2016年08月16日
京都 2016年夏 西本願寺
西本願寺の境内に御影堂門から入った。ということは入った目の前に御影堂があるということのようだ。西本願寺に来るのは実は2回目。20年くらい前のお彼岸の前日に雨の中をやってきて以来だ。実際には来る必要性はないのだが、なにせ我が家系は浄土真宗の3派が絡んでいて、東だけでは完全でないのでここにもということで。
我が家は東本願寺の檀家、家内の実家は佛光寺派、家内の母親の実家が西本願寺ということで、西本願寺にも一度は行きたいと言っているから、今回案内することになった。昨日佛光寺にはいってきているので。
久々に境内に入って、ん????お東さん(東本願寺)に比べると規模が小さいではないか。浄土真宗の派の中で一番最初にできた宗派で、それなりの規模の集団があるから規模もデカイと思っていたのだが、記憶から消えていたとはいえ、この規模の小ささにはちょっと驚いた。
京都の西本願寺は、豊臣秀吉の寄進、あの聚楽邸の意向も移築され今は国宝として残っているからそれなりの規模があってもイカしくないのだが、一方東本願寺は徳川家康が秀吉に対抗して寄進し、西本願寺に対抗させるために起こしたと言ってもいい週は、だから秀吉よりも大きくなければいけなかったのかもしれないな。
どっちにしてもなぁ。。。
もともと親鸞は、弟子も持たない、寺も持たないと言ってきていたにもかかわらず、こどやら孫たちが親鸞の墓を寺にしてしまって、真宗集団で大揉めに揉めて、それが幾つかの宗派に分かれることになったのだが、寺をもアタないと言っていた週初の意を無視してこんなでっかい、寺をつくほどになってしまって、親鸞の墓とはいえその墓の中で親鸞は何を思っているだろうか?
御影堂に上がった。そういえば彼岸し本願寺と配置が違う。お東さんは御影堂が阿弥陀堂の北側にあって大きかったが、お西さんは阿弥陀堂の南側にあって規模もちょっとね。。。。
浄土真宗には10派の本山があるが、今回の京都宿泊旅行でそのうちの3つの本山を回ったことになる。(過去にはこのほかにこの3はを含めて7本山に参拝している)。これまで訪れたところで御影堂のあるところには「見真」と書かれた額が掲げられている。これまでなんとも思っていなかったが、この日の西本願寺の御影堂に来て、何故か知りたくなった。ということで、御影堂にいたお坊さんに聞いてみることにした。
「見真」の額はどなたの筆ですか?」と。帰ってきた言葉は「さて???」という寂しい返事だった。東本願寺でも確か佛光寺でもあったけど、みんな同じ書体なんだよなぁ。。なんで同じ書体の額があるんだ?絶対に何か謂れがあるはず。
帰ってきて調べました。「見真」は明治時代になって、明治天皇が真宗教団に対して下賜した親鸞の大師号で、その額の書体は明治天皇の直筆から作られているとのことだ。本当かどうかは知らないが・・・・
しかし、こんな大きな話を西本願寺の僧(本当のそういっていいのか?)がしらないのかなぁ???そういえば、昔お西さんの末寺の住職と某他の本山で偶然出会った時、何かの話をしていて『えっ!そんなこと知らないの?』と唖然としたことがあるし、某末寺の住職も結構知らないこと多かったなぁ。。。。金儲けで忙しい??(失礼・・)
このあと阿弥陀堂にも行きました。残念ながらカメラのバッテリー切れで写真がない。携帯ではまともに撮れていないのでご容赦を。阿弥陀堂は、階段部分の改修中でした。なんでだろ?親鸞聖人750大遠忌の際の改修工事でやらんかったんか?この工事のお陰で阿弥陀堂からまっすぐ出てこようと思っていたのができなかったぞ。ちと遠回りして。
さいごに、お茶どころでお茶をいただいて、そして暑さをしのいでお休みして、キンキラキンの阿弥陀堂門から外に出ました。
これで今回あの京都旅行の行くべきところ全てが終わりました。京都駅に戻って、お土産買って、新幹線で帰ってきましたヨォ。。。。
我が家は東本願寺の檀家、家内の実家は佛光寺派、家内の母親の実家が西本願寺ということで、西本願寺にも一度は行きたいと言っているから、今回案内することになった。昨日佛光寺にはいってきているので。
久々に境内に入って、ん????お東さん(東本願寺)に比べると規模が小さいではないか。浄土真宗の派の中で一番最初にできた宗派で、それなりの規模の集団があるから規模もデカイと思っていたのだが、記憶から消えていたとはいえ、この規模の小ささにはちょっと驚いた。
京都の西本願寺は、豊臣秀吉の寄進、あの聚楽邸の意向も移築され今は国宝として残っているからそれなりの規模があってもイカしくないのだが、一方東本願寺は徳川家康が秀吉に対抗して寄進し、西本願寺に対抗させるために起こしたと言ってもいい週は、だから秀吉よりも大きくなければいけなかったのかもしれないな。
どっちにしてもなぁ。。。
もともと親鸞は、弟子も持たない、寺も持たないと言ってきていたにもかかわらず、こどやら孫たちが親鸞の墓を寺にしてしまって、真宗集団で大揉めに揉めて、それが幾つかの宗派に分かれることになったのだが、寺をもアタないと言っていた週初の意を無視してこんなでっかい、寺をつくほどになってしまって、親鸞の墓とはいえその墓の中で親鸞は何を思っているだろうか?
御影堂に上がった。そういえば彼岸し本願寺と配置が違う。お東さんは御影堂が阿弥陀堂の北側にあって大きかったが、お西さんは阿弥陀堂の南側にあって規模もちょっとね。。。。
浄土真宗には10派の本山があるが、今回の京都宿泊旅行でそのうちの3つの本山を回ったことになる。(過去にはこのほかにこの3はを含めて7本山に参拝している)。これまで訪れたところで御影堂のあるところには「見真」と書かれた額が掲げられている。これまでなんとも思っていなかったが、この日の西本願寺の御影堂に来て、何故か知りたくなった。ということで、御影堂にいたお坊さんに聞いてみることにした。
「見真」の額はどなたの筆ですか?」と。帰ってきた言葉は「さて???」という寂しい返事だった。東本願寺でも確か佛光寺でもあったけど、みんな同じ書体なんだよなぁ。。なんで同じ書体の額があるんだ?絶対に何か謂れがあるはず。
帰ってきて調べました。「見真」は明治時代になって、明治天皇が真宗教団に対して下賜した親鸞の大師号で、その額の書体は明治天皇の直筆から作られているとのことだ。本当かどうかは知らないが・・・・
しかし、こんな大きな話を西本願寺の僧(本当のそういっていいのか?)がしらないのかなぁ???そういえば、昔お西さんの末寺の住職と某他の本山で偶然出会った時、何かの話をしていて『えっ!そんなこと知らないの?』と唖然としたことがあるし、某末寺の住職も結構知らないこと多かったなぁ。。。。金儲けで忙しい??(失礼・・)
このあと阿弥陀堂にも行きました。残念ながらカメラのバッテリー切れで写真がない。携帯ではまともに撮れていないのでご容赦を。阿弥陀堂は、階段部分の改修中でした。なんでだろ?親鸞聖人750大遠忌の際の改修工事でやらんかったんか?この工事のお陰で阿弥陀堂からまっすぐ出てこようと思っていたのができなかったぞ。ちと遠回りして。
さいごに、お茶どころでお茶をいただいて、そして暑さをしのいでお休みして、キンキラキンの阿弥陀堂門から外に出ました。
これで今回あの京都旅行の行くべきところ全てが終わりました。京都駅に戻って、お土産買って、新幹線で帰ってきましたヨォ。。。。