2008年10月18日

小説『親鸞と真佛』(21)

 
 親鸞の結婚 5

 私が親鸞の立場の思いをしているときにも、親鸞の話は続いている。

「真佛よ。そんなときに、三善様が恵信と私をあわせる計らいをされ。おそらくは、私の気持ちを慰めようとされたのであろう。これも弥陀のはからい。弥陀の計らいは奥が深いものじゃの」
「上人。左様でございますね。本当に奥が深いものが」
「真佛よ。それからしばらくして、三善様から恵信と夫婦になるようお勧めがあり、二人は晴れて添い遂げることができたのじゃ」
「上人。お二人の絆の強さがそうさせたものでございましょう。恵信尼様も喜ばれたことでございましょう」
「真佛よ。恵信も、そう申しておった。都で渡したあの『女犯偈』の文も持っておったぞ。あの文は何があっても誰にも渡すことはできぬと申してな。その先の私と恵信のことは、存じておろう」
「上人。すべてではございませんが。存じております。上人の流罪放免は、それからまだ数年先のことでございますね」
「真佛よ。さよう。玉日の浄土への旅立ちが、私の流人としての年月の中頃になるな。放免されるのが待ち遠しかったものだ。流されてから五年で放免になったものだが、同じときに恩師法然上人も許されたとのことを聞き及んで、すぐに都に行きお会いしたく思ったものだ。もちろんのこと、玉日の墓にも詣でたかったし、息子・範意の大きくなった姿にも接したかったしな。しかし、しばらく越後を離れることができず、時がずれたおかげで、私が都に着いたのは、恩師が浄土に旅立たれたときになってしまった。葬儀に参列したかったものの、宗門からは恩師の旅立ちを早めた因を持つ悪人として参列は許されなかった。悲しいことは続くものよな」
「上人。恩師の葬儀への参列も許されないとは、本当に辛うございますね」


 親鸞は、越後から都に上ったときのことを真佛に語っているが、その話によると、赦免の報を受け取ったのは十一月(新暦では十二月)で、その年は雪が深く都への旅立ちが遅れた。雪の峠越えのために途中も日数を要した。都に着いたのは翌年の一月で法然上人が入滅した後だった。なんとか葬儀に参列したいと願い出たものの、拒否された、その後の法要にも参列を願うために、山科にあった九条家の所領にある庵を借り受けしばらくそこで世話になった。)この庵が後に真佛が後を引き継いだ興正寺のようである。作者・註)
 幾度かの法要への参列願いと、その冬の雪の多さのために、親鸞の都での逗留は数ヶ月になったということだ。



 この間に、当然玉日姫の墓に参り、愛息・範意ともしばらく過ごしたとのことである。玉日姫の墓は、九条家ゆかりの東福寺の一角に設けられていた法性寺小御堂におかれていた。
しかし、恩師法然の盛大な法要で執り行われたものは、法然の願い、説いてきたものとは違うものであり、幾分かは自力聖道門の流れをも含んでいたようだ。親鸞は、そうした法要のあり方への疑問と法要への参列拒否に嫌気がさし、数ヶ月後に越後に戻ったということだ。






第20回 <= 第21回 => 第22回






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 ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
 また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
 そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
 
 WEB公開していますが、著作権は放棄していません。
  
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2008年10月17日

小説『親鸞と真佛』(20)

 
 親鸞の結婚 4

「上人。流刑先の越後国分には三善様がおいでになられたのではございませんか」
「真佛よ。その通りじゃ。それも弥陀の計らいであろう。死罪を免れただけではなく、都でお世話になった三善様がおいでになるところに流されるのであるから、どれだけ心強く思ったものか。しかしな。私は流人である。流されてよりすぐ多くの方と接することはできなんだのだ」
「上人。流人とは。左様なものでございますか」
「真佛よ。流人には、厳しい掟があるからな。さもなくば、流人の意味がないというものじゃ」
「上人。まこと、さようでございますね。ところで、先のお話では、恵信尼様がお家の都合で越後に帰られていたはず、上人は恵信尼様と再会されたのでございますか」
「いや、最初の年は、それが誰であっても、人と会うこともままならず、ましてや女人と会うということは許されてはおらなんだな。しかしな。翌年からは、お役人の目の厳しさも少なくなり、いろいろな人とお会いでき、お話もできるようにはなった。といっても、恵信とは合うことはなかった。恵信は私に妻がいることを聞き及んでいたから、遠慮していたのであろうな」
「上人。恵信尼様もお辛いことでございましたでしょうなぁ」
「真佛よ。後になって、恵信が申しておったものじゃ。辛かったとな。都で思いを遂げられなかった相手が、流されて近くには来た。しかし、その相手には妻がいてはな、辛いものがあったとな」
「上人。お二人のお気持ちは察するにあまりあることでございましょう」
「真佛よ。辛いことというものは、どこまでも続くものなのか、いくら弥陀の計らいとはいえ、辛いものは辛い。流された翌々年のことだ、また辛い知らせが都から届いたのだ。体を煩っていた玉日が弥陀のもとに旅立ったとな。私は、流人の身、都に参ることは許される身ではない。玉日の無念な気持ちを思うと今でも辛い気持ちになる。南無阿弥陀仏」
「上人。私ならばとても耐えることはできぬかもしれませぬ」
「真佛よ。わしとて一人の人間じゃ。とてもじっと耐えることができるものではない」

 こうした二人の話を聞いていると、親鸞の波乱にとんだ人生を垣間見ることができる。それにしても辛いことが続いたものだ。人は、別れをいくつも通り越して強くなるもではあろうが、恩師、妻子と別れ、そしてそれに加えて別れてきた妻とはそれが永遠の別れであったとは、私ならばそこでおそらく大声で叫んだことであろう。叫んだとしてもどうしようもないではあろうけれど、叫ばずにはおれないと思う。





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 また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
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2008年10月16日

小説『親鸞と真佛』(19)

 
 親鸞の結婚 3

「上人。玉日様とのその後はいかがなされたのでございますか」
「真佛よ。世の喧騒とは違って、玉日との夫婦の間では穏やかでであった。子も一人もけることができ。九条様も空師も大変喜ばれてはおった。しかしな、世の風当たりは日に日にきつくなってきたものだ。。しかし、これも弥陀の計らいと、玉日とともに耐え忍んだ。しかし。それが私たち家族を壊すことはなかったのだが」
「上人。そのお子様とは、範意様のことでございますか」
「真佛よ。さよう。しかし、人の命ははかないものじゃ。もう私より先に弥陀の下にまいってしまったが」

親鸞は、遠い昔の我が子供の姿を思い浮かべてのことか、心なしか悲しそうな顔をした。しばらく二人は黙っていたが、親鸞が話を続けた。

「真佛よ。それからの承元の法難のことはもう話す必要もないであろう。先輩の処刑があった上に、空師は、土佐に、私は越後に流された。しかし、ここでまた弥陀の計らいに手を合わさねばならぬ。
私の処分は、先輩諸氏と同じように斬首の刑に処されるという話もあったということだが、どなかたのお力で流罪に減刑され、しかもその流刑先が三善様のおいでになる越後の国府ということになったのじゃ。流刑先に玉日は連れて行くことできなかった。実はな、その頃の玉日は体をわずらっておったのだ。それにまだ範意も五歳になったばかりで、母親と離すわけにもいかぬし、やむなく私一人の旅立ちとなったのだ」
「上人。冤罪とでもいうべき法難での流罪だけでもお辛いことでございましょうに、奥様、お子様と離ればなれにおなりになるのは本当に辛いものがございますね」
「真佛よ。いくら辛くとも、これも弥陀の計らいと私は思ったものだ。旅の途中は、まだ寒い時期であったから、これも辛いものがあったな。
しかしな。別な気持ちもあったのだ。それは新しいところで、弥陀のお心を話すことができるのではないか。空師の念仏のお心を多くの人にお話しできるのではないかと思ったのだ」
「上人。新しいところでは、新しい同朋に引き合わせてくださるのもすべて弥陀の計らいでございますが」
「真佛よ。さよう、何事もすべてが弥陀の計らいというものじゃ」

しばらくの間、親鸞の話は流罪で流されていく旅の話が続いた。そして、しばらく間をおいてから、真佛が越後での話を聞いた。






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2008年10月15日

小説『親鸞と真佛』(18)

 
 親鸞の結婚 2

「真佛よ。本当に、お世話になっているお二人のお勧めを無碍にお断りすることもできず。それにも増して、僧たる私が、女人を追って越後に下るわけにも行かぬしな。意を決して、妻を娶ることにした」
「上人。それでは恵信様とは・・・」
「真佛よ。まあ、そう急くな。弥陀の計らいは、奥が深いと申したであろう」
「上人。重ね重ね、失礼しました。その奥の深いところをお聞かせください」
「真佛よ。これは、お二人のご進言は、私に力を下されたものであり、私の女人の差別をなくすという考えをお認めいただいたものなのだ。九条様の計らいで九条様のお屋敷に近い五条西洞院に庵を設けさせていただいた。その庵から空師の法話をお聞きするために黒谷まで毎日通うことになった。玉日もお聞きするのに支障のない限り通ったものだ。二人そろってな」
「上人。それは目立ったことでございましょう。抵抗も多かったのではございませんでしょうか」
「真佛よ。確かに、目立ったであろう。抵抗は空師の門下の中でも多かったといえるであろう。釈尊の教えに背くものという謗りは絶えることはなかった。空師がお認めになられたといっても、世の考えが即日変わるものでもなく、ほとんどの人々が理解できないものであったのだろう。空師は、いつも私におおせられたものだ。『これも弥陀の計らい。そなたの苦労が世の中を変えるための方便と弥陀のお考えであろう。』と、あくまでも弥陀のお心を信じていくことを説かれておった。
その後は、宗門の受けた弾圧は真佛も知るところだが、その中には空師が私の妻帯を認め、いや勧めたことへの揶揄もあったのは確かだ。承元の法難は、表には私が妻を娶ったことは出てはいないものの、叡山や南都がいきり立っていたのは、私の妻帯も遠因になっていたことは確かであろう。そのために、私は空師には教えを五年という短い間だけしか受けることができなかったのが、これも弥陀の計らいとはいえ残念に思われてならない」

真佛としては、恵信尼との話までもう一度もって行きたいのだろう、つらい思い出を話す親鸞に、さらに問いかけた。






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2008年10月14日

小説『親鸞と真佛』(17)

 
 親鸞の結婚 1

「真佛よ。これも弥陀の計らいかのぉ。弥陀も少々意地のお悪いときもあるのかもしれぬ。恵信との話が二人の心の中で固まったころに、越後の三善家の都合で恵信は、里帰りを余儀なくされてしまったのじゃ。二人は、泣いたものじゃ。しかし、いかんせん、覆すことができない事情であったのだ。しばらくして、恵信は、泣く泣く越後に帰ることになった。必ずの再会を誓ってな。。
このように恵信と離ればなれにならねばならなくなったのだが、これまでのいきさつは、九条様も空師もご存じなかったことでもある。ご存知であれば、里に帰る前になんからの手は打たれたこと思う」
「上人。なんとなんと、悲しい出来事でございますなぁ」
「真佛よ。これも弥陀の計らいじゃ。人生は、すべて弥陀の計らい」

 親鸞の人生は、波乱に飛んでいるとはいえ、こうしたこともあったのかと横で聞いている私としては、いくら弥陀の計らいと親鸞が話すにしても、人生の不思議を感じざるを得ない。

 親鸞の話は、まだ続いている。

「真佛よ。弥陀の計らいは、奥が深いものじゃ。私と女人のかかわりは、それで終わるということではなく、また違った計らいをされたのだ。恵信が里に帰って悲嘆に暮れいている私に、追い討ちをかけるように、なんと九条様から『妻を娶れ』というお話になったのだ。それも恵信ではなく、他の女人、『玉日』ともうす九条様ゆかりの女人をな。これは、九条様と空師との間のお話でできたことであり、お二人から娶るように仰せつかったのだ。これは赤山明神のできことから三年近い月日、そうよな。ちょうど千日くらい立った頃であったろう。あの明神の女人はこれを予言したということのようじゃ。しかし、九条様も空師も、お二人が恵信と私の間をご存知であれば、内心『恵信のことは諦めろ』というお心ではなかったかと思う。それでいて、私の女人への考えは空師はご存知であるし、九条様は『僧が妻帯しても往生できるか。』と空師に再三詰問されておったのだが、空師も腹を据えられたのか、私への進言ということになったようじゃ」
「上人。私としては、驚くばかりでございます。それで」





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2008年10月13日

小説『親鸞と真佛』(16)

 恵信尼への文 4

「真佛よ。さようじゃ。順を追っては話せばよかったかな。恵信の気持ちが決定(けつじょう)してからは、世の女子(女子)の差別をなくすにはどうすればよいか、いかに仏門の中を変えていくかを考え続けていた。私の悩みは尽きることはないようだ。いつもいつも何かを考え、変えていくことを考えているようだ。叡山を下りることをはっきりと決めたのは、これも夢じゃ。夢を見ることもこれも弥陀の計らいであろう」
「上人。これで三つの夢をお話されましたが、それぞれ上人の生き様を変えていく大きな転機ということでございますね」
「真佛よ。確かに私の人生を変えるには十分な夢であったの。人は真剣に思い、考えるときには、そのことを夢に見ることが多いものだ。そして、覚めているときには思いもつかないものを夢で解決することも多いのではないか」
「上人。仰せのとおりでございます。夢は、いろいろなことを呪縛から解いてくれます。しかし、真剣に考えていないときは、夢では解決できないことがほとんどでもありますね」
「真佛よ。その通だ。人はいつもいつも真剣に考えながら生きていかねばならんのであろう」
「上人。これで上人が叡山をおりられることになったことも、恵信尼様が上人とともに同じ道をお歩きになることをお決めになったこともわかりました。それで、上人はいつから恵信尼様とともにお住まいになられたのでしょうか」






第15回 <= 第16回 => 第17回






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2008年10月12日

小説『親鸞と真佛』(15)

 恵信尼への文 3

 真佛は、書き終えて親鸞に話しかけた。

「上人。恵信尼様にはその偈文だけをお書きになられたのでしょうか」
「真佛よ。恵信には、示現の文だけではなかったぞ。偈文は漢字にしたが、そのほかはかな書きの文をつけた。やはり、女子への文はかなでしたためるのが、思いやりというものであろう。恵信は漢字の読み書きもできるのだが、今の世は女子にはかなで文を書くのがしきたりというものだからな。恵信は、文を受け取ったときはたいそう驚いたといっていた。それはそうだろう。自分自身が救世大菩薩の化身なるわけだからな。しかし、私の強い思いは、その文で伝わったようであるし、恵信もやっと決断をすることになったのだ」
「上人。それでその後のお二人は、ご一緒にお住まいになられたのでしょうか」
「真佛よ。恵信の決断の返事をもらったときは、まだ私は叡山にいたのだ。だから一緒に住まうことはならなかった。これまでと同じように、私が洛中に通ってくることになっていた。
私が叡山を下ったのは二十九歳になっていた。磯長の太子廟での夢告からちょうど十年。叡山にいたときまでの私は、夢告の通り十年で命を終えて、叡山を下りた私は生まれ変わったのだ。夢告はこの私の叡山を下り、空師のもとに入ることを予言したものであったのだろう。これも弥陀の計らいであろう。
先にも話したように年が明ければ二十九歳という前の日、つまりは大晦日に夢を見た。如意輪観音が立たれ、
善哉善哉汝願将満足
善哉善哉我願亦満足

 とおおせられたのだ。これは、そのとき考えていたことを如意輪観音がお認めになられたということと私は受け止めた。そのときの私の考えていたことは、世の女人の差別をなくするためには僧が妻帯をすることで、仏の前では男も女も同じであることを示すべきだということであった。これを観音がお認めになられたということであろうし、そのように図られたのは阿弥陀仏であろう。この夢で私は、叡山を下りることを決め、明くる朝、元旦に山を下りたのだ」
「上人。叡山を下りることになるには、恵信尼様とのことだけが理由ではなかったということでございますね」



第14回 <= 第15回 =>第16回






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2008年10月11日

小説『親鸞と真佛』(14)

 恵信尼への文 2

「上人。なんと、なんと、菩薩様がお相手の女人に変わってくだされば、『女犯』の問題はなくなるではないですか。形は、女人であっても、それは実は菩薩様。これならば、どなたも問題はなくなるというもの」
「真佛よ。早とちりするではない。これは、何も万人に向かって示されたものではないのだ。あくまでも、今恵信とのことで悩んでいる私に対してものなのだ。女人への差別の扱いがなくなれば、現世における男女の交わりが、本当の意味での扱いになれば必要のないお言葉なのだ。ではなぜ今私にということなれば、それはそのときはまだ宗門で『女犯』が認められるわけはなく、女人の扱いが変わることも望めないことからの、弥陀の計らいであろう。時間の経過とともに世の中が変わり、女人の扱いが等しくなれば不要なことなのだよ」
「上人。大変失礼しました。確かに、女人が同じ扱いをされているのであれば、菩薩に代わっていただくこともありません。しかし、そのような世になるのはいつのことでございましょう」
「真佛よ。女人が同じ扱いを受ける世を少しでも早くするために私は心を決めたのだ。その思いと遂げるには、何とかして恵信を説得せねばならない。この菩薩の示現の文を恵信が読み、決断してくれることは、弥陀の計らいとして、私は信じていたのだが」
「上人。それで、恵信尼様からのご返事は」
「真佛よ。恵信の後の話でのことだが、正直な気持ちとしては安堵し、喜んだとのことだ。しかし、すぐに返事を返すことは躊躇したと申していた。その躊躇した理由は、九条様や三善家にいかに話すべきかを考えあぐねていたとのことだ。数日考えていたが、決めかねて、夜も眠れぬ日が続いたとのことだが、おそらく私であっても同じことであろう」
「上人。お悩みなられたお気持ちわからぬではございません。ところで、その救世大菩薩の示現をもう少し詳しくお話いただけないでしょうか」
「真佛よ。そうだな。先ほどの話では、何がなんだかわからないだろうな。夢の中では救世大菩薩が巻物を持って現れ、それを私に示されたのだ。その巻物には、
行者宿報設女犯  我成王女身被犯
一生之間能荘厳  臨終引導生極楽

と漢文で書かれていたのだ。つまりは、過去の因縁で『女犯』をすることになった行者、そう私のことだな、『その行者が前世の因縁で女子と交わりを持たねばならなくなったときは、菩薩が玉女となってその相手の女子に成り代わり交わりを持とう。そして一生の間厳かにお付き合いをし、臨終に際しては必ず極楽に導くであろう。』ということなのだ。私が交わりを持つ恵信は、実は菩薩の化身ということになるのだ」
「上人。その示現の文を書き留めさせていただけませんか。下野高田のみなに読ませたいものです」

 真佛は、懐から矢立を取り出し、親鸞の口から出る漢字を懐紙に書きとめている。親鸞に関する研究論文では、真佛筆の『女犯偈』は何かの書を書き写したものというのが定説だが、この情景からは書面の書写ではなく、口伝を書きとめたものということか。




第13回 <= 第14回 => 第15回






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2008年10月10日

小説『親鸞と真佛』(13)


 恵信尼への文 1

 なかなか核心に向いていかないことに真佛が少し苛立ちを覚えたのか、顔が少しゆがんだ。そのちょっとしたしぐさを親鸞が気付かないわけがないのだろう、ゆっくりとしたおだやかな話しぶりには変わりはないが、きりっとした表情で親鸞は話し始めた。

「真佛よ。そろそろ核心に行ってくれないかという思いのようだな」
「上人。心の中まで、読まれましては、言い訳のしようもありません。しかし、上人と恵信尼様との馴れ初めについては、多くの人の関心ごとでございます。今お話いただいたことは、高田に帰りましたら、皆さんにお話させていただこうと思っております。おそらく賛同される方が多くおいでになるでしょうし、上人の採られた道をついていかれる人も多くなろうかと思います」
「真佛よ。私と恵信の馴れ初めがそんなにも人の関心事ということなのか。私としては、私たちの馴れ初めよりも、抑えられている女人の扱いが変わってくれることのほうが望ましいものだが」
「上人。確かに仰せのとおりです。しかし、上人の望まれる女人の扱いも、上人の恵信尼様へのお心をしっかりと理解すればするほど、女人の差別からの開放の理解も得られると思います」
「真佛よ。確かに、そういった面もあろうな」
「上人。それでは、先ほどの恵信尼様との馴れ初めの続きを」
「真佛よ。そのように、急かすではない。今話そうものを。
 私は、真剣に考えているときほど、夢をよく見るものだ。十九歳のときだったか、老師にお供して河内の磯長に行ったときのことだが、そのころは二十歳になるのを目の前にして十年もの叡山での修行の成果を自分で確信することができず悩み続けていたのだが、なにひとつ精神的に解決がついておらなかったときに、聖徳太子の廟での参籠の折のある夜夢を見た。その夢で『お前の寿命はあと十年』と宣告を受けてしまった。
 それから十年の歳月が流れて、聖徳太子の廟の予言の満つる前の夜にまた夢を見たのだよ。救世大菩薩が枕元におたちになり、『善信よ、我が望みは満ちた』とおおせられたのだ。その夜が明けた元旦からから六角堂で太子の前で自分の思いを改めて願をかけて百か日日籠もることにしたのだ。そして九十五日目の明け方また夢を見たのだ。救世大菩薩が夢に現れ出でられ『女犯のおきてを破らねばならぬときは、その女人にとって代わろう』とおおせられたのだ。この夢も、弥陀の計らいであろう。
 私は、その夢の救世大菩薩の示現を弥陀の計らいとして、恵信を妻とすることを私は決断したのだ。そして、その夢での出来事を文にしたためて恵信に送った。私がこのように心を決めたのも、自力ではない、弥陀の計らい、お蔭様なのだ。真佛よ」



第12回 <= 第13回 => 第14回




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2008年10月09日

小説『親鸞と真佛』(12)


女人差別 3
 親鸞と真佛の会話は、穏やかなものであったが、二人の間の雰囲気はその穏やかさを持っているが、親鸞は『女人差別』ということに話が及んでから、穏やかな語り口とは言うものの、その話の中はかなりきついものになってくるような感じがする。
 宗教の世界というものは、どうして男女を区別して扱うのだろうと、私自身思っている。仏教だけの話ではないのだ。日本古来の神道でも女人をけがれ;穢れとして扱う。『天照大神』というにょしん;女神がありながら、女性を敬うということは少ない。巫女となる女性は結婚前ではならない、男との交わりを持った女性は巫女にはなることはできない。有名な神社では、女性は神官となることはない。キリスト教然りである。ローマ法王というキリスト教最高位になるのは男性のみである。
 こうした男女差別は、宗教界だけではなく実社会でもまだまだ尾を引いているといえるだろう。イギリスやフィリピンでは首相や大統領を女性が就任したとは言うものの、まだまだ数は少ない。男女の差が少ないといわれるアメリカであっても、まだ女性の大統領はない。
 仏教の前身と思われるヒンズー教では、女性を大きく、重くその役割を扱っても、身分は高くはない。仏教はその流れを汲んだのか、いや流れは身分を低く扱うところだけではないのかと思う。キリストは、聖書の中ではいろいろ女性をやさしく扱っている。にもかかわらず女性の扱いの変化はマルチン・ルターの宗教改革を待たねばならなかった。親鸞は、日本における女性の扱いを変える宗教改革者であったといえるのかもしれない。
 こんな思いを私は昔から持っているのだが、その思いに近い話を、親鸞と真佛が交わしているのだ。

二人の話はなかなか核心の話には行き着かない。しかし、その核心に至る二人の精神構造を垣間見ることができる。時代の違いはあっても、男と女の間、その扱いの難しさは変わらないのかもしれない。



第11回 <= 第12回 => 第13回






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2008年10月08日

小説『親鸞と真佛』(11)

女人差別 2

「真佛よ。そなたが言うとおりだ。私と恵信の二人の間では、男女の交わりをもつまでもなく心の中ではもう夫婦であったとは思うが、その交わりを持つまでの心の昂ぶりがあっても、私も恵信も僧と女人という『女犯』という壁にさえぎられていたのだ。私は昂ぶった気持ちをだんだん抑えきれなくなってきていたことは確かで、我慢の限界といっていいだろう。何とか、恵信の気持ちを懐柔できないかと、来る日も来る日も考えたものだ。
つまりは、恵信に心を決める、決断のきっかけを与える必要があったことは否めない。やはり仏法に背く、私の立場での『女犯』で私が無間地獄に落ちるという精神的な呪縛から恵信が抜けきれずに悩んでいたようだ。その呪縛から解かない限り、恵信が私とめおと;夫婦になることへの抵抗は続いたであろう。どうするのが一番なのかを、来る日も来る日も、寝てもさめても考え続けたものだ。
事実上は、夫婦という関係にあっても、二人の間で夫婦としての解決つかないものが残ったまま、私が三十路の手前まで、恵信が二十歳になるところまで来ていたのだ。僧と女人という宗門では認められるものではなく、私にしても恵信にしても苦しい思いは続いていたのだ。
そうした私たちの悩みは、広く世の僧の問題でもあり、仏の前では差別されないはずの女人の差別という問題でもあったのだ。真佛も知っておろうが、今でも『女人は成仏できぬ』という問題がまかり通っている。何ゆえに女人は、このような差別を受けるのかが私には理解できないものであり、いつかはその差別をなくさねばならないと思い、その方法、手段を考えあぐねていたときでもある」
「上人。叡山や南都の女人差別の考えは、何とかならないものかと私も思っておりますが、釈尊が出家なされ、女人を遠ざけられたということが、彼らの立場での考えのようですが、なぜにそのように差別する必要があるのかと」
「真佛よ。女人差別は、なくすることは、時間がかかる問題であろう。叡山や南都のごとき大きな集団では、何かの締め付けのための掟が必要であろうからな。そして、僧が女人との交わりを持たないことは、修行のひとつにもなっているようにも表向きは見えるからなぁ。修行という名の精神的な呪縛であり、拷問とも言えるものだ。しかし一面、そうしたつらい修行をすべて終えたものが位の高い僧になることができるという、昇格試験の面でもあるからな。その反面、隠れて女人を囲う高僧といわれる人が多いのは、いかがなものかと思っている。こうした矛盾した制度は望ましいものではなく、女人を虐げることだけでも何とか解決しなければならないであろう。そのためには、誰かが仏の教えの男女の平等を説かねばならないのではないかとも思ったものだ」


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 ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
 また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
 そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
 
 WEB公開していますが、著作権は放棄していません。
  
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2008年10月07日

小説『親鸞と真佛』(10)


女人差別 1

「上人。お話を逸らせるようなことをお聞きして申し訳ありません。もう一度、恵信尼様との馴れ初めにお話を戻させてください。
お手紙を交わされても、それが夫婦になるということになることは、まだまだ遠い関係と思うのです。上人のお気持ちを恵信尼様が理解されていることはわかりますが、お二人が夫婦になろうというお気持ちに至るには、まだ紆余曲折がおありになったのではないかと思うのですが」
「真佛よ。平安の昔から、この国の夫婦はいつも同じ屋根の下で暮らしたということではないであろう。多くの公家たち、都人に限らず多くの人たちが、異なった屋根の下で別々に暮らしていても、それは周りから夫婦として見られる関係にあったものが多い。こうしたことが、僧職にあるものであっても妻を持つことができたということではないかな。僧職にあるものは、寺や庵の中で生活するが、その妻はそこに住まわなくてもよいのだ。妻となる人はその人の住まいで、夫となる人と同じ屋根の下でなくてもよいのだ。別々の営みを持つことが、お互いに相手が一人とは限らない場合も多くあったのではないであろうか。女人は、夫婦の相手の男は一人ということが多かったかもしれないが、男のほうは幾人もの女子とかかわりを持つことも多かったであろう。
叡山の僧職にある身の人が、そうした妻と呼ばれる人、妻とは言われなくても男女の交わりを持ったという証しはまずは残さないもであったろうし、子供をもうけたとしてもその子供がその僧の子供とは公言されることはなかったであろう。
私は、僧職にある人のかかわりで生まれた子供が親子を名乗ることもできず、最悪は生まれることや生まれたことを疎ましく思われるような、そうした大きな意味での差別には大いに疑問を持ったのだ。あの赤山明神での出来事がその思いをより重くしたのだが、そうした思いのあるときと、私の恵信への思いが熱かったときがたまたま重なったということでもあるのだ」
「上人。上人が奥様を娶られたということから先、多くの僧が奥様を公然とお持ちになるかと思ったものですが、世の中はなかなか簡単にはいかないものか、僧職にある方の妻となろうとされる女人はそんなには多くはございません。まだまだ風当たりが強いものがあるからでございましょう。今ですらそういった世でございますから、恵信尼様がご決断されるには強いお心が必要ではなかったとご想像いたします。それに、恵信尼様がお心をお決めになるには、それなりの上人からのお申し出でがおありになったのではとも思っておりますが、いかがなものでございましょう」


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2008年10月06日

小説『親鸞と真佛』(9)


赤山明神の女人 3

「上人。私、真佛も人間でございます。男として女に惹かれるのは当然として、私も若いころは巷の女に目が行ったものでございます。そのときは修行が足りぬと、自分を叱咤したものでございます」
「真佛よ。確かにな。私も、修行が足りぬと心底思ったものだが、その思いをはるかに超えたのが恵信への思いだったのじゃ。
先にも話したが、釈尊の出家が『女犯』という掟の遠因になっていることは確かだとは思うが、それ以上に『女犯』という掟をつくらねばならなくなった事情が出てきたのではないかと思っている。というのは、釈尊の教えが時間の経過とともに大きくこの世に広まり、信じる人の集団がどんどん大きくなっていったことであろうが、人の集まりが大きくなるとそこにはその集団をまとめる規律、掟というものが自然に出来上がるものであるし、特に男女の集団となると、そこには不逞の輩も多くいるであろうし、いわゆる風紀が乱れがちになるものだ。そのために、少なくともまとめる立場となる僧職にあるものだけは、そうした風紀の乱れの因となることを戒めるために『女犯』という掟をつくらねばならなかったということもあるのではないだろうか。
かの承元の法難のときのように、空師(法然上人)のお弟子であり、私の先輩の善綽房殿 性願房殿 住蓮房殿 安楽房殿の四人が斬首になった因となるものも、空師の責任ということではなく、多くの男女の集まりからいくらかの風紀の乱れが生じ、それをひとつのきっかけとして、同じような風紀の乱れが浄土宗の上層部にもあるという作り話が、真実あのようにして裁かれたということなのだ」
「上人。清いといわれている人や集まりを貶めるにはそうした風紀の乱れ、異性を扱い、『女犯』が一番手っ取り早いと思うのですが」
「真佛よ。男と女の問題は、人の心の中の一番大きな欲望、煩悩なのだが、やはり人を貶めるには一番簡単な、身近で大衆にわかりやすい問題であろう。わからぬではないが、あまりに安易過ぎるように思えてなぁ」

七百年以上の時間を経た現代でも同じことだろう。人の営みや、心の動きには大きな差はないということだろう。現代では情報伝達の速さは、マスコミやインターネットを通して相当なものがあり、それが、身近なところだけではなく瞬時にして世界中に広がるのだ。そして、スキャンダルはその仲でも一番大衆に好まれる最たるものである。
七百年以上のまえでは、インターネットというものはなくとも、『くちこみ』という口伝えの噂話の伝わり方は速かったのであろう。




第8回 <= 第9回 => 第10回



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2008年10月05日

小説『親鸞と真佛』(8)


赤山明神の女人 2

「上人。そのようなことがおありになったのですか。しかし、不思議な体験でございますな」
「真佛よ。さよう、不思議な出来事であった。しかし、この出来事は、私の心に重く留まることになった。やはり女人を差別することの無意味さが重く重く感じるようになったのだ。女犯という問題もさることながら、女人差別をなくすにはどうするのがよいか、深く考えさせられることになった」
「上人。それで、この出来事が恵信尼様との間のことに何か影響はございませんでした」
「真佛よ。そのときは表にでるようなものはなかったが、私の気持ちの中で、少しでも早く恵信に気持ちを話さねばとよけいに思うようになったことは確かだ。
そなたも知ってのことだが、私はいかにも気性の激しい性格であるが、一度思い込むとなかなかその意を曲げることが少なかったのだが、恵信への思いもよけいに断ち切ることができなくなってきたものだ。とは言え、いかんせん解決する道もなく、私は僧職にある身、恵信は女人で、そこには宗門の『女犯』という大きな壁があることが余計に気持ちを意固地とも言える方向にしていったものだ」
「上人。お気持ちよくわかります。凡夫の私などは、おそらくもっともっと昂ぶった気持ちになったのではいかと思います」
「真佛よ。そなたもなぁ」
「上人。何を隠しましょう。一度、二度というものではございません。やはり、心の中に根が生えたように拭い去ることができない気持ちというものがございました」
「真佛よ。それが本当の人であり、人の心は、無理に曲げようとすれば余計に意固地になっていくものであろう。『女犯』という重い言葉がなかったら、私の恵信へ甘い気持ちも変わったものになっていたのかもしれないものだ」
「上人。それで上人は、恵信尼様との間をいかにして近いものにされていかれたのでしょうか」
「真佛よ。熱く燃えたときには、その思いをいかに昇華するかにずいぶん苦労したものが、昇華しきれず人知れぬように、そのたびに文をしたためたものだ。巷で言う恋文なのだろうが、私にしても、恵信にしてもそのような思いは持つことはなかったといえるが、さてほかの人がそれを見たり読んだりしたら、いかが思うことであろう。
それにしても、今思い出せばずいぶん文をしたためたものじゃ。昂ぶった気持ちのときは、ほとんど修行も手につかず、毎日文を書いておった。それをいかに恵信に届けるかがまた問題ではあったがの。幾日かまとめて、使いを頼んだりしたこともあったが。何かにつけては、九条様のお屋敷に用を作って出かけたこともずいぶんあったものだ」
「上人。それではずいぶん目だったのではございませんか」
「真佛よ。確かに少しは、いや今思えば大いに立っていただろうな。しかしな。そのころは、確かに僧職にあるものが女人とのかかわりを持つことは『女犯』としてご法度とは言うものの、僧正という立場の人であっても影で妻同然の女人を持っていたし、修行僧という立場であっても巷に繰り出して女人とのかかわりを持つのは公然と認められていたも同じようなものであったのだ。そうしたことで、私のように文のやり取りをしたとしても、さほどの問題になることはなかったといえるだろう。まあ、問題があるにしても、師から『そこそこにしておけ』というお叱りをもらうくらいであったのだろうが、私の場合にはそうしたお叱りを受けることもなかったな」



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2008年10月04日

小説『親鸞と真佛』(7)


赤山明神の女人

「上人。それで恵信尼様とのその後の再会はいつごろだったのですか」
「真佛よ。私も叡山にこもっているばかりが私の生活ではなく、洛中に時折座主や老師の御用できているから、時折恵信の顔を見る機会はあったのだが、何にしても私と恵信は歳が十歳離れているから、私が彼女を女人として意識するのは、私が二十五歳か六歳のころだったかと思う。それにしてもずいぶん昔の話になってしまったものだの」
「上人。上人が恵信尼様を女人として意識されるようになったには、何かきっかけでもおありなのでしょうか」
「真佛よ。弥陀の思し召しだ。人というものは、話したり、会ったりする機会が多くなると、それなりに情というものが出てくるものではないだろうか。後になって、恵信と話したものだが、九条様が、何かにつけ私をお屋敷にお呼びになり、そのたびに恵信をその場に立ち合わせられていたようで、九条様に何か思うところがおありになったのではないかとすら思うのだ。しかし、九条様が何をお考えであったとしても、そのように九条様のお心にそうした所業を思いつくようにさせられたのも、弥陀の御計らいというのもではないか。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「上人。左様でございますね。いずれの人のお心の動きも、すべて弥陀の御計らい。いま上人と私がこのようにお話をさせていただく機会をおつくりになられているのも、弥陀のお心のことと思います。南無阿弥陀仏」
「真佛よ。生きているということは、不思議なことよ。私が、そうした恵信への気持ちで悶々としているときのある日、九条様のお邸に出かけた帰りのことなのだが、叡山への入口の『赤山明神』に詣でたのだが、そこで不思議な女人にお会いしてな。ことのとき心の底から『女人差別』を思い知らされた、そして私の思いを成し遂げ、仏の前での男と女の差別を取り払わねばと心に誓ったものじゃ」
「上人。それはどのようなお話でございますか」
「明神の本殿から鳥居に向かっているとき、鳥居の影から一人の女人が私の前にたたれ、『叡山に帰るのなら伴をさせてはもらえぬか』と申されるのだ。心の中には、恵信への気持ちを持ち、男と女の差別をなんとかせねばならぬとは思ってはいるものの、叡山に女人をお連れするなどまだまだそのような大それた気持ちは持つところまで至っておらなんだのじゃ。致し方ないので『女人禁制の御法度』の旨をお話ししたのだが、かなりきつくお叱りを受けたものだ。『叡山には、鳥や動物の雌はおらぬのか』、『法華経には、龍女の成仏ことが記されておろうが、そなたは僧でありながらそのようなことも知らぬのか。』と。私の気持ちにはかなり堪えたものじゃ。心の中では同じことを思っているだけに、一層堪えたものじゃ。女人には納得はしてもらえなかったが、なんとかご容赦してもらったといったところだろうか。その女人は、私に玉を渡され、『これは太陽より火を得る石である、人の足下にある石であるが、人の上にある太陽の光といえどこの石がなくては夜毎つける灯火を作ることはできぬのじゃ。千日の後にこの意味を知ることになろう。』と話され、お姿を消されたのだ」


きらら坂から見た赤山明神鳥居



赤山明神




第6回 <= 第7回 => 第8回



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2015大津・京都の旅
1泊2日のドライブ旅行
2015北海道・道東の旅
1週間870kmのドライブ旅行
大学OB会と
50年ぶりの鎌倉
OB会の後に鎌倉と横浜に行ってきました
15年年頭 広島宿泊の旅
鞆の浦、竹原、宮島に行きました
14年秋 京都宿泊の旅
久しぶりに新幹線に乗りましたが・・・
13年秋 京都ドライブ旅
京都の紅葉の名所・毘沙門堂に行きました
12年秋 室生寺ドライブ旅
すてきな観音様と再会です
室生寺五重塔
12年秋 京都ドライブ旅
1年ぶりの京都です
三千院
10年秋 平泉ドライブ旅
4泊5日 2000キロの一人旅です
平泉・わんこそば
   
10年夏 室生寺 日帰り旅
素晴らしい観音さんに出会いました
室生寺・五重塔
10年初夏 宇治・長岡 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに黄檗山満福寺・六地蔵・法界寺谷寺・長岡天神
布袋さん
09年秋京都 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに 紅葉がきれいな京都
南禅寺の紅葉
08年秋京都 日帰り旅
08年11月25日貧乏・一人・日帰り旅の記録です。
鳳凰堂を望む
観光シーズン 京都の歩き方
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生田
 トップの写真は、我が家の庭で、鳥達につつかれ実もなくなり枯れ果てた柿の枝です。人生も同じで、仕事仕事で突き回されてここまで来て、落ち着いたら、だんだん枯れていくんだという思いです。  
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