2009年01月18日

五木寛之・親鸞 比叡山

 ここのところ、五木親鸞のことを書こうと思いながら、ついつい書きそびれてしまっている。

 大阪、磯長から帰って山(比叡)にこもって千回何とかいう修行をしている。まぁ、こんなことすれば幻影を見ようなものだが、くそまじめな人間として書かれているので、本当にくそまじめにやっている様子が絵が書かれている。
 親鸞には、3つの有名な夢があって、磯長でその最初のものを見たわけだけど、夢で動かされてきている時代であり、夢が親鸞の人生を左右していることから考えても、今回の修行では幻影を見るなりなんなりしてもいいように思えるけどなぁ。。
 それにしても、慈円の後ろ盾を持ちながら、白河法皇の後ろ盾をもちながら(これは、あくまでも、これまでの筋の中でのこと) どことなく、追い詰められたことしているなぁ。
 多分に、今のくそまじめなところは、この先の筋に影響するのだろうけど、ちと長すぎて、イラつき始めた私です。

 もう二十歳になったか、なる寸前(磯長は19歳のときの参籠)、磯長の帰りの変な女以外、女っ気がぜんぜんなあいなぁ。チョイとつまらんねぇ。少し出てこないかなぁ?赤山明神の女はまだかなり先の年だしなぁ。。  

Posted by 生田 at 22:12Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2008年12月27日

五木寛之・親鸞 道に迷う?

 今週の五木親鸞は、磯長の太子廟から二上山を超えて大和に入ったが・・・

 二上山の竹内峠を越えると左手が当麻寺。ストーリーでも当麻寺に立ち寄っている。それが当麻寺からどこへ行くのかと思ったら、どうも南に向かっている。葛城山、金剛山と出てくる。
 いったい何をしに葛城、金剛へ行ったのだろう?距離に知ると片道20キロ近くあるんではないかなぁ?剣客でも往復一日ではということで、夜祠に泊り込んでいる。
 慈円の力をまったく使っていないのか?使えば、近くの寺に止まるのは容易なことだろうに。泊り込んだところで、怪しい女の誘惑を受ける。何のために誘惑されるストーリー。拒否を貫くためのものと思うが、なんとなく、何を言おうとしているのだろうと、相変わらず思う。

 やはり、葛城、金剛へ行くのなら、それなりの理由がほしかった。

 先日、我が家のだんな寺の住職とも話したのだが、「なぜ河内から太子廟に?」となった。葛城に向かった理由も「?」である。

 単に、道に迷った?昨日、今日のストーリーでは、怪しい女が道案内を買って出た。


**マップのトラバは、当麻寺。南に下ると葛城山、さらに南に金剛山がある  

Posted by 生田 at 10:25Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2008年12月19日

五木寛之・親鸞 夢告

五木・親鸞のストーリーは、予想とおりの無告が出てきた。

 最もちょっと定説とは違うかな?私の知る夢告では、『余命十歳』と有ったから、「十代で死ぬ」とは解釈していなかったが、五木・親鸞では「10代で死ぬと、残り10年』とで迷っている。

 どっちにしても、かなり親鸞の人生に大きな意味を持つ夢告と私は思っているのだが、なんかさらりと流されたような気がしている。

 今日は、二上山・竹内峠を越えて大和高田に入った。ナンやら怪しい女性に出会っているが、これは、先の先の「赤山明神」のとは違うようで、私の市習い話だから、なにかの脚色か、どこかにそれなりの資料でも存在するのか。。。。 知りたいなぁ。。。

 親鸞は、あちこちで女性にかかわりがある? キリストと同じかな? 似ているといわれる二人ですが。
非公開日記  

Posted by 生田 at 09:21Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2008年12月17日

五木寛之・親鸞 二上山

 今日の朝刊の連載では 「河内側から見上げる・・」という記述がある。ということで、私の書いたことが間違いではなかったわけだけれど、しかし、なぜワザワザ河内から?それにどこを通って?
 どうして書いてくれないのだろう?
 
 小説だからしょうがないのかな?
 いろいろ説があるから、そのどれとも一致しない話を書こうとしている?
 磯長には今回の小説のように誰かからの指示があった、もしくは随行してということになっているが、私の知るものは奈良経由だったように思ってるんです。

 それに、小さい祠ですね。しかし、この太子廟のあるところは平地ではないですよ。太子廟は古墳といわれているように山みたいですし、もう二上山を後ろにして上り始めているところなんです。
 今は、廟の前には、叡福寺がありますが、ここでも階段を上がります。なので・・・・・ ちょっと、小説の筋と挿絵から周りを描こうとして、私の頭は拒否をしました。  

Posted by 生田 at 20:14Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2008年12月14日

ん?五木寛之・親鸞 磯長ヘの旅

 親鸞が白川房(京)を出て、磯長(大阪・河内・太子廟)に向かっている。

 その記述の中に
  (あれが二上山か・・・)
  その向こうは大和の国だ。
 と書かれている。
 ん?
 親鸞は、どこから太子廟に?この書き方からすると、大阪・太子町側から二上山を見ていることになる。ということは、親鸞は、京から大阪(難波)に向かって川下りして、四天王寺を経由して南下したのだろうか?
 多くの場合は、京都から奈良街道を南下して奈良に入り、東大寺、法隆寺などを経由して南下、そして大和高田あたりで西に向きを変え、当麻寺経由で竹内峠に入る道を通るのが、太子関連の道かと思ったけど、五木氏は四天王寺を経由させたと取るべきなのだろうか。
 四天王寺も聖徳太子ゆかりではあるけれど、なんとなくしっくりしないなぁ。。。。

 **
 ひょっとして、太子廟の夢告を受けた後に、竹内峠越えをするのかな?そして、法隆寺、奈良と・・・・?
 **

 実は、私は数年前に、大阪・太子町側から竹内峠を越えて、当麻寺、法隆寺経由で奈良に入るコースを車で走っている。結構な距離があったと記憶している。
 さて、親鸞はほんとうにどこをとおったのでしょう?  

Posted by 生田 at 15:29Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2008年11月22日

五木寛之・親鸞 山を下りる?

 五木寛之氏の小説『親鸞』、話が変なほうに向かい始めた。

 もともと変な話で気になることが多いのだが、目下親鸞は19歳となっている。後白河法皇の肝いりで山に上がったのが9歳。この後白河法皇の声掛かりすら疑問に思っているのに、今日は自演に呼び出されて、法皇が『山を降りて、法然のもとに行け。そして何を説いているかを知れ』といっていると。これを慈円の『頼みごと』として書いている。
 当時、慈円の兄・九条兼実は法然に帰依していたといわれている。

 19歳のときに親鸞は、大阪・太子町の磯長の聖徳太子廟に出かけて、三夢記の一つの無告を受けている年である。なぜ、その年に、法然のもとに行くことになるのか? 疑問、疑問。。。。
 (磯長で受ける無告は、『あと10年で命尽きる』である。)
 通説では、親鸞が法然のもとに行くのは、29歳である。三夢記のすべてを見た後といわれている。

 しかし、法皇から『法然の説くものを知れ』といわれたのでは、これは当時の仏教界の異端である法然の門下でスパイをすることになるといってもいいのでかな? いったい、五木さんは何を考えているのか?
 もっとも、スパイをさせられている途中で、法然を本当の師と仰ぐことになってしまったということになるのだろうか。19歳という年齢で法然と出会うと、分かれたのが34歳であるから十五年師事したことになる。しかし、しかし、これは師事したのが5年といわれることからするとおかしなことになるのだが。

 小説なので、なんとも作ればいいのだが、親鸞はそんなに長く法然の側にいたのだろうか??
  

Posted by 生田 at 16:46Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2008年11月15日

五木寛之・親鸞 比叡に上がる

 五木寛之氏の『親鸞』が今日から新しいところに入った。

 なんと、もう19歳になってしまったのだ。
 しかし、親鸞が比叡に上がったのが『12歳』とある。通説では『9歳入山』なのだが。なぜ、無視したのだろう、なにか根拠でもあるのだろうか?

 それに、12歳入山としても、この間をすっ飛ばしてしまった。なぜ?なぜ?
 19歳の親鸞は確かに大きな転機を迎えるといわれている年齢なのだが、そこにいたる比叡での人間形成の過程が必要な気がするけどなぁ。。。

 多分、この先には、奈良に行って、大阪に行って なんて話が出てくるの???  

Posted by 生田 at 12:32Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2008年11月13日

五木寛之・親鸞 歌を詠む

 五木寛之氏の親鸞、とうとう比叡に上がることになって、『範宴』と名乗るように慈円から名前を授かった。
 しかしなぁ。幼名が「忠範」はいくらなんでも8歳の子供には似合わないなぁ。吉川英治・親鸞では「十八公麿(まつまろ)」ではなかったかな?どっちにしても、公式な記録はないと聞く。
 いずれの小説かも、何が元になったのやら・・・・

 利発な子としての紹介は理解できるのだが、歌はどうなのだろう。確かに日野範綱の甥として歌に機体をされてはいるようだが、大人の世界の精神的なものを、情緒的なものを8歳で読むことができるのか?
 天才といわれる学者が、10歳に満たないで大学に行く海外での話を持ってすれば、信じなければならないのか?

 ただ、今日のストーリーの中にあった、発声の部分については、子空区この先のストーリーの大きな布石なのかもしれない。親鸞は、後世『和算』をたくさん書いているが、そこには多くが七五調の歌いようのものといわれている。ということは、音楽的な面での素養を子供のころから持っていたとしても認めれられる話ではある。
 
 『念仏』というのは、天台宗の中で大きな声で唱和するものの中の一つ。そこにはリズムを持って昭和尾する。これは、キリスト教の賛美歌なども同じ発想ではないかと私は思っている。イスラムのモスクでのリズムある歌のようなものも同じではないだろうか?

 五木寛之・親鸞は、この先30歳過ぎまで公文書に残らない親鸞をどのように描くのかじっくりと読ませてもらうことにしているが。。。
 とにかく、吉川英治・親鸞とはかなり趣の違う親鸞像であることは確か。、  

Posted by 生田 at 00:00Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2008年11月10日

五木寛之・親鸞 母の名は?

 中日新聞(関東では東京新聞)連載の五木寛之氏の『親鸞』。

 親鸞が比叡山に上がることになったところに話が来ている。
 なんとナンと 後白河法皇の肝いりで叡山に上がることができるようになるとは・・・ どうしてなんでしょうねぇ。古文書、公文書がないですからねぇ。ナンとでもかけるんですが。

 ちょっと、取り巻きの設定が、私には気に入らないし、いかがなものかと思うし。。。
 ご先祖さんに放埓な人がいたのは古文書があるらしい。だからそれが書かれているのそれでいいよね。叔母さんの名前が出てくるが、母親の名前が出てこない。源氏の出の『吉光女』といわれているが、それが出てこない。ん?????

 これまでのストーリーからすると、五木氏は「悪人往生」を主題としていく可能性が大きいな。私は、この『悪人往生』よりも『女人救済』の立場をとるので、かなり離れた親鸞像になりそうだ。とはいえ、あくまでもこの先を予想しての話です。

 **悪人往生は、歎異抄に親鸞の言葉として書かれていることですが、親鸞の著書には出てこないので、本当かという疑問を私は持っています。ニュアンスとしては理解してはいるのですが。  

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2008年10月22日

小説 『親鸞と真佛』 あとがき

 前日まで23回にわたって書いてきた小説『親鸞と真佛』は、一昨年の今頃書いていたミステリ小説に本来は織り込むはずだった『小説内小説』で、応募の際の紙面の関係でカットせざるを得なかった部分です。

 この項は、佐々木正氏の「親鸞始記」に掲載されている『親鸞上人正明伝』の筋をもとにし、さらには『玉日姫廟所・西岸寺縁起』などをもとに創作したものです。
 私の描いている親鸞像は、親鸞の追っかけをして、京都市山科区日野・法界寺、京都市伏見区藤森・西岸寺、上越(直江津海岸)、上越市高田・浄興寺、上越市板倉・えしんの里、茨城県笠間市稲田西念寺、茨城県下妻市小島草庵、栃木県二宮町高田専修寺その他多くの親鸞関連の土地をあるき、目にしたもの、耳にしたものから、自分自身のあたまの中で作り上げたものです。
 
 中日新聞に哲学者・梅原猛さんの連載に一時『親鸞上人正明伝』に注目されている話がありましたが、私はその数年前に『親鸞上人正明伝』を知り、これまで聞いてきた親鸞という人と実際の人とは違ったのではないかと、より強く思うようになったのです。
 そして、今回連載した話は、ある日の夢の中で今回のストーリーとなるものを見たのです。そのとき、夜中に起き上がって、ほとんど一気に書き上げたものでもあるのです。

 私自身が、この世に生きてきた、そしてこんなことを考えていたという証を残すために、下手な文章の恥をさらすことを覚悟で公表しました。

 私の中にある親鸞の説いたものは、今現在の真宗教団のといているものとはかけ離れています。親鸞は、檀家から金を巻き上げるようなことをといてはいませんし、彼の子孫の世襲も望んでいないと思います。大きな寺などもってほかでしょう。
 数年後に『親鸞聖人750回忌大遠忌』が催されます。墓の下で、親鸞はどんな顔をしていることでしょうか・・・・・・






  

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2008年10月21日

小説『親鸞と真佛』(24・最終回)

霧 2


話を『女犯偈』に戻そう。
『女犯偈』は、理解できない人間が読んだ場合は、非常に危険な書き物である。特に親鸞、恵信尼の生きた時代でのこの書き物は、仏門にある人間にとっては命取りになる書き物である。その危険を冒してまでなぜ親鸞は書き残したのか。いや、それ以上に書き残す必要があったのかなのだ。
私のこの夢のような出来事での親鸞と真佛の会話でそれは氷解した。『女犯偈』が親鸞が恵信尼に書き送った文、つまりは恵信尼に妻となってほしいという求婚の、下世話な言葉で言えば口説き文句、つまりは恋文だったことになる。
真佛がなぜ『女犯偈』を書き写していたのかもこの会話の状態で理解ができる。何も親鸞の書物を書き写したのではなく、親鸞との話を記録としてしたためたのだ、だから手本の必要性はないのだ。
この二つのことが、私が経験したこと、たとえそれが夢であっても、過去において真実であったとしたら、今世で言われている論争が無意味になるものも多い。

私は、タイムスリップして見てきたことが、真実であってほしいと思う。親鸞の恵信尼に対する気持ちが一人の正直な男として、真剣に恵信尼と末永く添い遂げる気持ちが現れているからである。
これは、恵信尼が娘・覚信尼にあてた、親鸞入滅の知らせの返信に書かれた、熱い恵信尼の親鸞に対する気持ちの裏返しでもあるように思うのだ。
二人は、年老いても、遠く離れ離れになっても、お互いに熱い気持ちを持ち続けていたのだろう。親鸞から送られた女犯偈が書かれた手紙を恵信尼は死を迎えるまで持っていたのだろう。いや、持っていたかったのではないか。だからこそ娘・覚信尼に書き送った文に親鸞の真筆の女犯偈を添えることができなかったのだろう。恵信尼の親鸞に対する熱い思いがそうさせたのではないか。永年共に生き、何かの事情で別れて暮らさねばならなくなったとはいえ、心までもが離ればなれになることはなかったのだろう。

私は、興奮気味の気持ちを持ったまま喫茶店を出た。ここは三条通りなのだ。もうすっかり暗くなっているとはいえ、三条通りには間違いない。
秋口とはいえ、ほほをすぎる風は、もう冷たくなってきていた。



親鸞入滅の地といわれるところの一つ
京都御池中学校東、柳馬場通




ここまでが村沢の書き残した書き物だ。本当の結末をどう処理しようとしたのか、小説にしようとしたのか、いずれにしても完結しているようには見えないのだ。
しかし、話の筋としては、登場人物の少ない演劇か、テレビドラマにでもできる。村沢は、いったい何を狙っていたのだろう。




第23回 <= 第24(最終回)回 =>






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 ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
 また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
 そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
 
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タグ :親鸞小説

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2008年10月20日

iPodで小説を書く

 週3回の実家と自宅の移動。もういい加減に人間ウォッチングには飽きてきた。いくら毎度違った光景を見るとはいえ、人を観察すること自体に少々抵抗感が出てきたということもあって。

 小説を読んだりしていたのだけれど、最近本を買うということもなく、古い本も飽きたし、さりとて新しい本も何やら読む気がしなくなりつつあって。
 じゃぁどうするかとなって、なんか書こうかということで各道具を探していて、iPodに出会ったわけ。専修金曜日に入手して、まだまだ使い切るなんてとてもとても、メモを取るのが精一杯。何とか打てるようにはなったものの、SonyのClieのようにスクリーンタッチ用のスティックがついていない。用は指でやれということなのだが、下面のキーが小さくて、(指がでかいのだ)ミスタッチばかり。
 そこで、スティックを買ってきたが、何やら使いにくい。去れないせいかなぁ?

 それでも、電車の中で文章を打つことができるようになった。
 何を書こうか・・・・・ 書きかけのものを続けるか。。。。
  昨年の張るくらいに書き始めた、お笑いサスペンスがまだまだ序の口なんで。書き上げたら、また連載しよう。。 読んでもらえるように努力もして。  
タグ :小説iPod

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2008年10月20日

小説『親鸞と真佛』(23)



 親鸞と真佛の話はまだ続いているのだが、私の目の前の二人が霧の中に消えていく。この庵に入る少し前の霧のときと同じようにすべてのものが消えていくのだ。私はまだ核心を聞いていはいない。親鸞と恵信尼がどのような生活を送っていたのかを聞いてはいないのだ。それになぜ親鸞が関東から帰洛した後は、恵信尼と別れて生きなければいけなかったことも聞いていないのだ。しかし、そんな私の思いをよそに、二人が目の前から消えていく。
 どのくらい時間がたったのだろうか、霧が晴れていく。私の目の前にまた景色が戻ってくる。少しずつではあるが、目の前に。
 最初私は、三条通りを歩いていた。その途中で霧の中に迷い込んだようになり、霧が晴れた時は鎌倉時代の洛中での親鸞と真佛の話しているところに行き着いた。そして今また現代の世に戻ってきた。現代に戻った私は、歩いてきたはずの三条通りではなく、喫茶店のようなところに私は座っているではないか。私の隣のテーブルには、若いカップルが楽しそうに話をしている。

 私は、この喫茶店で長い夢でも見ていたのだろうか。たとえそれが夢であったとしても、それはそれでいい。これまで長く解けなかった疑問が一気に解決したのだ。
そんなには多くはないが、親鸞に関する論文を読んでいて疑問に思うことのひとつが、『なぜ女犯偈が書き残されたのか』ということに言及している論文に出会っていないことだ。人は何かを書き記すには、それなりの信条があるはずなのである。私は、『女犯偈』というものに出会ってより、なぜ親鸞は書き残したのだろうかと疑問に思っていたのだ。そして高田専修寺の真佛がそれを書写しているという論文にもであったが、真佛は親鸞のどの書き物から書き写したのかも疑問であったのだ。
この二つの疑問に答える論文には、ついぞ出会うことはなかった。単に、親鸞の真筆だ、偽作だ、といったことばかりが論争となる論説ばかりではないか。なぜ親鸞が書き残さねばならなかったのか、何故書いたのかを誰も論じていいない。
 もっとも、資料のほとんど残っていない親鸞の心情などを論ずることは無理なのかもしれない。しかし、資料のない割には、いろいろ想像の上での論争が絶えない。想像で論争をするのなら、想像で親鸞の書き残した必然性を論じる説があってもいいと思うのだが。

 私は、いろんな書物を読み、親鸞ゆかりの地を歩いて私なりに思うことがある。私が親鸞の立場ならどうしているだろうと考えて、京都を歩き、上越を歩き、下野高田から下妻あたりを歩いた。そして、その歩いた記憶を下にいろいろな論説を読み直してみて思うことは、論説に書かれていることとは違う親鸞の動きだ。








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 ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
 また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
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2008年10月19日

小説『親鸞と真佛』(22)

 
 親鸞の結婚 6

 都から越後へ行くには、小浜あたりから船で行くのでなければ、どこかの峠を越えねばならない。雪解けを待ったとしても、妙高の麓あたりは、現在の五月であっても峠付近には雪が残っている。トンネルのない昔は、高い峠を越さねばならないが、高い所は夏でも日陰には雪が残るほどである。特に雪がたくさん降った翌春は、その残雪も多かったことだろう。

 こんな辛い話を親鸞は、遠い思い出を懐かしむかのように真佛に向かって淡々と離していた。真佛もその話を遮ることなく黙って聞いていた。

 どのくらいの時間が経ったのだろう。秋の日が空を赤く染め始めている。そして、庵の中もだんだん薄暗くなってきている。
 そこで、真佛が話を締めくくるかのように口を開いた。

「上人。大変辛いお話でございます。しかし、越後に戻られてからの上人のご活躍は、聞き及んでおりますし、下野、武蔵にお移りになれてよりのご布教のお姿は私も目の当たりにさせていただきました。しかし、その上人のご活躍も恵信尼様の支えがあったからということでございましょうか」
「真佛よ。まこと;真その通りだな。恵信と生まれてきた子供たちからの心の支えなくては、あのように広く多くの方とお会いすることもなく、釈尊の教え、空師の教えを多くの方に語ることなどできはしなかったであろう。これも、すべて、弥陀のお心のなす業であろうな」
「上人。それにしましても、今日おうかがいしたお話の中に流れているものは、恵信尼様のお心の支えと同時に、その元になっているのが、三つの夢告ではございませんでしょうか」
「真佛よ。それはその通りだ。釈尊の解かれた道、仏の前でのすべての人の等しい姿、男も女も同じという思い、とくに女人の受けている差別を何としてでも解かねばならぬという強い決意は、真佛の申すように、あの三つの夢の御蔭であるな。特に、恵信を説得するためのもののようになった六角堂での観音菩薩の示現『女犯偈』が私と恵信の間の支えであり、それが私の布教の支えでもあったのだ。すべて、仏のお導き、弥陀の御計らいの家族の心の支えというものがあればこそ、現世で生きる楽しみというものであろう。これが現世でのまこと;真の往生というものであろうな。
短いとはいえ五年という恩師・空師法然上人のお導きについて、これまでの私の生き様には何の後悔もない。既にこの世での往生をいただいているという気持ちが、このようにさわやかな気持ちで生きておれるのだが。空師のもとに参ることになった三つの夢告はやはりすべて弥陀の計らい。ありがたいことじゃ。南無阿弥陀仏」




第21回 <= 第22回 => 第23回






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2008年10月18日

小説『親鸞と真佛』(21)

 
 親鸞の結婚 5

 私が親鸞の立場の思いをしているときにも、親鸞の話は続いている。

「真佛よ。そんなときに、三善様が恵信と私をあわせる計らいをされ。おそらくは、私の気持ちを慰めようとされたのであろう。これも弥陀のはからい。弥陀の計らいは奥が深いものじゃの」
「上人。左様でございますね。本当に奥が深いものが」
「真佛よ。それからしばらくして、三善様から恵信と夫婦になるようお勧めがあり、二人は晴れて添い遂げることができたのじゃ」
「上人。お二人の絆の強さがそうさせたものでございましょう。恵信尼様も喜ばれたことでございましょう」
「真佛よ。恵信も、そう申しておった。都で渡したあの『女犯偈』の文も持っておったぞ。あの文は何があっても誰にも渡すことはできぬと申してな。その先の私と恵信のことは、存じておろう」
「上人。すべてではございませんが。存じております。上人の流罪放免は、それからまだ数年先のことでございますね」
「真佛よ。さよう。玉日の浄土への旅立ちが、私の流人としての年月の中頃になるな。放免されるのが待ち遠しかったものだ。流されてから五年で放免になったものだが、同じときに恩師法然上人も許されたとのことを聞き及んで、すぐに都に行きお会いしたく思ったものだ。もちろんのこと、玉日の墓にも詣でたかったし、息子・範意の大きくなった姿にも接したかったしな。しかし、しばらく越後を離れることができず、時がずれたおかげで、私が都に着いたのは、恩師が浄土に旅立たれたときになってしまった。葬儀に参列したかったものの、宗門からは恩師の旅立ちを早めた因を持つ悪人として参列は許されなかった。悲しいことは続くものよな」
「上人。恩師の葬儀への参列も許されないとは、本当に辛うございますね」


 親鸞は、越後から都に上ったときのことを真佛に語っているが、その話によると、赦免の報を受け取ったのは十一月(新暦では十二月)で、その年は雪が深く都への旅立ちが遅れた。雪の峠越えのために途中も日数を要した。都に着いたのは翌年の一月で法然上人が入滅した後だった。なんとか葬儀に参列したいと願い出たものの、拒否された、その後の法要にも参列を願うために、山科にあった九条家の所領にある庵を借り受けしばらくそこで世話になった。)この庵が後に真佛が後を引き継いだ興正寺のようである。作者・註)
 幾度かの法要への参列願いと、その冬の雪の多さのために、親鸞の都での逗留は数ヶ月になったということだ。



 この間に、当然玉日姫の墓に参り、愛息・範意ともしばらく過ごしたとのことである。玉日姫の墓は、九条家ゆかりの東福寺の一角に設けられていた法性寺小御堂におかれていた。
しかし、恩師法然の盛大な法要で執り行われたものは、法然の願い、説いてきたものとは違うものであり、幾分かは自力聖道門の流れをも含んでいたようだ。親鸞は、そうした法要のあり方への疑問と法要への参列拒否に嫌気がさし、数ヶ月後に越後に戻ったということだ。






第20回 <= 第21回 => 第22回






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2015大津・京都の旅
1泊2日のドライブ旅行
2015北海道・道東の旅
1週間870kmのドライブ旅行
大学OB会と
50年ぶりの鎌倉
OB会の後に鎌倉と横浜に行ってきました
15年年頭 広島宿泊の旅
鞆の浦、竹原、宮島に行きました
14年秋 京都宿泊の旅
久しぶりに新幹線に乗りましたが・・・
13年秋 京都ドライブ旅
京都の紅葉の名所・毘沙門堂に行きました
12年秋 室生寺ドライブ旅
すてきな観音様と再会です
室生寺五重塔
12年秋 京都ドライブ旅
1年ぶりの京都です
三千院
10年秋 平泉ドライブ旅
4泊5日 2000キロの一人旅です
平泉・わんこそば
   
10年夏 室生寺 日帰り旅
素晴らしい観音さんに出会いました
室生寺・五重塔
10年初夏 宇治・長岡 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに黄檗山満福寺・六地蔵・法界寺谷寺・長岡天神
布袋さん
09年秋京都 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに 紅葉がきれいな京都
南禅寺の紅葉
08年秋京都 日帰り旅
08年11月25日貧乏・一人・日帰り旅の記録です。
鳳凰堂を望む
観光シーズン 京都の歩き方
京都市・地下鉄 東西線沿線
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生田
生田
 トップの写真は、我が家の庭で、鳥達につつかれ実もなくなり枯れ果てた柿の枝です。人生も同じで、仕事仕事で突き回されてここまで来て、落ち着いたら、だんだん枯れていくんだという思いです。  
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