2012年02月24日
柳原橋から尾頭橋そして金山
今日は、熱かったなぁ。。。。昼飯に昨日作ったカレーライスをしこたま実家で食べたんで、腹ごなししないととんでもないことになりそうなので、暖かいことをいいことに実家から金山までを歩くことにした。
生まれた広見学区、それも母校の広見小学校の横を通って柳原橋に。ここから南を見渡したら、おぉ。。なんやら道が広くなっている。かなり長い間この道をまっすぐ歩いていない。その間に変わったのだろうよ。興味をもったので五女子までまっすぐ歩いてみた。
これは、五女子側から柳原橋を向いて(北向き)に撮ったもの。この通りは昔はこの何分の一の狭さだったろうか。そういえば、ここの辺りで自転車事故を起こしたことがあったなぁ。肉離れを起こして夜中大変だったんだ。小学校の3年生くらいだったかな?
そんなこと思い出しながら南に歩いて行ったら、ん???この道に突然道幅が狭くなる表示が。写真の左にある黄色い看板がそれです。なんで?なんで狭くなるの?
先に進んだら五女子の信号交差点の手前で道路の一部がまだ解放されていない。なんと工事もしていないのだ。その部分はこの前にある医院の駐車場になったまま。この医院何考えてんだ?そりゃぁ駐車場がなくなったら困るかもしれないが、自分とこだけそのまま残していたら多くの住民が困るだろ?医師としてあんまり受けはよくなくなると思うよ。車くらいなんとでもなるだろうに。
信号交差点を左折して尾頭橋、金山に向かう。
この通りは、昔は市電が通っていた。尾頭橋から下之一色まで行っていた。長良橋から先は、田園の中をとことこ走ったものだ。もう何十年の前の話ね。
新幹線のガードの手前でへぇ?と思うものを見つけた。『津島街道一里塚』と書かれた石碑だ。ん?この通りは、昔の保健所のところ(長良橋の東)には「佐屋街道』という石碑があったように思うけど。津島も佐屋も同じ方向だけど、街道の名前が異なるとは。。。。。どこかで別れるんだろうけどねぇ。
上が新幹線、向こうは東臨港線かな?このガードのおかげで道路が狭くなってんだよね。さっきの通せんぼとは意味が違うけど、何とか広がらないんだなろうか?
ガードを通り越して少し行くと信号のところに交番がある。この交番から北(写真左側)が昔の八幡遊郭=八幡園。今はひっそりとしているけど、大昔は夜ともなると大変だったんだよねぇ。一度だけホタル狩りというイベントの時にこの近くの出身の親父に連れられて行ったことがあるけど、その時はまだ赤線がある時代で、客引きがうるさかったなぁ。。。
交番の先をそのまま東にしばらく行くと尾頭橋の交差点になる。ここが昔の市電の始発および終点。下之一色に行くには、この尾頭橋で市電を乗り換えねばならなかった。電車の構造が違ったりしていたんだ。パンタブラフがね、市内の多くの市電と下之一色線の電車は違ってたんだよね。まぁ後には下之一色線のパンタ方式に統一されたけど。
交差点のある江川線の上は都市高速が走ってしまって何やら重苦しい街になったなぁと思ったものです。
交差点を渡ってさらに東進。だんだん登りになる。江川線は元は川だったらしくて低いところだけど、堀川までも上るけど、それよりも東はさらに上り、名古屋の中心部の一番高い台地の部分だ。江川線は津波が来たら水につかると思うけど、そんな津波が来たら東に逃げることだなって、実家に来る時は思っているけど、いざとなるとどうなることやら。
堀川は何やら工事をしている。堀川の半分に道のようなものを作って、なにしてんだろ?中川運河でも小栗橋と猿子橋の間に道ができている。これは下水処理場の作業用車両を通すためのものだけど、この堀川は何のためいしているんだろ?
堀川を超えて上りがきつくなる。それを登りきったかなと思ったところに何やら不思議なものが、門扉があるからふつうの家に見えるけど、どうも奥の方には小さいけれど祠がある。中に入れそうだけど遠慮した。それにしても何?(興味があるなら見て来いってかなぁ?)
もうこの先は19号線だ。信号待ちして、青で渡る。もう金山ね。実家を出たのが2時ジャスト、金山駅に着いたのが2時40分。ざっと歩いてきたけど、今日はほとんど直線コースだったなぁ。
柳原橋からまっすぐ南に『津島街道』まで来て、それを左折して金山駅までまっすぐ。近道もあるけど、たまにはこうして昔馴染みの道を歩くのいいもの。いくつかの思い出を引きずりなら。
生まれた広見学区、それも母校の広見小学校の横を通って柳原橋に。ここから南を見渡したら、おぉ。。なんやら道が広くなっている。かなり長い間この道をまっすぐ歩いていない。その間に変わったのだろうよ。興味をもったので五女子までまっすぐ歩いてみた。
これは、五女子側から柳原橋を向いて(北向き)に撮ったもの。この通りは昔はこの何分の一の狭さだったろうか。そういえば、ここの辺りで自転車事故を起こしたことがあったなぁ。肉離れを起こして夜中大変だったんだ。小学校の3年生くらいだったかな?
そんなこと思い出しながら南に歩いて行ったら、ん???この道に突然道幅が狭くなる表示が。写真の左にある黄色い看板がそれです。なんで?なんで狭くなるの?
先に進んだら五女子の信号交差点の手前で道路の一部がまだ解放されていない。なんと工事もしていないのだ。その部分はこの前にある医院の駐車場になったまま。この医院何考えてんだ?そりゃぁ駐車場がなくなったら困るかもしれないが、自分とこだけそのまま残していたら多くの住民が困るだろ?医師としてあんまり受けはよくなくなると思うよ。車くらいなんとでもなるだろうに。
信号交差点を左折して尾頭橋、金山に向かう。
この通りは、昔は市電が通っていた。尾頭橋から下之一色まで行っていた。長良橋から先は、田園の中をとことこ走ったものだ。もう何十年の前の話ね。
新幹線のガードの手前でへぇ?と思うものを見つけた。『津島街道一里塚』と書かれた石碑だ。ん?この通りは、昔の保健所のところ(長良橋の東)には「佐屋街道』という石碑があったように思うけど。津島も佐屋も同じ方向だけど、街道の名前が異なるとは。。。。。どこかで別れるんだろうけどねぇ。
上が新幹線、向こうは東臨港線かな?このガードのおかげで道路が狭くなってんだよね。さっきの通せんぼとは意味が違うけど、何とか広がらないんだなろうか?
ガードを通り越して少し行くと信号のところに交番がある。この交番から北(写真左側)が昔の八幡遊郭=八幡園。今はひっそりとしているけど、大昔は夜ともなると大変だったんだよねぇ。一度だけホタル狩りというイベントの時にこの近くの出身の親父に連れられて行ったことがあるけど、その時はまだ赤線がある時代で、客引きがうるさかったなぁ。。。
交番の先をそのまま東にしばらく行くと尾頭橋の交差点になる。ここが昔の市電の始発および終点。下之一色に行くには、この尾頭橋で市電を乗り換えねばならなかった。電車の構造が違ったりしていたんだ。パンタブラフがね、市内の多くの市電と下之一色線の電車は違ってたんだよね。まぁ後には下之一色線のパンタ方式に統一されたけど。
交差点のある江川線の上は都市高速が走ってしまって何やら重苦しい街になったなぁと思ったものです。
交差点を渡ってさらに東進。だんだん登りになる。江川線は元は川だったらしくて低いところだけど、堀川までも上るけど、それよりも東はさらに上り、名古屋の中心部の一番高い台地の部分だ。江川線は津波が来たら水につかると思うけど、そんな津波が来たら東に逃げることだなって、実家に来る時は思っているけど、いざとなるとどうなることやら。
堀川は何やら工事をしている。堀川の半分に道のようなものを作って、なにしてんだろ?中川運河でも小栗橋と猿子橋の間に道ができている。これは下水処理場の作業用車両を通すためのものだけど、この堀川は何のためいしているんだろ?
堀川を超えて上りがきつくなる。それを登りきったかなと思ったところに何やら不思議なものが、門扉があるからふつうの家に見えるけど、どうも奥の方には小さいけれど祠がある。中に入れそうだけど遠慮した。それにしても何?(興味があるなら見て来いってかなぁ?)
もうこの先は19号線だ。信号待ちして、青で渡る。もう金山ね。実家を出たのが2時ジャスト、金山駅に着いたのが2時40分。ざっと歩いてきたけど、今日はほとんど直線コースだったなぁ。
柳原橋からまっすぐ南に『津島街道』まで来て、それを左折して金山駅までまっすぐ。近道もあるけど、たまにはこうして昔馴染みの道を歩くのいいもの。いくつかの思い出を引きずりなら。