2009年04月03日
親鸞の追っかけ 正信偈
そこで次に『正信偈』という親鸞の書いた偈文。これもお経の中に含まれるのか?多分多くの方がそのように思われていると思います。『お経』つまり教えなので、間違いはないとは思います。しかし、これは本当は親鸞の哲学の表現で、親鸞が師と仰いだ人たちの名前を羅列して、この人たちが言っていることは間違いないといっている、と私は解釈をしています。(なので、意味も知らずに、法要で読むのは違和感がある。私です)
正信偈は、私には阿弥陀如来を信ずるにいたった経緯と、信ずることでの自分精神的な安らぎを書き残しそしてそれを多くの人に伝えたかったのだろうと思います。決して、人の詩を痛むために書いたmので汎愛と思っています。
この正信偈を法要の際に詠むことにしたのは、真宗8代の法主・蓮如といわれています。つまりは、本願寺の血筋の中で受け継がれてきた流れのしきたり。ところが、(現在は違ってしまっていますが、)浄土真宗高田派は、昔は正信偈を唱和することがなかったと一身田にある本山のお坊さんに聞いています。
高田派は、親鸞の墓を寺にすることに反対をした関東集団だからかな?蓮如以来高田派は勢力がなくなってので、現在の状態になっているとことなのですが。
親鸞はもともと、、寺も弟子も持たないと言い残しているといわれているにもかかわらず、子孫はそれを無視して寺にして、血脈をその頂点にすえて現代に至ってます。
戦国時代に勢力を持ちすぎた真宗教団を嫌った織田信長と戦い、伊勢長島や、大阪の石山本願寺で多くの死者を出す戦いで、結局は大阪には本願寺がなくなって、その代わりみたいに南御堂、北御堂があります。
織田滅亡の後は、豊臣秀吉や徳川家に守られ、そしてその政治的な流れで、秀吉の援助のあった元の本願寺(京都・西本願寺)に対抗するように、東本願寺が設立されて、親鸞血脈同士の争い、そしてさらにはその本願寺内部での争いなども生んでしまい、親鸞が生きていたらどんなに嘆いているかと私は想像しています。
こうしたことを書籍などで知ってからは、親鸞の歩いた、住んでいたといわれるところをいくつか歩くことになったのです。そして、その場に立って、彼が言いたかったことを考えてみたのです。
もっとも、分かるはずもないことですが、現場に立ってみると、親鸞が歩いたところは、書籍に書かれたものとは結構違う印象になったものです。
正信偈は、私には阿弥陀如来を信ずるにいたった経緯と、信ずることでの自分精神的な安らぎを書き残しそしてそれを多くの人に伝えたかったのだろうと思います。決して、人の詩を痛むために書いたmので汎愛と思っています。
この正信偈を法要の際に詠むことにしたのは、真宗8代の法主・蓮如といわれています。つまりは、本願寺の血筋の中で受け継がれてきた流れのしきたり。ところが、(現在は違ってしまっていますが、)浄土真宗高田派は、昔は正信偈を唱和することがなかったと一身田にある本山のお坊さんに聞いています。
高田派は、親鸞の墓を寺にすることに反対をした関東集団だからかな?蓮如以来高田派は勢力がなくなってので、現在の状態になっているとことなのですが。
親鸞はもともと、、寺も弟子も持たないと言い残しているといわれているにもかかわらず、子孫はそれを無視して寺にして、血脈をその頂点にすえて現代に至ってます。
戦国時代に勢力を持ちすぎた真宗教団を嫌った織田信長と戦い、伊勢長島や、大阪の石山本願寺で多くの死者を出す戦いで、結局は大阪には本願寺がなくなって、その代わりみたいに南御堂、北御堂があります。
織田滅亡の後は、豊臣秀吉や徳川家に守られ、そしてその政治的な流れで、秀吉の援助のあった元の本願寺(京都・西本願寺)に対抗するように、東本願寺が設立されて、親鸞血脈同士の争い、そしてさらにはその本願寺内部での争いなども生んでしまい、親鸞が生きていたらどんなに嘆いているかと私は想像しています。
こうしたことを書籍などで知ってからは、親鸞の歩いた、住んでいたといわれるところをいくつか歩くことになったのです。そして、その場に立って、彼が言いたかったことを考えてみたのです。
もっとも、分かるはずもないことですが、現場に立ってみると、親鸞が歩いたところは、書籍に書かれたものとは結構違う印象になったものです。