2021年08月13日
今年も8月15日がやってくる
先日 ”気分はいつもLet It Be” の”おたま”さんのブログ「終戦(敗戦)の日を前に」を読んで、コメントを書いた。それがトリガーになって、私の戦争の記憶を書くことになった
大した記憶でないですが、読んでやってください
8月15日という日は、誰がなんと言おうと毎年必ずやってくる。「8月15日だから何か?」と言われたら、どう答えていいものか。。。
「8月15日」というのは、日本が戦争に負けたことになった日なのだ。一般的に”終戦”という言葉で飾られるのだが、昭和天皇が玉音放送と言われるラジオを通じて国民に「戦争が終わった」と宣言した日なのだ。
戦争が終わった。戦争というのは、勝つか負けるか、どちらかなのが一般的な話だから、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と天皇が言うからには負けたということなのだ。勝っていたらそんなことは言わない。
日本人というのは、言葉でもって色々体裁を作ろうことが多い。戦争中に、「撤退」という引き下がる言葉を、負けたのを認めたくないために「転進」などと、進む方向を変えるかのようにごまかす。それと同じで、「負けた」=「敗戦」という言葉を使いたくないから「終戦」と言う言葉でごまかしている。
負けたのだ。物量的に勝てるはずのない相手に、喧嘩をふっかけておいて、しっかりと打ちのめされたのだ。その打ちのめされた日が、昭和20年(1945年)8月15日なのだ。
広島の原爆投下から9日、長崎の原爆投下から6日後、徹底的に叩きのめされてやっと「負けた」と認めた日なのだ。
戦争に負けて、初めて戦うことがなくなって、一般国民は、空襲という恐怖から、解き放たれた日でもあるのだ。色んな思いで人々は天皇の声を聞いたようだ。
その8月15日は、今から76年前。私が2歳と1ヶ月と1日の日でもある。その日の記憶はまったくない。どこで何をしていたのか、親から聞いておくべきだったか、聞いていてもわすてしまったのか、何の記憶もない。
しかし、その年の3月19日に名古屋駅が焼かれ、5月14日に 名古屋城が焼かれている、いわゆる「名古屋大空襲」、爆撃機の飛行コースから言うと名古屋駅が焼け落ちた3月19日だったのかもしれないが、そのあたりの記憶は定かではないが、とにかく、空襲警報がなって、防空頭巾をかぶって、防空壕に入った記憶がかすかに残っている。防空壕がどこにあったのかもキモくもある。これは後々潰しているからなのだろうが。
警報がなって、防空壕に行く際に、母親にだと思うが、頭巾のある場所を聞いているし、かぶって防空壕に入る前に遠くを走る車(消防車みたい、その時消防車があったのか?)を見たという漠然とした記憶がある。
甦る記憶では、防空壕は家の前の空き地に穴を掘り、階段を降りて、暗い穴蔵に入ったと記憶している。
防空壕の記憶は、とにかく暗かった。怖かったのだと思う。おそらく爆撃されている時の周りの人の恐怖なども相まって、私は恐怖の真っ只中にいたのだろう。
その恐怖感が、トラウマになったのだと思うのだが、私は「暗所恐怖症」なのである。暗所だけではなく、湿って薄暗いところも大の苦手なのだ。トンネルなどもその部類、鎌倉のどこかの寺に湿り気のある小さいトンネルがあったが、そこに入るのにかなり抵抗感があったのは大学の頃だ。(自慢しているわけではないので)
「76年も経って、そんな記憶が?」と言われそうな気がするが、事実なのだ。とにかくあまりのも断片的で、はっきりはしていないけれど、「防空頭巾」「防空壕」の記憶ははっきりとしている。
私には、消すことのできない、消えることのない戦争に関する事実を持ち続けているから、戦争のほんの瞬間的な、記憶かもしれないが残ったのだろうと思う。
その消えることのない事実。それは、実の父親をこの戦争でなくしているのだ。終戦の日にはもう亡くなっていたのだが、戦死公報が届いたのがどうもそれを過ぎていたと聞いている。
そうだ、今思い出したが、昭和21年の冬に父親の祖母がなくなった。その葬儀の記憶もあるが、その父の祖母は父の戦死を知らずに逝ったと聞いているから、戦死公報はかなり遅かったのだろう。
父親の命日は、昭和19年11月6日である。終戦の前の年だ。しかも南方の島”ブーゲンビル”、駆り出されて、いやいやだったと思うが、生まれたばかりの私を1度抱いただけで出征してしまい、そのまま帰ってくることはなかった。だから私は父親の記憶はなまったくない。
その代わりに、戦争の一部を記憶しているのだろう。
母親から戦争での恐怖を聞いたことがある。私の実家のところで、アメリカの戦闘機からの機銃掃射を浴びて「死ぬ」と思ったらしい。当たらなく生き延びた。私を護ろうとする力がそうさせたのかもしれない。
母親が言っていた、父が出征のときに、「私を頼む。大学には必ず行かせてくれ」と。母はそれはそれは苦労したが、父の願いを守り通し、私を大学に無理をして通わせた。
その私も、今や78歳を過ぎた。一般的には、この歳で「戦争の記憶は?」と問われても、答えられる人がどれだけ残っているか。おそらく、とんでもない経験をして、記憶を拭い去れない人だけが記憶を残しているとしか思えないのだ。
私の記憶も、はっきりしていないから、「戦争の記憶」などと言えるものではないかもしれないが。防空壕の記憶は別にしても、父親をなくしたことは事実であり、それだけの事実からだけでも、私は「戦争には絶対反対」を訴えなければならないのだ。
私の歩いた戦後の道。 それを語るのは、また別の機会に、書く気になったときに書こうと思ってます。ただ、お約束はできませんが。。。
大した記憶でないですが、読んでやってください
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戦争の記憶
今年も8月15日がやってくる
今年も8月15日がやってくる
8月15日という日は、誰がなんと言おうと毎年必ずやってくる。「8月15日だから何か?」と言われたら、どう答えていいものか。。。
「8月15日」というのは、日本が戦争に負けたことになった日なのだ。一般的に”終戦”という言葉で飾られるのだが、昭和天皇が玉音放送と言われるラジオを通じて国民に「戦争が終わった」と宣言した日なのだ。
戦争が終わった。戦争というのは、勝つか負けるか、どちらかなのが一般的な話だから、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と天皇が言うからには負けたということなのだ。勝っていたらそんなことは言わない。
日本人というのは、言葉でもって色々体裁を作ろうことが多い。戦争中に、「撤退」という引き下がる言葉を、負けたのを認めたくないために「転進」などと、進む方向を変えるかのようにごまかす。それと同じで、「負けた」=「敗戦」という言葉を使いたくないから「終戦」と言う言葉でごまかしている。
負けたのだ。物量的に勝てるはずのない相手に、喧嘩をふっかけておいて、しっかりと打ちのめされたのだ。その打ちのめされた日が、昭和20年(1945年)8月15日なのだ。
広島の原爆投下から9日、長崎の原爆投下から6日後、徹底的に叩きのめされてやっと「負けた」と認めた日なのだ。
戦争に負けて、初めて戦うことがなくなって、一般国民は、空襲という恐怖から、解き放たれた日でもあるのだ。色んな思いで人々は天皇の声を聞いたようだ。
その8月15日は、今から76年前。私が2歳と1ヶ月と1日の日でもある。その日の記憶はまったくない。どこで何をしていたのか、親から聞いておくべきだったか、聞いていてもわすてしまったのか、何の記憶もない。
しかし、その年の3月19日に名古屋駅が焼かれ、5月14日に 名古屋城が焼かれている、いわゆる「名古屋大空襲」、爆撃機の飛行コースから言うと名古屋駅が焼け落ちた3月19日だったのかもしれないが、そのあたりの記憶は定かではないが、とにかく、空襲警報がなって、防空頭巾をかぶって、防空壕に入った記憶がかすかに残っている。防空壕がどこにあったのかもキモくもある。これは後々潰しているからなのだろうが。
警報がなって、防空壕に行く際に、母親にだと思うが、頭巾のある場所を聞いているし、かぶって防空壕に入る前に遠くを走る車(消防車みたい、その時消防車があったのか?)を見たという漠然とした記憶がある。
甦る記憶では、防空壕は家の前の空き地に穴を掘り、階段を降りて、暗い穴蔵に入ったと記憶している。
防空壕の記憶は、とにかく暗かった。怖かったのだと思う。おそらく爆撃されている時の周りの人の恐怖なども相まって、私は恐怖の真っ只中にいたのだろう。
その恐怖感が、トラウマになったのだと思うのだが、私は「暗所恐怖症」なのである。暗所だけではなく、湿って薄暗いところも大の苦手なのだ。トンネルなどもその部類、鎌倉のどこかの寺に湿り気のある小さいトンネルがあったが、そこに入るのにかなり抵抗感があったのは大学の頃だ。(自慢しているわけではないので)
「76年も経って、そんな記憶が?」と言われそうな気がするが、事実なのだ。とにかくあまりのも断片的で、はっきりはしていないけれど、「防空頭巾」「防空壕」の記憶ははっきりとしている。
私には、消すことのできない、消えることのない戦争に関する事実を持ち続けているから、戦争のほんの瞬間的な、記憶かもしれないが残ったのだろうと思う。
その消えることのない事実。それは、実の父親をこの戦争でなくしているのだ。終戦の日にはもう亡くなっていたのだが、戦死公報が届いたのがどうもそれを過ぎていたと聞いている。
そうだ、今思い出したが、昭和21年の冬に父親の祖母がなくなった。その葬儀の記憶もあるが、その父の祖母は父の戦死を知らずに逝ったと聞いているから、戦死公報はかなり遅かったのだろう。
父親の命日は、昭和19年11月6日である。終戦の前の年だ。しかも南方の島”ブーゲンビル”、駆り出されて、いやいやだったと思うが、生まれたばかりの私を1度抱いただけで出征してしまい、そのまま帰ってくることはなかった。だから私は父親の記憶はなまったくない。
その代わりに、戦争の一部を記憶しているのだろう。
母親から戦争での恐怖を聞いたことがある。私の実家のところで、アメリカの戦闘機からの機銃掃射を浴びて「死ぬ」と思ったらしい。当たらなく生き延びた。私を護ろうとする力がそうさせたのかもしれない。
母親が言っていた、父が出征のときに、「私を頼む。大学には必ず行かせてくれ」と。母はそれはそれは苦労したが、父の願いを守り通し、私を大学に無理をして通わせた。
その私も、今や78歳を過ぎた。一般的には、この歳で「戦争の記憶は?」と問われても、答えられる人がどれだけ残っているか。おそらく、とんでもない経験をして、記憶を拭い去れない人だけが記憶を残しているとしか思えないのだ。
私の記憶も、はっきりしていないから、「戦争の記憶」などと言えるものではないかもしれないが。防空壕の記憶は別にしても、父親をなくしたことは事実であり、それだけの事実からだけでも、私は「戦争には絶対反対」を訴えなければならないのだ。
私の歩いた戦後の道。 それを語るのは、また別の機会に、書く気になったときに書こうと思ってます。ただ、お約束はできませんが。。。
防空頭巾のイラストは、無料のサイトから拝借し
「戦争反対」のテキストを加えています
「戦争反対」のテキストを加えています