2023年05月13日
仏像を考える その3 観音菩薩 前書き
菩薩という仏さんの位については、「その2 如来と菩薩」に書いた様に、悟りをひらいて如来になる前の修行の身であることを書きました。法蔵菩薩が48の願を成就し悟りを開いて阿弥陀如来になった。その阿弥陀如来が仏像として登場すると、阿弥陀三尊と言われる様に、阿弥陀如来の脇侍として、勢至菩薩と観音菩薩が並んでいます。
ここに登場する観音菩薩は、菩薩の中でも仏像としてはかなり名前がうれた菩薩では無いかと思ってます。
その前に私が知る”菩薩”さんの名前を列記してみよう、頭の中にある記憶を総ざらえしようとしてます。これから出てくる名前にはみんな”菩薩”をつけて読んでください。
阿弥陀如来脇侍の観音、勢至、薬師如来脇侍の日光、月光、そして子供相手で有名な地蔵、弥勒如来の前身の弥勒、知恵の文殊、釈迦如来脇侍の普賢、密教で有名な虚空蔵、高僧として有名な人物を菩薩とした行基、世親(なぜか兄弟の無着は”菩薩”と言われていない様です)、親鸞の正信偈に登場する龍樹、天親などなどと、そんなにたくさん知っているわけでは無いなぁって思います。
まだまだ、菩薩と称される人もいたはずだけど、今の私の頭に浮かんでこない。頭から消えたのかなぁ?
さて、今回のお題は「観音菩薩」です。「かんのんさん」って馴々しく言われている仏様で、観音信仰と言って、観音菩薩に帰依する人も多いかった、また多いと聞いています。中国や韓国の歴史ドラマを見ていても「南無観世音菩薩」という言葉がよく出てきます。
ここで「観世音菩薩」という名が出てきたのですが、「観音菩薩」は別名というか教典の解釈によって、「観自在菩薩」やら「救世菩薩」なんておいう名前もあるんだとか、これを書くために色々ネットで調べていたら出てきました。
と言っても「観音菩薩」という名が私の頭の中では主流です。その「観音菩薩」ですが、その名前の前に別の名前がついた「観音菩薩」はたくさんあります。有名ななところでは六観音としての聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音、これに不空羂索観音を入れて七観音と言われている様で、これらの名前の仏像は本当にたくさん作られています。
このほかに十五観音、三十三観音などとして多くの観音菩薩があると書かれてましたが、私は巡礼、霊場巡りをしたことがないので、そう言った観音さんに出会うことはほとんどなかったと思います。
「観音菩薩」という菩薩は、仏の化身としていろんな姿に形を変えて、衆生を救済するために現れると聞いています。衆生、救いを求める人を救済するためにその状態に合わせた姿で現れると聞いています。
観音菩薩は「観音経」(「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」) にその姿が書かれているのですが、漢文の教典読んで理解できる私ではありません。教典の名前から「法華経」の一部なんだと解釈しましたが・・
浄土教、特に浄土真宗と浄土宗の中で育った私には、法華経は頭にないことでした。しかし、今これを書くに当たって色々調べていたら、観音経は知っておくべき話だなぁって思ったものです。親鸞の教えでは浄土三部経すら必要ないと、親鸞は捨てている感じですが、「これは難しい話は知らなくていい、ただただ阿弥陀を信じ、南無阿弥陀仏と唱えなさい」ということからなのでしょう。
しかし、仏像を彫ってきて思うことは、何故仏像がその形、姿をしているのかという、出典は理解しておくべきだったかと、反省しきりです。形の面白さだけを追ってきた私ですが、やはり心というものを感じて込めるならば、根本の教えを知って彫るほうがいい形が惚れたのかもしれないと思うのです。でも、もう遅きに失してますね。
これを書きつつ、観音経の和訳(わかりやすくしたもの)を読んでるのですが、それを読んでこれまで知っていた親鸞の女犯偈に至る話の三梦記に書かれていることがやっと理解できたって内心喜んでます。この気づきは25年前に欲しかった。親鸞研究をしている時に知ったら、おそらくかなり違ったものを頭に入れ込んだのではないかって思います。
話がどんどん横に行ってしまいそうなので、観音経の話はここいらで止めることにします。
円空仏をはじめ、色々仏像を彫って生きた私ですが、それらの仏像のいわれを考えるということはほとんどと言ってなかったのです。ただ形を作ることだけを考えていたからなのですが、「それが気持ちを込めて彫る」ということになって初めて、仏像の意味を考える様になりました。
これから「観音菩薩」について考えていく前に、私の知る、彫ったかと思う観音菩薩を列記しておこうと思います。
聖観音、馬頭観音、十一面観音、如意輪観音と言ったところです。というのも、円空仏を彫ることが多かったので円空が彫っていない准胝観音は彫っていないいません。(円空仏に准胝観音はないと思ってます) それから、円空は千手観音は数体彫ってますが、私はこんな手の込んだ仏像は無理なので手を出すことすらしてませんし、これからも出さないと決めてます。
さて、次回から 聖観音、十一面観音、馬頭観音、如意輪観音と彫ったことのある観音と、彫ってはいないけれどぜひ書き残しておきたい観音として不空羂索観音について書こうと思ってます。
しかし、実現するかどうかは、保証の限りではありません。
ここに登場する観音菩薩は、菩薩の中でも仏像としてはかなり名前がうれた菩薩では無いかと思ってます。
その前に私が知る”菩薩”さんの名前を列記してみよう、頭の中にある記憶を総ざらえしようとしてます。これから出てくる名前にはみんな”菩薩”をつけて読んでください。
阿弥陀如来脇侍の観音、勢至、薬師如来脇侍の日光、月光、そして子供相手で有名な地蔵、弥勒如来の前身の弥勒、知恵の文殊、釈迦如来脇侍の普賢、密教で有名な虚空蔵、高僧として有名な人物を菩薩とした行基、世親(なぜか兄弟の無着は”菩薩”と言われていない様です)、親鸞の正信偈に登場する龍樹、天親などなどと、そんなにたくさん知っているわけでは無いなぁって思います。
まだまだ、菩薩と称される人もいたはずだけど、今の私の頭に浮かんでこない。頭から消えたのかなぁ?
さて、今回のお題は「観音菩薩」です。「かんのんさん」って馴々しく言われている仏様で、観音信仰と言って、観音菩薩に帰依する人も多いかった、また多いと聞いています。中国や韓国の歴史ドラマを見ていても「南無観世音菩薩」という言葉がよく出てきます。
ここで「観世音菩薩」という名が出てきたのですが、「観音菩薩」は別名というか教典の解釈によって、「観自在菩薩」やら「救世菩薩」なんておいう名前もあるんだとか、これを書くために色々ネットで調べていたら出てきました。
と言っても「観音菩薩」という名が私の頭の中では主流です。その「観音菩薩」ですが、その名前の前に別の名前がついた「観音菩薩」はたくさんあります。有名ななところでは六観音としての聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音、これに不空羂索観音を入れて七観音と言われている様で、これらの名前の仏像は本当にたくさん作られています。
このほかに十五観音、三十三観音などとして多くの観音菩薩があると書かれてましたが、私は巡礼、霊場巡りをしたことがないので、そう言った観音さんに出会うことはほとんどなかったと思います。
「観音菩薩」という菩薩は、仏の化身としていろんな姿に形を変えて、衆生を救済するために現れると聞いています。衆生、救いを求める人を救済するためにその状態に合わせた姿で現れると聞いています。
観音菩薩は「観音経」(「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」) にその姿が書かれているのですが、漢文の教典読んで理解できる私ではありません。教典の名前から「法華経」の一部なんだと解釈しましたが・・
浄土教、特に浄土真宗と浄土宗の中で育った私には、法華経は頭にないことでした。しかし、今これを書くに当たって色々調べていたら、観音経は知っておくべき話だなぁって思ったものです。親鸞の教えでは浄土三部経すら必要ないと、親鸞は捨てている感じですが、「これは難しい話は知らなくていい、ただただ阿弥陀を信じ、南無阿弥陀仏と唱えなさい」ということからなのでしょう。
しかし、仏像を彫ってきて思うことは、何故仏像がその形、姿をしているのかという、出典は理解しておくべきだったかと、反省しきりです。形の面白さだけを追ってきた私ですが、やはり心というものを感じて込めるならば、根本の教えを知って彫るほうがいい形が惚れたのかもしれないと思うのです。でも、もう遅きに失してますね。
これを書きつつ、観音経の和訳(わかりやすくしたもの)を読んでるのですが、それを読んでこれまで知っていた親鸞の女犯偈に至る話の三梦記に書かれていることがやっと理解できたって内心喜んでます。この気づきは25年前に欲しかった。親鸞研究をしている時に知ったら、おそらくかなり違ったものを頭に入れ込んだのではないかって思います。
話がどんどん横に行ってしまいそうなので、観音経の話はここいらで止めることにします。
円空仏をはじめ、色々仏像を彫って生きた私ですが、それらの仏像のいわれを考えるということはほとんどと言ってなかったのです。ただ形を作ることだけを考えていたからなのですが、「それが気持ちを込めて彫る」ということになって初めて、仏像の意味を考える様になりました。
これから「観音菩薩」について考えていく前に、私の知る、彫ったかと思う観音菩薩を列記しておこうと思います。
聖観音、馬頭観音、十一面観音、如意輪観音と言ったところです。というのも、円空仏を彫ることが多かったので円空が彫っていない准胝観音は彫っていないいません。(円空仏に准胝観音はないと思ってます) それから、円空は千手観音は数体彫ってますが、私はこんな手の込んだ仏像は無理なので手を出すことすらしてませんし、これからも出さないと決めてます。
さて、次回から 聖観音、十一面観音、馬頭観音、如意輪観音と彫ったことのある観音と、彫ってはいないけれどぜひ書き残しておきたい観音として不空羂索観音について書こうと思ってます。
しかし、実現するかどうかは、保証の限りではありません。