2009年07月01日
五木寛之 親鸞 選択集書写
五木寛之氏の小説「親鸞」
法然上人から「選択集」の書写を許され歓喜極まりない気持ちは分かるけど、親鸞の使う言葉と違った表現をするのはいかがなものかと、幾分あきれている。
今日7月1日の中に、浄土教の高僧の名が書かれているのだが、親鸞の著「正信偈」では「天親菩薩」と書いている名前を「世親」と表現している。これはいただけない。確かに「世親=天親」ではあるが、親鸞を扱う小説の中で、親鸞の表現している名前と違う表現をとることはいくら何でもいい加減すぎる。「世親」は世に多く使われている名前ではあるが、親鸞が主著の中で違った名前を使っているのなら、やはりその名を踏襲するのが枯れに対する敬意ではないかと思う。
ここまでもいろいろストーリーの中に矛盾があったっり、多くの疑問を感じるところがある。この点については本願寺の関係者でも疑問を呈しているとkろだが、有名な小説家というのであれば、もっと主人公の書いているものをしっかりと見てほしいものだと思う。
特に「天親」に関しては正信偈の中には複数出てくるものである。五木氏に反省を望む。
法然上人から「選択集」の書写を許され歓喜極まりない気持ちは分かるけど、親鸞の使う言葉と違った表現をするのはいかがなものかと、幾分あきれている。
今日7月1日の中に、浄土教の高僧の名が書かれているのだが、親鸞の著「正信偈」では「天親菩薩」と書いている名前を「世親」と表現している。これはいただけない。確かに「世親=天親」ではあるが、親鸞を扱う小説の中で、親鸞の表現している名前と違う表現をとることはいくら何でもいい加減すぎる。「世親」は世に多く使われている名前ではあるが、親鸞が主著の中で違った名前を使っているのなら、やはりその名を踏襲するのが枯れに対する敬意ではないかと思う。
ここまでもいろいろストーリーの中に矛盾があったっり、多くの疑問を感じるところがある。この点については本願寺の関係者でも疑問を呈しているとkろだが、有名な小説家というのであれば、もっと主人公の書いているものをしっかりと見てほしいものだと思う。
特に「天親」に関しては正信偈の中には複数出てくるものである。五木氏に反省を望む。