の話で、妻という座ではなくても、今の時代で言う”内縁”の妻状態の女性を持つ僧侶は当たり前の時代だったと聞きます。いまぁ、今でも宗派によっては妻帯するとその宗派の幹部にはなれないとその宗派の幹部になられた方から伺ってます。
要は、この時代妻帯すると僧侶ではなくなるということで、僧侶のままで妻帯なんて言うのはもってのほか、これを法然と九条兼実が図って親鸞に”妻帯しろ”って言うもんだから、泣く泣くかどうかはわからんけど妻帯したことに表向きなっている(らしい)。
しかし、私は法然と兼実の謀もあるけど、それとは別に親鸞自身が惚れ込んだ女性がいたと思っているし、それが妻となった”恵信尼”だと思っている。
しかし、法然と兼実が推した女性は恵信尼ではなく、親鸞聖人正明伝によれば兼実の娘”玉日”ということになっていて、親鸞はその玉日と結婚したことになっている。
が、私はこの時親鸞は恩師の法然と当時の関白兼実(比叡山の天台座主・慈円の兄)の指示に従って妻帯したものの、それとは別なところで後に結ばれることになる恵信尼と交際があったと思っている。
親鸞は、妻帯したことも遠因になって、承元の法難の際に現在の上越市の居多ヶ浜に流されている(流刑)。ここで玉日とは縁が切れたのかも。京都の伏見区の藤森の西岸寺の玉日の墓には、親鸞が後に上越から持ってきたという石があるから流されていた(流刑地にいる)ころに死別したと思われる。その後恵信尼と結ばれたと私は思っている。
要は、実際に玉日を妻としたものの、恵信尼とは続いていたかと思ったりもする。
まぁ、お叱りを受けるとは思いますが、親鸞と恵信尼が結ばれる際に、親鸞が恵信尼にプロポーズして、迷う恵信尼に決断をさせるために”女犯偈”を思いついてそれを文にして渡したと思っている。詰まりは”女犯偈”は恵信尼に向けてのラブレターの一部だったと私は思っているんです。
では,それがなぜ親鸞の”悟り”なのか?ということになるんですが、正式な古文書に見受けられるものではない話なので、そのあたりはご承知ください。
一般的に男として、異性と結ばれたいというのは自然のなす事と思う。しかし、平安期の僧侶は基本的に妻帯のみならず女性との交わりはご法度なのだ。この制度みたいなものに疑問を持つのも不思議でない。そこから考えていくと、女犯を禁じたのは一体その経典で、誰が言い出したことなのかというところまで行くのも当然かと思う。大本の釈迦、ゴータマ・シッダルタが悟りを開いたその中に”女犯禁止”があるのか?となると、これはすべての経典を読まねばならなくなるが、それは無理な話。親鸞は一切経を読破したといわていはいるが。。。。
で、経典に書かれているかどうかは私にはわからないが、過去に妻帯していたお釈迦さんが家族をおいて出家(これ家出だよな?)して、あちこち歩いて祇園精舎で悟りを開いたと大雑把な話ではこうなっている。だから悟りを開いたときには独身だったということで、”悟りを開くためには独身であれ”ということになったのかもしれない。
とはいうものの、僧侶だって人間です。自然の欲求を完璧に抑えるなんてことはまず無理でしょう。その人間の本来の姿として「男女の交わりを制限するのはいかがなものか」と私が親鸞の立場なら思う。思ったらそれを実現するだけの信念を親鸞は持っていたんでしょうね。
親鸞は、流刑になってより僧籍(公の僧侶の資格)を剥奪されているから、本当の僧侶ではないということになってしまっている。
親鸞の逸話には、女性に絡むものが結構あるが、そうした話が残っているということは、親鸞が根底から宗教上の男女の平等を訴えていたのではないかって思ってます。だからこそ妻帯=結婚を表に出したのだと思うんですね。
ということで、大雑把な話で恐縮ですが、”宗教上の男女平等”のみならず、人間生活の中での男女平等を考えの根本にしてと思っているんです。なので、この”男女平等”ということが親鸞の悟りで、それを根本の考えとして、彼の思う仏教を広めていったとお思ってます。
親鸞は、一般的に言われていることは”僧侶として日本で最初に妻帯した人”なのだが、まぁこれは完全に建前の話で、妻という座ではなくても、今の時代で言う”内縁”の妻状態の女性を持つ僧侶は当たり前の時代だったと聞きます。いまぁ、今でも宗派によっては妻帯するとその宗派の幹部にはなれないとその宗派の幹部になられた方から伺ってます。
要は、この時代妻帯すると僧侶ではなくなるということで、僧侶のままで妻帯なんて言うのはもってのほか、これを法然と九条兼実が図って親鸞に”妻帯しろ”って言うもんだから、泣く泣くかどうかはわからんけど妻帯したことに表向きなっている(らしい)。
しかし、私は法然と兼実の謀もあるけど、それとは別に親鸞自身が惚れ込んだ女性がいたと思っているし、それが妻となった”恵信尼”だと思っている。
しかし、法然と兼実が推した女性は恵信尼ではなく、親鸞聖人正明伝によれば兼実の娘”玉日”ということになっていて、親鸞はその玉日と結婚したことになっている。
が、私はこの時親鸞は恩師の法然と当時の関白兼実(比叡山の天台座主・慈円の兄)の指示に従って妻帯したものの、それとは別なところで後に結ばれることになる恵信尼と交際があったと思っている。
親鸞は、妻帯したことも遠因になって、承元の法難の際に現在の上越市の居多ヶ浜に流されている(流刑)。ここで玉日とは縁が切れたのかも。京都の伏見区の藤森の西岸寺の玉日の墓には、親鸞が後に上越から持ってきたという石があるから流されていた(流刑地にいる)ころに死別したと思われる。その後恵信尼と結ばれたと私は思っている。
要は、実際に玉日を妻としたものの、恵信尼とは続いていたかと思ったりもする。
まぁ、お叱りを受けるとは思いますが、親鸞と恵信尼が結ばれる際に、親鸞が恵信尼にプロポーズして、迷う恵信尼に決断をさせるために”女犯偈”を思いついてそれを文にして渡したと思っている。詰まりは”女犯偈”は恵信尼に向けてのラブレターの一部だったと私は思っているんです。
では,それがなぜ親鸞の”悟り”なのか?ということになるんですが、正式な古文書に見受けられるものではない話なので、そのあたりはご承知ください。
一般的に男として、異性と結ばれたいというのは自然のなす事と思う。しかし、平安期の僧侶は基本的に妻帯のみならず女性との交わりはご法度なのだ。この制度みたいなものに疑問を持つのも不思議でない。そこから考えていくと、女犯を禁じたのは一体その経典で、誰が言い出したことなのかというところまで行くのも当然かと思う。大本の釈迦、ゴータマ・シッダルタが悟りを開いたその中に”女犯禁止”があるのか?となると、これはすべての経典を読まねばならなくなるが、それは無理な話。親鸞は一切経を読破したといわていはいるが。。。。
で、経典に書かれているかどうかは私にはわからないが、過去に妻帯していたお釈迦さんが家族をおいて出家(これ家出だよな?)して、あちこち歩いて祇園精舎で悟りを開いたと大雑把な話ではこうなっている。だから悟りを開いたときには独身だったということで、”悟りを開くためには独身であれ”ということになったのかもしれない。
とはいうものの、僧侶だって人間です。自然の欲求を完璧に抑えるなんてことはまず無理でしょう。その人間の本来の姿として「男女の交わりを制限するのはいかがなものか」と私が親鸞の立場なら思う。思ったらそれを実現するだけの信念を親鸞は持っていたんでしょうね。
親鸞は、流刑になってより僧籍(公の僧侶の資格)を剥奪されているから、本当の僧侶ではないということになってしまっている。
親鸞の逸話には、女性に絡むものが結構あるが、そうした話が残っているということは、親鸞が根底から宗教上の男女の平等を訴えていたのではないかって思ってます。だからこそ妻帯=結婚を表に出したのだと思うんですね。
ということで、大雑把な話で恐縮ですが、”宗教上の男女平等”のみならず、人間生活の中での男女平等を考えの根本にしてと思っているんです。なので、この”男女平等”ということが親鸞の悟りで、それを根本の考えとして、彼の思う仏教を広めていったとお思ってます。