2009年08月15日
4時間半の高速ドライブ
4日のお盆休みなのに、どこも行かず自宅で仕事まがい。何となく欲求不満の精神状態。
そこで、ドライブをと思い立った。どこに行こうか、当てもなし。とりあえず地図を車に持ち込んで、一路名古屋ICに向かう。込んでいたら空いている方へと。
ICまでの30分、ほとんどが乗用車、平日より少し多いかといった程度。名古屋ICで・・・・実はETCは付けているものの、今まで使うことはなかった。今回が初めて。自宅を出て少しして思い出して、カードを差し込んだ。ゲートを速度を落としてはいる。一旦遮断されたが、難なく開いたので、まともにセットされていたことが分かった。
IC空いてたよ、ものすごく空いていた。本郷の交差点は結構車多かったけど高速に入る車少なかった。
ゲートを通過して、左にコースを取る。右東京方面は何となく入っていく車が多い。
本線に乗ったが、車少ないよ。思った半分以下。土曜日といえどもう2時30分位だものな。これから出かけるのもああまりいないだろう。と、思っていたら、80キロで走る私の車は、後続に追いつかれる。後ろは固まりが来たりする。でも、少ない。
春日井を過ぎ、小牧JCをすぎた。車あまり増えない。一宮を過ぎたところで少し増えたかな?あら、反対のもぼり車線かなりスピードが落ちている。これからだんだん渋滞になるのだろうな。
***
と、こんな状態で、高速を使ってこの近辺を一回りすることになった
***
一宮JCで左コースから東海北陸道に入る。ここから各務原までは走ったことがない。入ってみたものの、つまらない道路だね。両サイドのフェンスが高くて何も見えやしない。でも、一宮のあのタワーはさすが目に入った。
これを過ぎると木曽川を越える、そして少し行くと アクアとと岐阜。数年前、孫がまだ幼稚園の時初めてのおや離れの小旅行をしたところ。ちょっと寄ってみる。
今日はイベントをやっていて、何やら子供たちがキャーキャー言っている。氷を削って雪を降らしているのだ。いいねぇ・・・・・
しばらく休憩して出発、15時15分。
東海北陸道を北上。各務原から北は結構懐かしいところ。昔々出来たばかりの頃がよく走ったものだ。ほとんど交通量がないので、道路中央の分離線の上を120キロ位でぶっ飛ばしていた。若気の至り。
関の手前に「長良川SAがあった。左の長良川ではたくさんの人が遊んでいる。腹が減ったのでサンドイッチを食べる。そして少し休憩。
また少し北上して関JCから東海環状に入る。ここは対面通行がほとんどなので飛ばせない。もっとも今日は、私には大変めずらしく制限よりもかなりスピードを控えている。エコドライブ。
そうそう、東海北陸道も上り線だんだん込んできているね。
環状にはいったが、交通量が思ったよりも多い。追い越しできないから、出来るだけ制限いっぱいで走るのを心がける。しかし、前が詰まってきた。反対車線も同じ位の交通量。多分いつもよりも多いのではないのかな?
日本昭和村のオアシスに立ち寄る。
さすがです。駐車場は満杯に近い。ここは高速の駐車場に車をおいて昭和村で遊ぶことが出来るから、そういった人のせいもあるだろうなぁ。 でもね、ここでは買うものなかったなぁ。。。。
15分くらいいて、何かを始める。はじめは時のアウトレットに立ち寄ろうかと思ったけど、いったところで私は買うものないし、ここまで来たら高速で一回りしたら料金がいくらになるかを知りたくもあり、まだいったことのない刈谷のオアシスに行ってみようと思ったのだ。
土岐JCを過ぎ、アウトレットを右に見てどんどん南下、土岐南を過ぎ、右手にあった山がなくなっていく掘削の血を見、県境を過ぎて、藤岡、勘八峡を過ぎて豊田に入る。
そして、東名と交差する豊田JCを通過して湾岸線を西に向かった。そして刈谷のオアシスに。
環状の土岐JCを過ぎてから交通量はかなり大幅に増えた、そして東名の交差を過ぎたらもっと増えた。そして、そしてオアシスには人がいっぱいいる。車も駐車場が満杯。オアシスへの入り栗で交通整理をする人に一旦止められた位だ。
ここで、産直の野菜を買い込んだり、夕食のおかずを買い込んだり。。。。もう5時半だものな。
と、元のフロアに戻ったらラーメン屋がある。対ふらふらと食べることにしてしまった。「横綱」とか言うラーメン。うぇぇ・・・二度と食わないぞ。スープはいけるけど、麺が粉っぽくて、味もイマイチ。あれが今風なのかやぁ????
あぁ。最後に・・・・・
もう観覧車には灯が入っている
ここで出られるかと思いきや、ETC出口が分からず、致し方ないのでそのまま本線に戻って西進。豊明で本線を下りる。本当は名古屋南で降りたかったけど、「名古屋南降りられない」という文字が目に入った。本当かどうかは知らないが、そんなの目に入ったkらには遠くに行くよりもと言うことで先に降りてしまったのだ。18時3分。
さて、ここで高速を始めて降りたわけですが、ETC出口の料金表示はいくらでしょうか?
アクアととでは、本線に戻るとき、南下チェックされていたぞ。ETCが何か言っていた。だから1000円と出ると思ったのだが。。。。 どうも18時を回ったせいか、夜間割引とかで550円だった。へぇ????
そして、そのまま豊明の市役所の前を通り、藤田学園の前を通って無事ご帰還。
5時間弱の高速ドライブでした。
そこで、ドライブをと思い立った。どこに行こうか、当てもなし。とりあえず地図を車に持ち込んで、一路名古屋ICに向かう。込んでいたら空いている方へと。
ICまでの30分、ほとんどが乗用車、平日より少し多いかといった程度。名古屋ICで・・・・実はETCは付けているものの、今まで使うことはなかった。今回が初めて。自宅を出て少しして思い出して、カードを差し込んだ。ゲートを速度を落としてはいる。一旦遮断されたが、難なく開いたので、まともにセットされていたことが分かった。
IC空いてたよ、ものすごく空いていた。本郷の交差点は結構車多かったけど高速に入る車少なかった。
ゲートを通過して、左にコースを取る。右東京方面は何となく入っていく車が多い。
本線に乗ったが、車少ないよ。思った半分以下。土曜日といえどもう2時30分位だものな。これから出かけるのもああまりいないだろう。と、思っていたら、80キロで走る私の車は、後続に追いつかれる。後ろは固まりが来たりする。でも、少ない。
春日井を過ぎ、小牧JCをすぎた。車あまり増えない。一宮を過ぎたところで少し増えたかな?あら、反対のもぼり車線かなりスピードが落ちている。これからだんだん渋滞になるのだろうな。
***
と、こんな状態で、高速を使ってこの近辺を一回りすることになった
***
一宮JCで左コースから東海北陸道に入る。ここから各務原までは走ったことがない。入ってみたものの、つまらない道路だね。両サイドのフェンスが高くて何も見えやしない。でも、一宮のあのタワーはさすが目に入った。
これを過ぎると木曽川を越える、そして少し行くと アクアとと岐阜。数年前、孫がまだ幼稚園の時初めてのおや離れの小旅行をしたところ。ちょっと寄ってみる。
今日はイベントをやっていて、何やら子供たちがキャーキャー言っている。氷を削って雪を降らしているのだ。いいねぇ・・・・・
しばらく休憩して出発、15時15分。
東海北陸道を北上。各務原から北は結構懐かしいところ。昔々出来たばかりの頃がよく走ったものだ。ほとんど交通量がないので、道路中央の分離線の上を120キロ位でぶっ飛ばしていた。若気の至り。
関の手前に「長良川SAがあった。左の長良川ではたくさんの人が遊んでいる。腹が減ったのでサンドイッチを食べる。そして少し休憩。
また少し北上して関JCから東海環状に入る。ここは対面通行がほとんどなので飛ばせない。もっとも今日は、私には大変めずらしく制限よりもかなりスピードを控えている。エコドライブ。
そうそう、東海北陸道も上り線だんだん込んできているね。
環状にはいったが、交通量が思ったよりも多い。追い越しできないから、出来るだけ制限いっぱいで走るのを心がける。しかし、前が詰まってきた。反対車線も同じ位の交通量。多分いつもよりも多いのではないのかな?
日本昭和村のオアシスに立ち寄る。
さすがです。駐車場は満杯に近い。ここは高速の駐車場に車をおいて昭和村で遊ぶことが出来るから、そういった人のせいもあるだろうなぁ。 でもね、ここでは買うものなかったなぁ。。。。
15分くらいいて、何かを始める。はじめは時のアウトレットに立ち寄ろうかと思ったけど、いったところで私は買うものないし、ここまで来たら高速で一回りしたら料金がいくらになるかを知りたくもあり、まだいったことのない刈谷のオアシスに行ってみようと思ったのだ。
土岐JCを過ぎ、アウトレットを右に見てどんどん南下、土岐南を過ぎ、右手にあった山がなくなっていく掘削の血を見、県境を過ぎて、藤岡、勘八峡を過ぎて豊田に入る。
そして、東名と交差する豊田JCを通過して湾岸線を西に向かった。そして刈谷のオアシスに。
環状の土岐JCを過ぎてから交通量はかなり大幅に増えた、そして東名の交差を過ぎたらもっと増えた。そして、そしてオアシスには人がいっぱいいる。車も駐車場が満杯。オアシスへの入り栗で交通整理をする人に一旦止められた位だ。
ここで、産直の野菜を買い込んだり、夕食のおかずを買い込んだり。。。。もう5時半だものな。
と、元のフロアに戻ったらラーメン屋がある。対ふらふらと食べることにしてしまった。「横綱」とか言うラーメン。うぇぇ・・・二度と食わないぞ。スープはいけるけど、麺が粉っぽくて、味もイマイチ。あれが今風なのかやぁ????
あぁ。最後に・・・・・
もう観覧車には灯が入っている
ここで出られるかと思いきや、ETC出口が分からず、致し方ないのでそのまま本線に戻って西進。豊明で本線を下りる。本当は名古屋南で降りたかったけど、「名古屋南降りられない」という文字が目に入った。本当かどうかは知らないが、そんなの目に入ったkらには遠くに行くよりもと言うことで先に降りてしまったのだ。18時3分。
さて、ここで高速を始めて降りたわけですが、ETC出口の料金表示はいくらでしょうか?
アクアととでは、本線に戻るとき、南下チェックされていたぞ。ETCが何か言っていた。だから1000円と出ると思ったのだが。。。。 どうも18時を回ったせいか、夜間割引とかで550円だった。へぇ????
そして、そのまま豊明の市役所の前を通り、藤田学園の前を通って無事ご帰還。
5時間弱の高速ドライブでした。
2009年08月15日
終戦記念日に思う
今日は8月15日 正午になると一斉に黙祷をする日
64年前の8月15日 暑い日だったと聞く。
母の話では、通称玉音放送と言われる天皇さんの戦争終結宣言、終戦とは体のいい本当に日本的な言葉、正確な言葉で言うなら敗戦宣言を聞いたときは、「正直ほっとした、これで終わったと」思ったとのこと。本当の苦しみがこれからやってくると言うことを母はまだ知らなかったからなのだが。
私は2歳だった。その日は、どこでどうしていたのかの記憶はない。しかし、その前、多分5月17日か6月9日の空襲のことではないかと思うが、2歳にもならない私は、防空頭巾を要求して自ら防空壕に入った記憶が残っている。あれは明るい時間帯だったはず。遠くで消防のサイレンか何かの音が。
名古屋の空襲は、軍需工場が多かったこともあって、東京よりもすごかったという話がある。それでも何とか生き延びたのは、たまたま運が良かったということなのだろうが。
しかし、実際には運が良かったわけではなく、肉親をこの戦争で失っている。
この肉親を失ったことが、私の人生を大きく曲げたということなのだろう。しかし、それも人生なのかもしれない。
戦争というものは、人の命が失われる、確実に失われる。人を殺さねば、自分が殺されるとばかりに、人を殺すための道具を使って、敵と称される人間を殺す。
その敵と称される人間が、本当にこちらの人間を殺そうと思っているかどうかは関係なく。殺すと思いこまされるように、敵と称される人を憎みように教育されてきている。
しかし、何のために戦争をするのか理解に苦しんでいる。生まれて66年を過ぎても、戦争をして殺しあう意味がいまだに理解できないのである。子供のころから弱い割にはよく喧嘩をしたらしい、公園で同級生と決闘をしたこともあるくらいだが、相手を殺すなんて考えないよ。勝った、負けただけだろう。
いまでも、隣国が攻めてくるから軍隊がいる。何のために攻めてくるのだ?日本人を奴隷にするために攻めてくるのか?太平洋戦争(第2次世界大戦)の末期に、ソ連が一方的に攻め込まれたことがトラウマになっているのか?それとも、大戦開戦の前夜に日本が奇襲攻撃をかけたことを他の国がするということなのだろうか?
まるで、宗教で言う「原罪」と同じ発想だ。昔の親類縁者がなした悪、罪を、まったくそのこととは関係ない私たちにも責任があると説くようなものだ。
江戸時代。仇討は武士の務めであったらしい。親が殺されたら、その仇討ちをする。その仇討ちを相手がする、これを延々と繰り返すことになって、怨恨をいつまでも残す。
こんなのはどっちかが、どこかで断ち切らない限り終わらないだろう。世界観、価値観の違う人間は相いれることはないだろうが、人の命というこの世で一番重いことを考えれば、どこかで、誰かが我慢をしなければならないのだが。
戦争なんて言うのは、いろいろ見、聞く限り馬鹿を見るのは庶民である。戦争に送り出す後ろに人間は命を落とすことは少ない。最前線に出て、見知らぬ相手を殺し、そしてその仲間から殺されるという、その戦争の原因から遠い存在であるはずの庶民が死ぬのである。
攻め込まれて、空襲を受ければ、戦争をしていない非戦闘員がこれまた巻き込まれて死ぬのである。戦争を仕掛けたやつらは、死なない施設の中で生き延びる。
戦争をしたいと思う人間たちは、そういった人間だけで集まって、そこで死闘をすればいいのだ。そして、そこで全員が死ねばいいのだ。そうすれば、そのあとはもう殺し合いもないだろう。殺し合いなど望まない人間をその場に送り込まないでほしいのだ。
戦争で家族を殺され、分断された一人の、ほんの少しだけ戦争の記憶を持つ男のたわごとにすぎないかもしれないけど、なくした者のつらさを背負って生きていることを誰かに知ってもらいたい。
64年前の8月15日 暑い日だったと聞く。
母の話では、通称玉音放送と言われる天皇さんの戦争終結宣言、終戦とは体のいい本当に日本的な言葉、正確な言葉で言うなら敗戦宣言を聞いたときは、「正直ほっとした、これで終わったと」思ったとのこと。本当の苦しみがこれからやってくると言うことを母はまだ知らなかったからなのだが。
私は2歳だった。その日は、どこでどうしていたのかの記憶はない。しかし、その前、多分5月17日か6月9日の空襲のことではないかと思うが、2歳にもならない私は、防空頭巾を要求して自ら防空壕に入った記憶が残っている。あれは明るい時間帯だったはず。遠くで消防のサイレンか何かの音が。
名古屋の空襲は、軍需工場が多かったこともあって、東京よりもすごかったという話がある。それでも何とか生き延びたのは、たまたま運が良かったということなのだろうが。
しかし、実際には運が良かったわけではなく、肉親をこの戦争で失っている。
この肉親を失ったことが、私の人生を大きく曲げたということなのだろう。しかし、それも人生なのかもしれない。
戦争というものは、人の命が失われる、確実に失われる。人を殺さねば、自分が殺されるとばかりに、人を殺すための道具を使って、敵と称される人間を殺す。
その敵と称される人間が、本当にこちらの人間を殺そうと思っているかどうかは関係なく。殺すと思いこまされるように、敵と称される人を憎みように教育されてきている。
しかし、何のために戦争をするのか理解に苦しんでいる。生まれて66年を過ぎても、戦争をして殺しあう意味がいまだに理解できないのである。子供のころから弱い割にはよく喧嘩をしたらしい、公園で同級生と決闘をしたこともあるくらいだが、相手を殺すなんて考えないよ。勝った、負けただけだろう。
いまでも、隣国が攻めてくるから軍隊がいる。何のために攻めてくるのだ?日本人を奴隷にするために攻めてくるのか?太平洋戦争(第2次世界大戦)の末期に、ソ連が一方的に攻め込まれたことがトラウマになっているのか?それとも、大戦開戦の前夜に日本が奇襲攻撃をかけたことを他の国がするということなのだろうか?
まるで、宗教で言う「原罪」と同じ発想だ。昔の親類縁者がなした悪、罪を、まったくそのこととは関係ない私たちにも責任があると説くようなものだ。
江戸時代。仇討は武士の務めであったらしい。親が殺されたら、その仇討ちをする。その仇討ちを相手がする、これを延々と繰り返すことになって、怨恨をいつまでも残す。
こんなのはどっちかが、どこかで断ち切らない限り終わらないだろう。世界観、価値観の違う人間は相いれることはないだろうが、人の命というこの世で一番重いことを考えれば、どこかで、誰かが我慢をしなければならないのだが。
戦争なんて言うのは、いろいろ見、聞く限り馬鹿を見るのは庶民である。戦争に送り出す後ろに人間は命を落とすことは少ない。最前線に出て、見知らぬ相手を殺し、そしてその仲間から殺されるという、その戦争の原因から遠い存在であるはずの庶民が死ぬのである。
攻め込まれて、空襲を受ければ、戦争をしていない非戦闘員がこれまた巻き込まれて死ぬのである。戦争を仕掛けたやつらは、死なない施設の中で生き延びる。
戦争をしたいと思う人間たちは、そういった人間だけで集まって、そこで死闘をすればいいのだ。そして、そこで全員が死ねばいいのだ。そうすれば、そのあとはもう殺し合いもないだろう。殺し合いなど望まない人間をその場に送り込まないでほしいのだ。
戦争で家族を殺され、分断された一人の、ほんの少しだけ戦争の記憶を持つ男のたわごとにすぎないかもしれないけど、なくした者のつらさを背負って生きていることを誰かに知ってもらいたい。