2016年09月27日
仏さんに惚れ込んで。。。7 阿弥陀如来
仏さんに惚れ込んで」とタイトルしながら、惚れ込んだ仏像のことを書いてきた。しかし、仏像はあくまで仏像で、それを崇め奉るとなると、それは”偶像崇拝”なんて言われそうだ。
私は、仏像の前で手をあわせる。とはいうものの、それはその仏像に対しての合掌ではなく、その仏像を製作した仏師に対して、仏の心をいかに伝え、表すかの制作行動とその気持ちに合唱しているのだ。まぁ言うなれば美的表現力に対しての感謝の気持ちと言ってもいいかもしれないが。
しかし、これだけが「仏さんに惚れ込んで」ということではない。実際には仏の教えの中に惚れ込んでいるものもある。その最たるものが阿弥陀如来。
阿弥陀如来の存在は、家が東本願寺の檀家であることで薄々は子供の頃から知っていたようだが、意識なんてすることはなかったよなぁ。。実の父親が本願寺系の僧侶としての資格を持ってはいたというものの、教義をまともに守ろうとしたことで命を落としてしまったと聞いていることで、母親が本願寺のみならず宗教を嫌っていて、私がその道に踏み込まないように画策していたんではないかとすら思う。ということで小学校までは仏さんを見るのは、修学旅行先で見た奈良の大仏さんくらいしか記憶に残っていない。
それが、中学校を浄土宗の宗門の学校に入ったことで、何かにつけ法話やら遠足やらで宗教=文教に関するものに接する機会が多くなった。そして、高校1年正月、学校で成人式があった。3年生が成人式を迎えるのだが、1年の私はそのときの校長の法話に感銘を受けのめり込んでしまった。
そこには仏の名は出てこなかったのだが、記憶に残っているのは「無常」と「無我」である。この時に私は私なりの宗教観とを持つようになって、「無常」と「無我」についても私なりの解釈を持ってしまった。
そんな中でいつもの式典では壇上に阿弥陀如来が鎮座した。意識することはなかったが、そのまま高校を卒業し、浪人の上、大学に行ってしまった。大学で美系を選択。そして3年の時に修学旅行で仏像に接することになった。しかし、この時にもまだ阿弥陀如来への関心はなかった。
実は、阿弥陀如来を意識するようになったのは、ここ15年くらい前のことなのだ。前にも他の記事で書いたことだが、ご先祖さんが旅立つことが多くなり、その葬儀の時、また回忌法要の時、それが多くなって経を耳にすることが多くなってからなのだ。
耳にしたお経、その名は「正信偈」。お経の部類に入るのだろうが、これは仏の残したあ教えではない。仏の残した教えに注釈をつけたような、その教えを信じろという親鸞の書き残したものだ。教行信証の一部と聞いている。
この正信偈を耳にして、何度も聞くうちに「源信」という法然の僧名に気づいてしまった。気づいたことで、なんで葬儀やら法要でみんなで唱和するのかと疑問に思い、親鸞が何を言いたいのかと研究を始めて、その中で阿弥陀如来が法蔵菩薩から悟りを開いて如来になるくだりをいろんな書物で知ることになった。
そして、浄土三部経の翻訳したものを読んだりして、法蔵菩薩の掛けた願が成就したことで、人は皆、浄土に迎えられると書かれていることも知った。
ここから先は、信仰の話になる。その話を信じるか否かは人それぞれだろう。私は、その話が物語だとの理解はしているのだが、その理解でなんかこれまで聞いてきた仏教の教えに納得したような感じになった。(と言って、信仰とはまた違うものだろう)
そして、親鸞研究の中で親鸞の歩いた道を追っかけてであったのが、法界寺の阿弥陀如来だった。そして、浄土三部経の教えと法界寺の阿弥陀如来のマッチングが、私を阿弥陀如来に惚れることに導かれたように思っている。
お読みになった方は、私が何を言おうとしているかわからない方が多いのではないか。わかってもらえるように書くことができない感覚なんだ。難しい、この気持ちを表現するのは。
僧侶の資格を持っていた父は、どんな気持ちでいたのだろうと、今は聞けないもどかしさ。いずれ浄土に行った時、出会えれば聞いてみたいものを思っている。
阿弥陀大好き人間になった私は、阿弥陀如来を見るために、遠路車を飛ばして平泉まで行ったりもしている、結構たくさんの阿弥陀さんを見ているが、ただ来迎のための立ち姿は仏像として好きになれないのだなぁ。。。これでは本当に阿弥陀如来に惚れていることにはならないかもなぁ。
私は、仏像の前で手をあわせる。とはいうものの、それはその仏像に対しての合掌ではなく、その仏像を製作した仏師に対して、仏の心をいかに伝え、表すかの制作行動とその気持ちに合唱しているのだ。まぁ言うなれば美的表現力に対しての感謝の気持ちと言ってもいいかもしれないが。
しかし、これだけが「仏さんに惚れ込んで」ということではない。実際には仏の教えの中に惚れ込んでいるものもある。その最たるものが阿弥陀如来。
阿弥陀如来の存在は、家が東本願寺の檀家であることで薄々は子供の頃から知っていたようだが、意識なんてすることはなかったよなぁ。。実の父親が本願寺系の僧侶としての資格を持ってはいたというものの、教義をまともに守ろうとしたことで命を落としてしまったと聞いていることで、母親が本願寺のみならず宗教を嫌っていて、私がその道に踏み込まないように画策していたんではないかとすら思う。ということで小学校までは仏さんを見るのは、修学旅行先で見た奈良の大仏さんくらいしか記憶に残っていない。
それが、中学校を浄土宗の宗門の学校に入ったことで、何かにつけ法話やら遠足やらで宗教=文教に関するものに接する機会が多くなった。そして、高校1年正月、学校で成人式があった。3年生が成人式を迎えるのだが、1年の私はそのときの校長の法話に感銘を受けのめり込んでしまった。
そこには仏の名は出てこなかったのだが、記憶に残っているのは「無常」と「無我」である。この時に私は私なりの宗教観とを持つようになって、「無常」と「無我」についても私なりの解釈を持ってしまった。
そんな中でいつもの式典では壇上に阿弥陀如来が鎮座した。意識することはなかったが、そのまま高校を卒業し、浪人の上、大学に行ってしまった。大学で美系を選択。そして3年の時に修学旅行で仏像に接することになった。しかし、この時にもまだ阿弥陀如来への関心はなかった。
実は、阿弥陀如来を意識するようになったのは、ここ15年くらい前のことなのだ。前にも他の記事で書いたことだが、ご先祖さんが旅立つことが多くなり、その葬儀の時、また回忌法要の時、それが多くなって経を耳にすることが多くなってからなのだ。
耳にしたお経、その名は「正信偈」。お経の部類に入るのだろうが、これは仏の残したあ教えではない。仏の残した教えに注釈をつけたような、その教えを信じろという親鸞の書き残したものだ。教行信証の一部と聞いている。
この正信偈を耳にして、何度も聞くうちに「源信」という法然の僧名に気づいてしまった。気づいたことで、なんで葬儀やら法要でみんなで唱和するのかと疑問に思い、親鸞が何を言いたいのかと研究を始めて、その中で阿弥陀如来が法蔵菩薩から悟りを開いて如来になるくだりをいろんな書物で知ることになった。
そして、浄土三部経の翻訳したものを読んだりして、法蔵菩薩の掛けた願が成就したことで、人は皆、浄土に迎えられると書かれていることも知った。
ここから先は、信仰の話になる。その話を信じるか否かは人それぞれだろう。私は、その話が物語だとの理解はしているのだが、その理解でなんかこれまで聞いてきた仏教の教えに納得したような感じになった。(と言って、信仰とはまた違うものだろう)
そして、親鸞研究の中で親鸞の歩いた道を追っかけてであったのが、法界寺の阿弥陀如来だった。そして、浄土三部経の教えと法界寺の阿弥陀如来のマッチングが、私を阿弥陀如来に惚れることに導かれたように思っている。
お読みになった方は、私が何を言おうとしているかわからない方が多いのではないか。わかってもらえるように書くことができない感覚なんだ。難しい、この気持ちを表現するのは。
僧侶の資格を持っていた父は、どんな気持ちでいたのだろうと、今は聞けないもどかしさ。いずれ浄土に行った時、出会えれば聞いてみたいものを思っている。
阿弥陀大好き人間になった私は、阿弥陀如来を見るために、遠路車を飛ばして平泉まで行ったりもしている、結構たくさんの阿弥陀さんを見ているが、ただ来迎のための立ち姿は仏像として好きになれないのだなぁ。。。これでは本当に阿弥陀如来に惚れていることにはならないかもなぁ。