2016年12月17日

人はなぜ仏像に手を合わせる?

 私は昔から寺を訪れる機会が多い。子供の頃はたいして寺に行くこともなかったが、中学校に入ってから遠足などで寺巡りをすることが多くなった。そしてそれは高校までの6年間続いた。さらに、大学に入って、仏像を古美術としての観点から寺に行く機会が結構あった。
 仏像を見る機会は、何もて寺に行くだけではなく仏像を一堂に集めた展覧会に行く機会も多かった。確かに中学高校は宗門の学校だったこともあるが、多分にそれだけではない何かが心の中に流れていたのかもしれない。

 高校の時だったか、何かの展覧会で仏像がたくさん並んでいた。その展覧会を学校の行事で見に行ったのだが、恩師がある仏像の前でなにかブツブツ行っておられた。そのぶつぶつはその仏像の前だけではなく、並んでいる仏像一つ一つに向かって発せられていた。多分何かの呪文、いや念仏なのだろうが、とにかくブツブツ発せられていたのだ。それを私は不思議に思うことなく、さすが僧侶だと思ったものだが。
 この恩師は、かなり先に学園長になられた方で、岡崎の某有名な寺の管主にもなられて肩でもある、つまりは僧侶なのだ。とにかく学校の先生の多くがお寺の住職、住職でなくても僧侶であった。そして週に最低1時間は何らかの法話を聞くことになっていた。それがいろんな形で私の心に根付いてしまったのだろうし、そのおかげで寺ああ、仏像には岩違和感がなかったと言える。それが元になったのか、教会などにも違和感はなかったなぁ。。。。

 さて、本題、人はなぜ仏像に手を合わせるのか?
 多くの方は、例えば浄土宗や浄土真宗の信者の方は阿弥陀仏の前で「南無阿弥陀仏」と唱え(念仏)ながら手を合わせる(合掌)だろう。これは、その目の前にある阿弥陀如来像に手を合わせているのではなく、信仰の対象としての阿弥陀如来をかだ取ったものに対して、代替えの合掌であり念仏の筈である。しかし、一部には、その仏像そのものに念仏をし合掌している人がいる。これは、本来違っていると思う。それでは偶像崇拝になってしまいからだ。

 私の場合は、仏像の前で手を合わせる。しかし、念仏を唱えることはまずない。なぜ手を合わせるかといえば、それは私の目から仏師の心が入って来たと思った時に手を合わせる、もしくは信仰の対象ではなく素晴らしい造形物として感じとった時に、作者の仏師の心に対して「素晴らしいものをありがとうございます」という意味合いで手を合わせている。
 ただ最近、そうだなぁ、親鸞研究で阿弥陀如来について色々知ることになって、「阿弥陀経」に書かれた考えに惚れ込んでしまったのか、法界寺の阿弥陀如来の前などでは、ついぞ「南無阿弥陀仏」なんて心の中で言ってしまうことが出て来た。仏の存在を信じ、仏の救済を信じているのではないし、仏に助けを求めているわけでもないのだが、なぜかそう言ってしまう様になった。
 これは、法界寺の阿弥陀如来に出会ってからのことなのはよくわかっている。最初の出会いの時に、あの丈六の大きな阿弥陀如来像の顔を見上げた時に、「来てよかったぁ」と思ったことが引き金になったことは確かだなぁ。
 
 何につけ、その人にとって、なにかほっとする様なもの、何か心が軽くなったと思う様なものに出会うと、自然とそう言ったことになるのかもしれない。

 このひと月半の間に、「仏教とはなにか」という講座を聞いたりしたこともあって、こんな思いをつらつらと書き綴りました。お読みなられた方が、何かほっとするものに、それが仏像であっる必要はありません、とにかくほっとするものに出会われることを祈っております。

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