2024年03月29日
59年前のレポートの復刻 石庭雑感ーー静
昨日24年3月28日に雨が降っていたので、お家の中で断捨離もどきをしていた。色々整理していたら、大学3年の時の古美術研究のレポートが出てきた。
かなり以前に見つけたものだけど、仕舞い込んでいたので再発見といったところです。
2700文字くらいの縦書きのレポート
本当は仏像のレポートを書くつもりだったど
なぜか石庭をテーマにしてしまっている
担当教授から
「君の哲学はわからん」とコメントをもらった
上の画像がそのレポートの1ページ目です。下手な字で、22歳のシャチがいきがって書いてます。下原稿には画像派閥転封だったのですが、それは今は行方不明で、この記事の画像はネットから拝借しました。文章hがちょいと長いですが、興味ありましたら、お読みください。
**************
古美術研究レポート
『石庭雑感』ーーー『静』 昭和40年9月4日
『静』
芭蕉の句「静けさや岩にしみいる蝉の声」を思いここさせるように、七月の暑い曇り空の下の京の石庭は静かだった。グループでなく、ただ一人で庭を訪れて、しかもその場に拝観者が誰一人としていなかったとしたら、おそらくより一層の静けさを、この心は感じていたかもしれないが、今は全く場違いの話である。
枯山水といわれる龍安寺の庭でも、大山院の庭でも、確かに身に、心に静けさがしみこんでくる。静けさといっても、騒々しさと比べてみたものではない。大勢の人々がその庭の周辺で、眺めていても、それとは全く関係なく、静かだと感じるのであるから”絶対”の静けさとでも表現したらよいだろうか。
龍安寺にて
龍安寺の石庭を訪れるのは、この旅行で2度目のことである。初めて訪れたのは、昨年の正月四日のことであった。正月だけあって、さすが拝観者も多く、方丈の縁は、庭に向かって考え込む人々で埋まっていた。この旅行でも、外国人の観光団に縁を占領されていまっていた。こうして、大勢の人々が話をしていても、庭自体は静かだと思った。
風もなく、波ひとつ無い大海原に舟を浮かべ、この世の激しい流れから解放された平穏な心、これが龍安寺の石庭から感じるものである。ここには、人と人の些細ないざこざも、あの忌まわしい戦争も全てこの世の中に存在している争いごとはない。またそこで、庭に何を感じていようとも、何を考えていようとも、誰一人として攻撃を加えようとする人はない。それだけではない、この心を害し、傷つけるようなものは、何一つとして存在していない、ただ存在するもの、それはその時、その瞬間におけるそrを見る人の心だけなのである。私は、そこに、時間の動きを感じなくなる、そしてそこに「静」を感じるのである。
大徳寺大仙院ににて
大仙院の縁より石庭を見る。ここの庭も静けさで覆われている。しかし、その中に、この世の激しい動きが含まれているものを感じた。
川は、時に滝を落ち、支流と合い、また時には天からの雨水を入れながら次第に大きくなって、大海原に向かって、流れを下っていく。人間も時の流れを下っていく。この世に生を受け、誰も知らない、想像のできない未来に向かって、進んでいく。その途上、他人の影響を受けたり、いろいろのものを肉体に、心に吸収しながら大きく育っていく。
人間の肉体、その心は、その人間一人によって成り立つものではない。この世の全てのものとの関係の上に成り立っているのだ、と考えていると、高校の時、学園内で行われる成人式のことを思い出す。一本のロウソクの灯の中での校長の言葉、その中に「無我」という言葉があった。その式の時も、今と全く同じようなことを考えていた。人間が、成長していく上に、ただ一人では生活は営めない。この世のすべての人々、全て者のと、自分とは、肉体的にも、精神的にも、切り離せないものがある。もし、ただ一人で、誰もいない、何もないところにいたとしたら、労働しようにも、道具は言うまでもなく、対象すらない。つまりは生活を営もうにも何もできないのだ。その人間の先は、見えている。それだけではない、人間は人生の過程において、他の人との交渉において、精神的に影響しあいながら生活している。それができなくなった時、人間はその時から発展は停止する、のみならず、退化し、いずれ遠くない先に消滅することになろう。人間だけではない、全てものがなんらかの形で、横のつながりを持っているのだ。「無我」という言葉は、一般に「無我の境地」とか言って、自分を忘れるとか、自分を離れることのように考えられている。しかし、これを「他のものを見、その他のものと自分、そしてそれから相互の結びつきを知ることにより、そこで改めて自分を知ること」と解釈できないものであろうか。
話が逸れてしまった。元へ戻すとしよう。
滝を落ちた川は、時には岩の間をぬい激しく流れ、また時には、舟を静かに浮かべながら流れていき、そして、広大で静かな海原へと、そそぎ込む。川は、海に流れ込むや、もうそれ以上に大きくなることもなくなるばかりか、その形すらなくなってしまう。その時には、下ってくる時の、川としての生命はなく、完全に川の時間は停止してしまう。龍安寺の石庭も、大きくそして鹿な海原を暗示するものがあった。しかし、龍安寺の庭には、躍動する時はいうまでもなく、停止する時間すらない。この庭の持つ「時」は、全く存在しない。存在するもの、それはその庭を前に、方丈の縁に坐を組む人々の心のみである。この世の時の移り変わりはないのだ。それに引き かえ、大仙院の「川」と「海」そのものを示している庭は、南の庭の片隅に咲く、沙羅の花のように、この世の「無情」を暗示している。
「時」は未来へと絶ることなく流れていく、人間もそれに沿って「時」の川を流れていく。が、その流れを逆に、過去の栄華を懐かしみ、戻ろうとするものがこの世には絶えない。人間の生活は、過ぎ去った栄華を夢見ていたり、過去の失敗をくよくよ嘆いているよりも、今生きる現実をじっくり見つめ、この先に進む道を作ることのほうが重要なのではないだろうか。大仙院の庭石の中に、亀を模したものがある。それは上流=時の流れでいえば過去を向いている。中国では、亀は”馬鹿”を意味していると言うことを聞いたことがある。中国から伝わった禅に、この亀が過去の栄華を懐かしみ、失敗を嘆いている馬鹿者を表しているのではないかと、考えてみれば、あの話し上手の僧の言葉に頷かないではいられない。
いずれにしても大仙院の庭にしろ、龍安寺の庭にしろ、「禅」を「仏教」の教えに基づいて造られていることに疑いの余地はないことは当然のことである。しかし、小女奥底に流れるものに、日本人特有の精神がないだろうか。中国においても、古来から奇岩奇石を愛する趣味があったことは確かなことと言われるが、これらの庭に流れるものは、そう言った者の単なる影響ではなく、日本の古くからの、石に対する信仰のようなものがあるのではないかと思う。その進行が、長い年月の間に人々の個々の露中にとけこんだものが、鎌倉時代に輸入された禅の思想と」相まって、石庭、枯山水の庭としての一つの形を取るようになったのではないだろうかと思う。
と、色々と、庭を見ながら考えさせられるのもあったが、どの庭も私のその思いを汲み取ってくれたのではないかと思っている。
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あとがき
実は、最後のページが行方不明で最後の2行は、記憶を辿って書き足し亜mした。
かなり以前に見つけたものだけど、仕舞い込んでいたので再発見といったところです。
2700文字くらいの縦書きのレポート
本当は仏像のレポートを書くつもりだったど
なぜか石庭をテーマにしてしまっている
担当教授から
「君の哲学はわからん」とコメントをもらった
上の画像がそのレポートの1ページ目です。下手な字で、22歳のシャチがいきがって書いてます。下原稿には画像派閥転封だったのですが、それは今は行方不明で、この記事の画像はネットから拝借しました。文章hがちょいと長いですが、興味ありましたら、お読みください。
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古美術研究レポート
『石庭雑感』ーーー『静』 昭和40年9月4日
『静』
芭蕉の句「静けさや岩にしみいる蝉の声」を思いここさせるように、七月の暑い曇り空の下の京の石庭は静かだった。グループでなく、ただ一人で庭を訪れて、しかもその場に拝観者が誰一人としていなかったとしたら、おそらくより一層の静けさを、この心は感じていたかもしれないが、今は全く場違いの話である。
枯山水といわれる龍安寺の庭でも、大山院の庭でも、確かに身に、心に静けさがしみこんでくる。静けさといっても、騒々しさと比べてみたものではない。大勢の人々がその庭の周辺で、眺めていても、それとは全く関係なく、静かだと感じるのであるから”絶対”の静けさとでも表現したらよいだろうか。
龍安寺にて
龍安寺の石庭を訪れるのは、この旅行で2度目のことである。初めて訪れたのは、昨年の正月四日のことであった。正月だけあって、さすが拝観者も多く、方丈の縁は、庭に向かって考え込む人々で埋まっていた。この旅行でも、外国人の観光団に縁を占領されていまっていた。こうして、大勢の人々が話をしていても、庭自体は静かだと思った。
風もなく、波ひとつ無い大海原に舟を浮かべ、この世の激しい流れから解放された平穏な心、これが龍安寺の石庭から感じるものである。ここには、人と人の些細ないざこざも、あの忌まわしい戦争も全てこの世の中に存在している争いごとはない。またそこで、庭に何を感じていようとも、何を考えていようとも、誰一人として攻撃を加えようとする人はない。それだけではない、この心を害し、傷つけるようなものは、何一つとして存在していない、ただ存在するもの、それはその時、その瞬間におけるそrを見る人の心だけなのである。私は、そこに、時間の動きを感じなくなる、そしてそこに「静」を感じるのである。
大徳寺大仙院ににて
大仙院の縁より石庭を見る。ここの庭も静けさで覆われている。しかし、その中に、この世の激しい動きが含まれているものを感じた。
川は、時に滝を落ち、支流と合い、また時には天からの雨水を入れながら次第に大きくなって、大海原に向かって、流れを下っていく。人間も時の流れを下っていく。この世に生を受け、誰も知らない、想像のできない未来に向かって、進んでいく。その途上、他人の影響を受けたり、いろいろのものを肉体に、心に吸収しながら大きく育っていく。
人間の肉体、その心は、その人間一人によって成り立つものではない。この世の全てのものとの関係の上に成り立っているのだ、と考えていると、高校の時、学園内で行われる成人式のことを思い出す。一本のロウソクの灯の中での校長の言葉、その中に「無我」という言葉があった。その式の時も、今と全く同じようなことを考えていた。人間が、成長していく上に、ただ一人では生活は営めない。この世のすべての人々、全て者のと、自分とは、肉体的にも、精神的にも、切り離せないものがある。もし、ただ一人で、誰もいない、何もないところにいたとしたら、労働しようにも、道具は言うまでもなく、対象すらない。つまりは生活を営もうにも何もできないのだ。その人間の先は、見えている。それだけではない、人間は人生の過程において、他の人との交渉において、精神的に影響しあいながら生活している。それができなくなった時、人間はその時から発展は停止する、のみならず、退化し、いずれ遠くない先に消滅することになろう。人間だけではない、全てものがなんらかの形で、横のつながりを持っているのだ。「無我」という言葉は、一般に「無我の境地」とか言って、自分を忘れるとか、自分を離れることのように考えられている。しかし、これを「他のものを見、その他のものと自分、そしてそれから相互の結びつきを知ることにより、そこで改めて自分を知ること」と解釈できないものであろうか。
話が逸れてしまった。元へ戻すとしよう。
滝を落ちた川は、時には岩の間をぬい激しく流れ、また時には、舟を静かに浮かべながら流れていき、そして、広大で静かな海原へと、そそぎ込む。川は、海に流れ込むや、もうそれ以上に大きくなることもなくなるばかりか、その形すらなくなってしまう。その時には、下ってくる時の、川としての生命はなく、完全に川の時間は停止してしまう。龍安寺の石庭も、大きくそして鹿な海原を暗示するものがあった。しかし、龍安寺の庭には、躍動する時はいうまでもなく、停止する時間すらない。この庭の持つ「時」は、全く存在しない。存在するもの、それはその庭を前に、方丈の縁に坐を組む人々の心のみである。この世の時の移り変わりはないのだ。それに引き かえ、大仙院の「川」と「海」そのものを示している庭は、南の庭の片隅に咲く、沙羅の花のように、この世の「無情」を暗示している。
「時」は未来へと絶ることなく流れていく、人間もそれに沿って「時」の川を流れていく。が、その流れを逆に、過去の栄華を懐かしみ、戻ろうとするものがこの世には絶えない。人間の生活は、過ぎ去った栄華を夢見ていたり、過去の失敗をくよくよ嘆いているよりも、今生きる現実をじっくり見つめ、この先に進む道を作ることのほうが重要なのではないだろうか。大仙院の庭石の中に、亀を模したものがある。それは上流=時の流れでいえば過去を向いている。中国では、亀は”馬鹿”を意味していると言うことを聞いたことがある。中国から伝わった禅に、この亀が過去の栄華を懐かしみ、失敗を嘆いている馬鹿者を表しているのではないかと、考えてみれば、あの話し上手の僧の言葉に頷かないではいられない。
いずれにしても大仙院の庭にしろ、龍安寺の庭にしろ、「禅」を「仏教」の教えに基づいて造られていることに疑いの余地はないことは当然のことである。しかし、小女奥底に流れるものに、日本人特有の精神がないだろうか。中国においても、古来から奇岩奇石を愛する趣味があったことは確かなことと言われるが、これらの庭に流れるものは、そう言った者の単なる影響ではなく、日本の古くからの、石に対する信仰のようなものがあるのではないかと思う。その進行が、長い年月の間に人々の個々の露中にとけこんだものが、鎌倉時代に輸入された禅の思想と」相まって、石庭、枯山水の庭としての一つの形を取るようになったのではないだろうかと思う。
と、色々と、庭を見ながら考えさせられるのもあったが、どの庭も私のその思いを汲み取ってくれたのではないかと思っている。
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あとがき
実は、最後のページが行方不明で最後の2行は、記憶を辿って書き足し亜mした。