2007年09月06日
ナンシー梅木さんの死去
中日新聞夕刊に
パバロッティさんの死亡記事の下にちょっと小さく、彼女の死亡が伝えられていた。
ナンシー梅木さんのことは、映画も見ていないし、ブロードウェーの舞台も見ていないけれど、日本で騒がれる前から知っていた。
私は、中学校のとき小遣いをためて短波放送付きのラジオを買った。中学・高校そして大学時代は、短波放送で新聞よりも早く世界の情報を知ったりしていた。
たしか、ケネディが暗殺されたときも、短波放送で知った。VOA(Voice Of America )の日本語放送で。
そのVOAの放送のバック(ではなく、紹介番組だったか?)に流れていたのが、フラワードラムソング。日本での紹介は『花太鼓の歌』が通称。しかし、私は フラワードラムソング が自然。
その記憶はない。ただ、名前は知っている。理由はわからない。ひょっとしたら、アメリカで有名なショーだったので、VOAの放送の中に何度も彼女の名が登場していたのかもしれない。
なにはともあれ、時代が変わっていくことを思わされる。
ご冥福をお祈りsます。
パバロッティさんの死亡記事の下にちょっと小さく、彼女の死亡が伝えられていた。
ナンシー梅木さんのことは、映画も見ていないし、ブロードウェーの舞台も見ていないけれど、日本で騒がれる前から知っていた。
私は、中学校のとき小遣いをためて短波放送付きのラジオを買った。中学・高校そして大学時代は、短波放送で新聞よりも早く世界の情報を知ったりしていた。
たしか、ケネディが暗殺されたときも、短波放送で知った。VOA(Voice Of America )の日本語放送で。
そのVOAの放送のバック(ではなく、紹介番組だったか?)に流れていたのが、フラワードラムソング。日本での紹介は『花太鼓の歌』が通称。しかし、私は フラワードラムソング が自然。
その記憶はない。ただ、名前は知っている。理由はわからない。ひょっとしたら、アメリカで有名なショーだったので、VOAの放送の中に何度も彼女の名が登場していたのかもしれない。
なにはともあれ、時代が変わっていくことを思わされる。
ご冥福をお祈りsます。
2007年09月06日
鳥人間コンテスト
つい今までTVで放映していた。
数年前までは、毎年見に行ってたのだが、何せ朝早く出かけないとまともに見ることができないこともあり、酸い寝不足になりがちと、暑さのセイで熱中症にもなる可能性が大きくなって、最近はもっぱらTV観戦。
今年は、滑空部門はまあまあ。タイムトライアルが、すごかった。大阪工大のチームは、毎年すばらしい機体を作って、すばらしい記録を残している。一度駐車場で学生と話を交わしたことがある。さすが頭のいい学生たちでした。
今年のタイムは、しばらくは破られないのではと想像する。
飛び終えて帰ってきた人に
「おめでとう」 と声をかけた手、返ってきた笑顔のすばらしさ。忘れられません。
過去にとんでもないないことに出会ったことがある。
ある年の人力部門で、早稲田大学の機体が故障して岸にぶつかったことがある。このぶつかったところは私と家内がいたところ。もう少し低いところだったら家内は、巻き込まれていた。
私も、頭の上を掠めて飛んでいったのだから、とてもじゃぁないけど、大変な驚きと恐怖。
カメラで撮影をしていたのだが、ファインダーにめがけて機体が直進してくる。びっくりして頭を下げて・・・
機体は、岸の堤防を越えてぶつかった。私が一番近かったら、操縦していた学生に声をかけた。
「大丈夫か?」
反応なし、しかし出てきた。そして私のほうに向かってヘルメットを投げつけ、
「ちくしょうぉ・・・」
**このときのちょっとしたところはTVに出ていた**
その後、驚かせた、危険だったという謝罪は、どこからも、誰からも聞けない。
その後、私は、早稲田の飛行が嫌いになった。
今年も、また壊れた。(よく壊れる・・・)
しかし、この鳥人間コンテスト
一度見に行かれんことを。
きれいですよ、機体が。飛ぶやつほどきれいです。
無駄なものがないからそう見えるのかもしれないが。
デザインの究極を見る思いです。
デザインは、飾るのではないということ
余分なものはそぎ落とすということ ・・・・・ 実感します。
開催場所は、毎年同じで、
彦根市の松原水泳場
車は、この近くに止めるのではなく、特別に駐車場が設けられ、シャトルバスが運行されてました。
数年前までは、毎年見に行ってたのだが、何せ朝早く出かけないとまともに見ることができないこともあり、酸い寝不足になりがちと、暑さのセイで熱中症にもなる可能性が大きくなって、最近はもっぱらTV観戦。
今年は、滑空部門はまあまあ。タイムトライアルが、すごかった。大阪工大のチームは、毎年すばらしい機体を作って、すばらしい記録を残している。一度駐車場で学生と話を交わしたことがある。さすが頭のいい学生たちでした。
今年のタイムは、しばらくは破られないのではと想像する。
飛び終えて帰ってきた人に
「おめでとう」 と声をかけた手、返ってきた笑顔のすばらしさ。忘れられません。
過去にとんでもないないことに出会ったことがある。
ある年の人力部門で、早稲田大学の機体が故障して岸にぶつかったことがある。このぶつかったところは私と家内がいたところ。もう少し低いところだったら家内は、巻き込まれていた。
私も、頭の上を掠めて飛んでいったのだから、とてもじゃぁないけど、大変な驚きと恐怖。
カメラで撮影をしていたのだが、ファインダーにめがけて機体が直進してくる。びっくりして頭を下げて・・・
機体は、岸の堤防を越えてぶつかった。私が一番近かったら、操縦していた学生に声をかけた。
「大丈夫か?」
反応なし、しかし出てきた。そして私のほうに向かってヘルメットを投げつけ、
「ちくしょうぉ・・・」
**このときのちょっとしたところはTVに出ていた**
その後、驚かせた、危険だったという謝罪は、どこからも、誰からも聞けない。
その後、私は、早稲田の飛行が嫌いになった。
今年も、また壊れた。(よく壊れる・・・)
しかし、この鳥人間コンテスト
一度見に行かれんことを。
きれいですよ、機体が。飛ぶやつほどきれいです。
無駄なものがないからそう見えるのかもしれないが。
デザインの究極を見る思いです。
デザインは、飾るのではないということ
余分なものはそぎ落とすということ ・・・・・ 実感します。
開催場所は、毎年同じで、
彦根市の松原水泳場
車は、この近くに止めるのではなく、特別に駐車場が設けられ、シャトルバスが運行されてました。
2007年09月06日
熱中症かな?
ここのところ 睡魔に襲われる
今日は夕方 4時半頃から頭痛と睡魔。
1時間ほどねたみたい。
汗の掻きかたが半端じゃなかったから
熱中症かな?
今日は、何も熱中していなかったけどなぁ、、、
**
今日は、このBLOG投稿記事少ない。
ひょっとして、皆さん睡魔に襲われたりして。
今日は夕方 4時半頃から頭痛と睡魔。
1時間ほどねたみたい。
汗の掻きかたが半端じゃなかったから
熱中症かな?
今日は、何も熱中していなかったけどなぁ、、、
**
今日は、このBLOG投稿記事少ない。
ひょっとして、皆さん睡魔に襲われたりして。
2007年09月06日
親不知子不知 06旅の記録 第1日13
第1日 名古屋から古川へ その13
親不知子不知 を越える
親不知を通過する。海に切り立ったがけっぷちを削って半トンネルになっている、。進行方向左が海、柱の間から海が見えるはずなのだが、左右に道がうねっている、しかも前後を大型トラックに挟まれているから私は海を見ることができない。なんとも恐ろしい国道である。
高速道路のように外を走ればそれなりに景色はいいはずなのだが、景色はいいといっても走行中は見手入れが危険だしね。
親不知のお休みどころでは 車を止めて、海岸を見た。高いところにある。完全に海はがけまで来ている。こんなところ、人が歩けたのだろうか。翌日林正寺の住職にお聞きしたところでは、引き潮のときは人が歩くことができたという、。義経は親鸞が通る19年前に引き潮のときに歩いてわたったとのことなのだ。なんでも今でも歩いてわたることは可能という。
しかし、何かの本には、潮の加減で、多くの人が命を落としたと書いてあった記憶がある。とにかく昔はここは難所だっただろう。
それにしても、大変なところである。この切り立った海岸線を越えたところは、平安の昔ならば異国でろう。だから流罪地でもあったのだろう。
平安に以降も難所だったのだろう、謙信と信長は大きな戦をしていないと思うのだが。それで上杉が江戸時代まで残ることが出来たのかも知れない。戦っていたら、どうだったのだろう。武田と同じ運命だったかもしれない。
親知らず子知らずを通過。通過するとそこには山は迫っているものの海岸に沿って走る国道だ。さて、この次は『ヒスイ海岸』なのだが。案内がない。「ひすい」云々の民間の看板はあるものの、それは店の看板。海岸ではないのだ。私は何とか海岸で、ヒスイはともかく、できれば拾いたいが、なくともきれいな石は何とか拾って帰りたいのだ。
***********
前回 次回
親不知子不知 を越える
親不知を通過する。海に切り立ったがけっぷちを削って半トンネルになっている、。進行方向左が海、柱の間から海が見えるはずなのだが、左右に道がうねっている、しかも前後を大型トラックに挟まれているから私は海を見ることができない。なんとも恐ろしい国道である。
高速道路のように外を走ればそれなりに景色はいいはずなのだが、景色はいいといっても走行中は見手入れが危険だしね。
親不知のお休みどころでは 車を止めて、海岸を見た。高いところにある。完全に海はがけまで来ている。こんなところ、人が歩けたのだろうか。翌日林正寺の住職にお聞きしたところでは、引き潮のときは人が歩くことができたという、。義経は親鸞が通る19年前に引き潮のときに歩いてわたったとのことなのだ。なんでも今でも歩いてわたることは可能という。
しかし、何かの本には、潮の加減で、多くの人が命を落としたと書いてあった記憶がある。とにかく昔はここは難所だっただろう。
それにしても、大変なところである。この切り立った海岸線を越えたところは、平安の昔ならば異国でろう。だから流罪地でもあったのだろう。
平安に以降も難所だったのだろう、謙信と信長は大きな戦をしていないと思うのだが。それで上杉が江戸時代まで残ることが出来たのかも知れない。戦っていたら、どうだったのだろう。武田と同じ運命だったかもしれない。
親知らず子知らずを通過。通過するとそこには山は迫っているものの海岸に沿って走る国道だ。さて、この次は『ヒスイ海岸』なのだが。案内がない。「ひすい」云々の民間の看板はあるものの、それは店の看板。海岸ではないのだ。私は何とか海岸で、ヒスイはともかく、できれば拾いたいが、なくともきれいな石は何とか拾って帰りたいのだ。
***********
前回 次回