2012年04月15日

平清盛 第15回 

 先週記事をアップした後のところで、家盛(大東駿介)は死んでしまった。なんでも落馬したとか。いろいろネットで家盛のことを探した。彼はかなり影が薄い。 何せ早く死んでしまったの野で歴史上に登場することが少ないからということらしい。しかし、読んだもののの中には『病死』と書いたものもあったなぁ。史実はどうなんだろう?

 家盛の遺体が忠盛の屋敷に運ばれた。取り乱す家盛の母・宗子(和久井映見)、そして『清盛が神輿に矢を射たからだ』といきり立つ忠正(豊原功補)。まぁ。かなり清盛(松山ケンイチ)は厄介者なのだが。

 清盛は西行=前の佐藤吉清(藤木直人)と出会うが。。。。 この西行はこの先歴史上に大きな役割をもつことになる。この清盛との出会いで、清盛は殺気を感じたほどで、出家したとはいえ武士の魂は抜けていなかったのかな?

 家盛が死んで結果的に忠盛は清盛を跡取りと宣言を下すが、周囲は反発が結構多い。なぜ忠盛は清盛を跡目にしたのか?この辺りが語られていないが、白河院の子供、そんなことはどうでもいいのだろうが、何か忠盛には清盛に大きくなるものを感じていたのだろうが。

 勢力争いは、平家の中だけではなく摂関家の藤原家の中でも起きている。何がどうなっているのやら、なんやらちまちました時間のストーリーではつかみきれないや。
 藤原頼長(山本耕史)が兄忠通(堀部圭亮)の役職を奪うことになる。これは頼道の父・忠実(國村隼)の采配だ。こうした身内の内紛が、いずれの歴史的騒乱の種として育っていく。

 高野さんに多宝塔を建立することになるのだが、その名谷清盛を忠盛が当てた。これが世継ぎの漸減とみるべきなんだが、これに身内の中での反発があるわけで。清盛はその図面を西行の前でもししまうが、西行は燃えのころを示した清盛に『一心に努めろ』と進言。

 源義朝のことろに乙女狩りがきた。何やら宮中の御璽のために、宮様のお世話のために差し出せと。(宮中に上がった後での画面がまた汚い。ホント、こんなことだから視聴率が下がるばかりなんだ。)
 
 鳥羽院の奥さん・得子(松雪泰子)に呼び出された忠盛。得子から公家の身分ももうじきとにおわされるのだが、そこに頼長が現れ家盛が頼長に忠誠を誓いすべてを投げ出すといったなどという。嫌みたっぷりの頼道の言葉に忠盛が切れる。

 曼荼羅に色をつける清盛。そこに忠盛が来て「もうこれ以上寄進するには及ばぬ」と。そして忠盛はここで愚痴り、寄進をやめろと怒鳴る。しかし、これに反発をする清盛。忠盛のいきり立つのを無視して色をつけようとするが・・・・・ (なんや知らんけど、変な親子やなぁ。)
 忠盛に額を割られた清盛だが、兄であるからこそ曼荼羅を寄進するのだと色を付け続ける。それを情けない顔して見る忠盛だが、どんな心中なのか、ドラマではわからず。

 さて、あと10分あるが、このあとはじっくり見ることに。また事件が起きるかも。

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