2008年10月03日

小説『親鸞と真佛』(6)


 親鸞の話は続いている。
 
 「そのときの恵信は、かわいらしい利発な童女というだけの印象であった。まだ女人としての魅力というものを感じさせる歳ではなかったからな。
 恵信は、越後の三善家の息女なのだが、当時の三善家には跡を継ぐ男子はおらず、いざとなると恵信が婿をとって跡を継ぐべく、跡継ぎとしての教育を受けるために、京のご本家に預けられていたのだよ。もともと利発であることから、九条様からもまるでご息女のようにかわいがられるようになっていったということだ。そのときの初対面からはしばらくは会うこともなかったのだよ」
 「上人。巷では、長く添い遂げる人との初めての出会いでは、大きく胸がときめき、それなりの予感があるとか申しますが、上人はいかがでしたか。そのようなお気持ちはおありになりましたでしょうか」
 「真佛よ。何につけ、この世のすべては弥陀の計らいによるものだが、そのころの私の場合にはそうした気持ちよりもそういう立場の女犯という言葉が重くのしかかっていたから、そうした気持ちを抑えざるを得なかったことで、童女とはいえ女人への気持ちは抑えてしまっていたものだが、どうも恵信はそうした予感らしきものを持ったと申していたが、これも弥陀の思し召しというものだろうか。南無阿弥陀仏」

 初めての出会いでの胸のときめきは、私も経験をしている。これは何も異性に対してだけのものではなく、同性であっても長い付き合いをするという予感めいたものが胸の高まりをもたらすことがあるものだ。
 私のこれまでの知識では、親鸞は九歳で慈円の門下に入り、そのまま叡山に上がっているといわれている。それから二十年を叡山という女人禁制の中での生活を送っている。一番異性に対しての気持ちに多感な年代を、その異性に接する機会を制限された環境の中での生活を強いられている。
この時の気持ちはいかばかりであろう。あまりにも時代環境が違いすぎるが私も時間的は半分にも満たないが、似た環境の中にいたといえば言えるかもしれない。私の場合には、中学校一年から高校三年までの六年間を男子校で生活をした。
 そうした環境におかれたとき、周りに異性があまり存在しないときは、性に目覚めたときにはよりいっそう強い興味をそそられることもありうるが、これは人それぞれの資質にもよるだろう。親鸞の場合は、九歳から二十九歳という長い時間の抑圧生活だが、その二十年の間に興味を持った異性があっても人間としてなんら不思議ではない。
 私が、自分自身のことを思い出している間も、親鸞と真佛の話は続いている。



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 ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
 また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
 そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
 
 WEB公開していますが、著作権は放棄していません。
  
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2008年10月02日

小説『親鸞と真佛』(5)

 「真佛よ。確かに、難しい問題であった。比叡の山にいるころから私は僧の有り方に疑問を持っていた。いったいなぜ僧は妻を娶ってはならないのか。いや、それだけではなく、女性と交わってはならないのか。人として現世で生きるとき、正直な人としての気持ちを持って、女人と接することがなぜいけないのか、私にとってはこれが一番大きな問題であったのだ。仏の前では、男であろうと女であろうと同じ立場でなければならないと、人としての差別は無いと教えを受けているにもかかわらず、いざ同じ席で、同じ屋根の下で暮らすことが、また男として女に興味を持ち、心を通じさせようとするのは人としての営みとしては自然なことでもある。にもかかわらず、僧という立場になるとそれはご法度、女犯になってしまう。
 釈尊は、一旦は家族をもち、妻も子供もある身であったにもかかわらず、それを打ち捨て出家された。つまり、その釈尊のとられた出家という行動が、異性との断絶ということになったのかもしれないが、釈尊の教えに、僧が異性を絶たねばならないということはとかれていないと思うのだ。誰が、どの時点で『女犯』という掟をつくったのかと、いぶかしんでいた。
 正直言って、仏の教えの『平等』と『女犯という差別』という、私から見たときの矛盾をどう解決するかは、かなりな時間悩んで来たものだ」
 「上人は、いつごろからそのように思われ始めたのでしょうか」
 「真佛よ。いつごろと問われると困るのだが、思い起こせばまだ二十歳になるかなり前であろうか。叡山にいて、尊師、座主のご依頼ごとで洛中に出かけた折に、いろいろと女人とお話をする機会も多くなり、そうしたときに胸がときめく人とお会いするときは、ずいぶん『修行が足りない』のではないかと悩んだものだ」
 「上人ですら、そのようにお悩みになられたのですか。私が悩んだのも当然といえば当然のことでございます」
 「真佛よ、そのように誤解するではない。誰であろうとも、人として現世で生きるもので、男ならば女子に胸ときめかせるのは、何の問題も無いことであろう。それを、僧という身分であるから、そのような気持ちになることは『女犯』のおきてを犯したという。本来は、そのようなことの方に無理があると言うものであろう。
 実は、そんな十代という多感な年頃に恵信に出会っているのだ。そのころ恵信は三善家のご本宅に預けられ、いろいろの教育を受けているころであり、まだまだほんの子供という印象であった。私が九条様のお宅に慈円様のお使いで出かけた折に、たまたま本当に偶然、三善家のどなたかのお供をして恵信も来ていたのだが、そのとき九条様から紹介されたのが恵信との初めての出会いなのだよ」

 親鸞は、目をつぶり遠い昔の情景を目に浮かべ、それらを懐かしむかのように、真佛に向かってゆっくりと話している。あの御影堂で見る親鸞像、安城の御影に見るケンのある親鸞の顔はまったく消え去っている。長く生きてきた一人の男がこれまで押さえつけられてきた思い出を素直な気持ちで人生の後輩である真佛に語っている年老いた人なのである。どこにもいる好々爺といった感じがする今である



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 ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
 また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
 そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
 
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2008年10月01日

小説『親鸞と真佛』(4)

庵の二人

 私は、透明人間状態であることをいいことに庵に上がりこみ、彼らの横に座ることにした。彼らの話し言葉は、どうも鎌倉時代の言葉のようだ。もともと古文の苦手な私は聞き取るのは難しいかもしれない。ましてや鎌倉時代の話し言葉など聞いたこともないが、ここはひとつ彼らの話を聞いてみようと思う。

 私が座るのを見計らったかのように、若い方の僧が話し始めた。その話が耳に入ってくると、どうしたことか、彼らの話はこれまでの言葉ではなく、現代の私に理解できる言葉ではないか。まるで外国のテレビドラマを日本語で聞いているように、はっきりと理解ができる言葉だ。これでは、彼らの話を聞き取ったとしても、その信憑性が問われかねないとは思うものの、理解できない話よりは私にとってはありがたいことだ。

 「ところで上人、いろいろとありがたいお話を伺い、心から感謝しています。しかし、かねてよりお伺いしたいとは思っていたものの、なかなか聞き出すことができなかったことがあります」
 「真佛よ、それはなにかな。何も遠慮することはない、何なりと尋ねるがよい」

 ええっ? ん? 真佛?。あの高田専修寺の実質的な開祖と言われている、親鸞の信頼厚く、関東真宗集団のまとめ役でもあった真佛その人なのだろうか。もし、これが本当なら、私はとんでもない重要な場面に立ち会っていることになるのだ。

 「それでは上人。遠慮なくお尋ねいたします。上人と、奥様の恵信尼様との馴れ初めなどをお聞かせいただけないでしょうか」
 「真佛よ、ずいぶん昔の話を、それもあまり人に広く話すべきことではない、私と恵信の二人の問題なのだが。なぜに聞きたいのかと思うのかな」
 「上人。それは、上人はこの国だけではなく、広く唐・天竺にいたる世界で、僧として公に妻を娶られた最初の方でおいでになります。僧でありながら妻を娶られるということは、仏の教えの道にいるものにはご法度、いわゆる女犯という罪になるということであり、宗門から破門されかねない非常に大きな、危険な問題であったはずです。それに、上人のとられた僧の妻帯ということから長い時間が流れた今になっても、いろいろな抵抗があるほどですから、初めてとなると奥様。恵信尼様も上人のお申し出でに抵抗されたのではないかと思います」

 二人の話のやり取りは、まるで「仏説無量寿経」の尊師・釈尊とその弟子阿難のやり取りを目の当たりにしているように思えてくる。
 親鸞は、真佛の問いに、表情を和らげて答えた。



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2008年09月30日

小説『親鸞と真佛』(3)

 件の白塀に沿って少し東に行ったところで、小さな庵らしきものがある。門もさほど立派というものではないが、何らかの宗派の僧侶の庵ではないかと思われる。門の中をのぞくと広くはない前庭があり、その奥に庵がある。秋もまだ深まってはいないこの時期だからか、庵の障子は開け放たれている。
 そこには二人の僧侶だろうか、なんとも薄汚れた袈裟のようなものを身につけた人が真剣に話し込んでいる。一人は八十代、もう一人は四十代と思われるが、私の生きる世界とは年齢の見方が違うかもしれないのだが、そんな感じがする二人だ。
 二人は、文机を挟んで相対し、真剣な顔を向け合っている。とはいえ、雰囲気はかなり和やかなものだ。歳を召している人の顔がなんとなく笑っているようにも見えなくはない。真剣さの中に温かく若い人に向かって人生を語っているようにすら見える。

 歳を召している人の顔にどことなく見覚えがあるように思う。和やかとはいえ、鋭いまなざし、ちょっと険のある顔つき。本願寺などの御影堂にある親鸞の像によく似ている。特に、あの下野(栃木県二宮町)高田の専修寺で拝謁した親鸞像だ。
 ん? ひょっとして、わたしは鎌倉時代の京都にタイムスリップしたということなのか?目の前にいるのが、あの親鸞と・・・
 目の前にいる歳を召した人が親鸞。どうも紛れもなくそんな印象だ。話す声も一度コンピュータが作り出した親鸞の声を聞いたことがあるが、それに近いものがある。
 今、目の前にいる人の一人が親鸞なら、もう一人はいったい誰なのか。私は、大いに興味をそそられた。いったい彼らは真剣に、それでいて楽しそうにいったい何を話しているというのか。

 町の中の人たちがそうであったように、ここの二人も私のことは目に入らないようだ。彼らのもとに近づいても、彼らは一向に私のほうを見る気配はない。まあ、いうなれば私は透明人間状態なのだろう。


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2008年09月29日

小説『親鸞と真佛』(2)

とある日、私は三条通のまだ町家がたくさん残る西洞院から京都の繁華街河原町通に向かって歩いていた。肌を気持ちよい乾いた風がなでていく秋口の午後のことだ。京都の中央のメインストリート烏丸通りを少し過ぎて東洞院通りのあたりからなんとなく周りが薄暗くなってきた。曇ってきたというわけではない。空は青く晴れているというのに、町並みがだんだん灰色になっていくのだ。まるで薄暮の感じだが、それだけでなくだんだん周りの町並みが、その薄暮の中に消えていくのだ。あの三条高倉の文化博物館の赤いレンガの建物も消えていく。
三条通は、現代の京都の通の中で数少ない平安京のときの条通の名残の道で、東から西に立派に通り抜けている。戦争で焼かれなかったという京都は、結構時代的な建物を残しているが、三条通にはそうしたものが残されている。そんな建物が、今の私の目の前から消えていくのだ。といって原っぱになったわけではない、薄暮から霧の町の中にはいったといえばわかってもらえるだろうか。

どのくらいの時間がたったのだろう。霧の中といった状態の私の目の前に、また町並みが少しずつ現れてきた。霧が晴れ周りが見えてくる状況に近い。しかし、現れた風景は、見慣れた三条通の町並みではなく古い時代劇を見ているような町並み、いや現代で言うならばちょっとした寺の外塀といった感じの景色のように思われる。崩れてはいるが白塀だったと思われるちょっと長い塀がだんだん目の前にはっきりとしてきた。
私は、遠くまで歩いたというのではない。濃霧の中に紛れ込んだ状態で東と思われる方向に少し歩いたに過ぎないのだが。いったい私はどこに出たと言うのだろう。確かに京都の三条通を歩いているはずなのだが。今見る景色はこれまでの三条通では見たことがない。三条通で寺といって頭に浮かぶのは、はるか西の太秦の広隆寺くらいなのだが。
景色がはっきりとしてくると、歩いている人の姿も見えてくる。ああ、どうしたことか、まさか映画村のセットの中に紛れ込んだのだろうか。いや、どうもそうではないようだ。セットなら、それなりの雰囲気があろうというものだが、今目に入るものはそんな付け焼刃の景色ではない。どう見ても本物のようだ。
かなり時代がかった人たちが歩いている。人の流れは結構多いとは言うものの、現代よりは少ないかと思う。おおきな違いはせかせかと歩いていないということだ。まるで時の流れが三分の一くらいになったように、スローモーションの映画を見ているようでもある。
いったい私は、自分自身がどんな格好をしているのかと自分の服装を見たが、何にも変わってはいない。ごく当たり前の私の時代の服装だ。町を歩く人たちにはどう見えているのだろうかと思ったが、町を歩く人たちは私にはまったくの無関心、私は彼らには存在していないのだろうか。


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2008年09月28日

小説『親鸞と真佛』(1)



小説 『親鸞と真佛』  
   
ここに示す書物は、村沢の資料・つまりは彼の残したコンピュータの中にある、親鸞に関する論文とは別のフォルダの中に残されていた。読んでみると、どうしても当然のように論文といえるものではなく、小説にするつもりでもあったのだろうか、ちょっとSFじみた書き方の書物である。
 この後の『私』は村沢自身を意味しているのだろうと思う。

『親鸞と真佛』
   なぜ『女犯偈』は書き残されたのか

・京都・三条通り

 私は、いつものように親鸞旧跡を訪ねるために京都の三条通を歩いていた。親鸞は還暦を過ぎてから長く住み慣れた稲田(茨城県笠間市) を離れ京に戻っている。その時どうしたことか、これまた長く連れ添った妻・恵信尼と離別して単身(もっとも末娘の覚信尼がついてきているようだが)でのことだ。
いったい何が彼をそう仕向けたのかは、いろいろ学説はあるものの、どれも多くの人を納得させるに値するものではないと思う。しかし、彼は京に帰った。そして晩年の三十年近い年月、親鸞九十年の人生の約三分の一を京で送ったのだ。
 その生活の場所がどこであったのかは、親鸞が関東集団に書き送った消息で一部を知ることはできるが、どうも一定の場所ではないように思われる。私の印象では京の街中、この三条通の西洞院から河原町の間と思われてならない。越後、下妻、稲田、あたりの生活はとても街中というところではなかっただろう。その反動として年老いた親鸞は、街中を晩年の生活の場としたように思えるのだ。
親鸞の生誕の場所が『善信聖人親鸞伝絵』(伝絵)などから日野(現在の山科区日野)とされているが、私は日野はあくまでも日野氏(藤原氏の傍系)の往年の別荘地でしかなく、実際には父親・日野有範の仕事(当時の皇太后の世話役)からいって生活の場は京都の市街、それもこの三条通ではなかったとさえ思っているのだ。だから、彼が晩年を生誕の場に戻ったとしても、何の不思議はないだろう。

 そんな思いから、私は時々、その親鸞の思いをたどるべく三条通を散策している。



第1回 => 第2回


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2008年09月28日

五木寛之・親鸞と私

 中日新聞(東京新聞)などで九月一日から連載が始まった五木寛之氏の『親鸞』だが、最初から私の親鸞像とはかなり違ったものになっている。
 「忠範」という名が出ているが、これが『親鸞の幼名』として書かれている。しかし、これはどうなのだろう?まぁ、親鸞の身の上、特に幼少を記した古文書がないので、何とでもなるのだが、どこからこの『忠範』が出てきたのかは歴史の史実としては不明なようだ。
 私は、過去にこのブログで『叔父の名前』と書いたのは、完全に私の不確定な記憶のなしたものだが、父が『有範』で、叔父が『範綱』で、その下か上に「ただのり」なんて名前がいたような錯覚、記憶違いである。
 それに私のこれまで読み漁ってきた本には『忠範』を親鸞の幼名としているものがなかった。

 小説『親鸞』がこの先どういった展開になるのかわからないが、現時点では『忠範=親鸞』は京都の鴨川まで遊びに出ている、なんと日野から歩いてきているようだ。
 親鸞は、九歳で比叡山に上がったといわれているが、この小説ではその前ということになる。九歳といえば現在の学校で言えば小学校四年くらいか。日野というところは、京都市の南東のはずれである。醍醐寺の南にある。現在醍醐寺の西から地下鉄に乗って鴨川に行こうとすると三条京阪で下りるのだが、この間地下鉄の所要時間は二十分である。距離は十キロ弱か。それでも時速四キロで歩いて2時間半かかることになる。実は、日野の親鸞誕生の寺は「法界寺」(小説にも名前が登場した)から醍醐の南の地下鉄の駅『石田』まででも私の足で二十分かかるのだ。つまり、法界寺から三条まで片道約3時間かかるということ。しかも、どこをどう通るのか、昔からある奈良街道をということだろうが、どうしても山をひとつ越さねばならない。東山連邦のどこかを越さねばならないのだ。
 親鸞が日野で生活をしていたとしての話したが、いかがなものかな?おつきの人間が小説には登場しているが、貧乏貴族のせがれがそんな贅沢できたのかといわれそうだ。

 五木氏は、どのくらいの期間をかけて親鸞を書き上げるのだろう?直前の歴史小説(題名忘れた。読んでなかったから)は確か一年九ヶ月(ひょっとしたら二年九ヶ月)あったとに思う。親鸞の人生は九十年だから、これをまともに書けばかなり長いものになるだろうなぁ。
 僧侶として妻帯というかなり強硬なことしているが、ここがどのように書かれるのか大いに気になるところだ。いろんな解釈が成り立つ部分でもあるので。

 私は、親鸞研究(といっても素人のできることなんて知れたものだが)で、彼の住んでいたところを訪れ、ゆかりの地をあちこち踏んでみて、そしていろいろの本を読んで自分の親鸞像を作り上げた。それを基に、昨年、ミステリーに仕上げて大賞に応募するという大それた、無謀なことをしたのだが、見事落ちて、書いたものを手の内に収めたままになっている。
 もっとも、ミステリーに仕上げた本文にも一部書いたことは書いたが、肝心なところはページ数の関係ではしょってしまったところがある。親鸞の奥さんの話だ。はしょった部分をもう少しきちんと書いたものも別にあるが、これはまだ誰も読んではない。本当は論文にしようと思っていたものだが、私の論文なんて誰も読みはしないだろうし、それ以前に発表する場所すらない。ということで、自分なりにまとめる意味で、小説みたいに書いてある。
 ということで、埋もれついでに、ブログに連載してみるかと・・・・・

 ただ、連載用に書いたものではないから、読みづらいかなぁ。最も読んでもらえての話だけど。明日か、あさってくらいから、少しずつ乗せていきます。(決断が必要)

  
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2008年07月26日

小説の中の気になること

 7月に入ってからバスと地下鉄の移動になり、バスは揺れるので無理なのだけれど、地下鉄ではほとんど座れるので本を読むことにしている。(人間ウォッチングはその合間に)

 最初の頃は、大学の授業の関係でプログラミングの本を読んでいたが、短時間では記憶するのも難しいし、隣から変な目で見られるので難しい本は辞めた。もう一つ辞めた理由は、参考書は重いんだヨォ。
 そこで軽い本といえば、文庫本ということで、これまで呼んだことのある蔵書の中からランダムに引っ張り出して呼んでいる。

 昔は気にもしなかったことなのだが、小説の中に出てくる土地の人の言葉遣いである。私は『人ごろ』が好き(私が殺すのではない、本の中での話し)なのだが、日本のサスペンスというとなぜか旅情物が多い。そのお蔭で全国あちこちに探偵さんやら刑事さんが出向いて調べるのだが、ここで土地の人との会話が登場する。
 なんか土地の人に無理に土地のなまりをしゃべらせているように最近思うようになった。
 これは、私自身が小説を書こうと取材旅行をしたわけだが、その取材旅行では土地の言葉になかなか出会わないのだ。単語、語彙としては文字にするとほとんどが標準語なのである。というのは、単語を土地の言葉で言ったとすると、他の土地の人には理解できないこともあり、多くの場合が避けてくれるからである。たとえば、京都の人との会話でも、「おおきに」という言葉が返るのは観光地の店屋さんくらいで一般の人はそんなことはないなぁ。ただアクセントは居と独特のものがある。
 新潟県の上越の場合は、ほとんどが違和感のない単語がならぶ。アクセントも標準語に近い。これは、新潟県でも文化圏が違うことに由来するらしいが。
 
 TVではアクセントで何とか伝えることは可能なのだが、俳優がその土地のなまりのアクセントが出来ないと無理。最近のドラマはそれを強く感じる。それが小説となるとアクセントが表現できないからなんともしょうがないから、言葉でということになるのだろうが。。。
 
 それにしても、ちょっと、いやかなり違和感を覚えるものが多いなぁ。

 今四d寝入る小説、関西の刑事さんが『そうでっか』を連発する。関西人でも、そんなにつかわへんでぇ・・・、  
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2015大津・京都の旅
1泊2日のドライブ旅行
2015北海道・道東の旅
1週間870kmのドライブ旅行
大学OB会と
50年ぶりの鎌倉
OB会の後に鎌倉と横浜に行ってきました
15年年頭 広島宿泊の旅
鞆の浦、竹原、宮島に行きました
14年秋 京都宿泊の旅
久しぶりに新幹線に乗りましたが・・・
13年秋 京都ドライブ旅
京都の紅葉の名所・毘沙門堂に行きました
12年秋 室生寺ドライブ旅
すてきな観音様と再会です
室生寺五重塔
12年秋 京都ドライブ旅
1年ぶりの京都です
三千院
10年秋 平泉ドライブ旅
4泊5日 2000キロの一人旅です
平泉・わんこそば
   
10年夏 室生寺 日帰り旅
素晴らしい観音さんに出会いました
室生寺・五重塔
10年初夏 宇治・長岡 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに黄檗山満福寺・六地蔵・法界寺谷寺・長岡天神
布袋さん
09年秋京都 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに 紅葉がきれいな京都
南禅寺の紅葉
08年秋京都 日帰り旅
08年11月25日貧乏・一人・日帰り旅の記録です。
鳳凰堂を望む
観光シーズン 京都の歩き方
京都市・地下鉄 東西線沿線
09年浅草と川越
浅草観音
07年信州の旅
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生田
生田
 トップの写真は、我が家の庭で、鳥達につつかれ実もなくなり枯れ果てた柿の枝です。人生も同じで、仕事仕事で突き回されてここまで来て、落ち着いたら、だんだん枯れていくんだという思いです。  
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