2023年08月31日
今日も小さい薬師さんに挑戦 でも・・・
今日は朝から
明日の木彫りの会の準備を
久々に
円空仏を彫る気になったので
数年庭で雨ざらしになっていた材料
それを使うことにしたので
彫ることができるように整えていた
そこで端材が出たので
その端材を使って
またまた小さい薬師さんを彫ることにした
右の画像の右側が
今日彫った薬師さん
(左が先日彫った)
先日のよりも小さいものをともって
掘り始めたのだけど
ん??失敗
同じくらいの大きさで
しかもできは。。。
右の画像は
彫る前の状態
材料と使ったのみです
最終的には
ノミではなく彫刻刀などを使ってますが、、
彫りながら色々考えていた
いっとき連載した
「何故仏像を彫る」
あくまで私のこと
仏像を彫ることは
木彫りを始めた時さほど考えていなかった
ただただ
時間潰しに何かを彫ろうと
まさか全身の仏像を彫ることなんて
全く考えてなかった
彫り始めてから
室生寺に行き あの十一面観音と再開して
なんとかあの美形の顔を彫ろうと
思い立ったのが運のつき
最初は顔だけだった
でも全く似ていない顔になった
この頃に末期がん宣告を受けた
同じ頃に
円空仏なら彫ることできるかと
安易に考えてちょこちょこ
そして
荒子観音に行って
長谷川信行先生に出会ったり
直後に
圧迫骨折
荒子に通うのを断念
代わりに天白の円空仏を彫る会に参加
最初はただただ
模刻で円空さんの真似を掘ることしか
考えてなかった
でもでも 始めたら本気になってしまって
そしていずれオリジナルをとまで
でも
そんな時でも
彫ることはあくまでも彫ることだけ
意味合いなんて考えていない
写真を見て
この形彫りたい
と思うくらいだった
が
義弟が白血病になって
瀕死の情報が入って
初めて気持ちを込めて彫った
しかし彫り終わったときには
義弟は浄土に召されていた
彫ったのものは
三途の川の案内に付き添っていった
そんなことがあって
仏像を彫る そのきっかけを
考えるようになった
あちこちでかけて見る仏像
それば何のためにだけの祈願で彫られたのか
そんなこと思うようになった
私は長年
浄土教の流れの教育を受けてきた
そのせいか阿弥陀如来が大好きで
阿弥陀さんを彫ることを目指していたが
日本では
阿弥陀如来は「お迎え」
つまり臨終に紫雲たなびかせて迎えに来る
そんなイメージが強い
私自身が末期癌を抱えた
お迎えは心の中で禁句
その頃から阿弥陀仏は彫らずに
薬師如来を彫ることが多くなった
少しでも
病気平癒を願ってという
特にコロナが蔓延して
なん体の薬師如来彫ったか
何とか治って欲しいと
とはいえ
仏さんに願ってということではない
あくまでも
私自身の気持ちを
形で表すのに
薬師如来が一番近かったということ
観音さんを彫ることもある
観音さんは
阿弥陀如来の化身で
衆生の願いを聞き届けてくれるという
そういったことは知ってはいるけど
信じているということではなく
あくまでも
今の私が掘るのは
その時の気持ちを表すことだけ
難しい表現だなぁと思う
信仰がない人間が
信仰の対象となり打つものを彫る
信者の如く思われる
お経と言われるものも読んだ
あの漢字の羅列したものではなく
現代日本語に翻訳したもの
そして
お経は物語だと知った
お釈迦さんの生き様
それを読んで
人生の参考にする
それでいいのだと思っている
書かれていることに
共感できる己があり
それが生活に役立つのなら
それだけでいいのではないか?
これは
新約、旧約の聖書も同じ
物語なのだ
旧約聖書に書かれていたことは
結構役になっていたと思っている
今これを書いていて思ったこと
信仰というのは
信じるということなのかもと
取り止めのない話だなぁ
毎度この手の話を書くと
取り止めのないものになる
私自身の中で消化できていなんだろう
消化できたら
それが悟りなのかも
悟りを開けば
如来さんになれるぞ