2016年12月10日
仏さんに惚れ込んで。。。35 法華寺 十一面観音菩薩
法華寺は、位置的には東大寺の真西にある。東大寺の転害門の信号交差点を西にまっすぐ行くと法華寺の境内に入り込みます。と行っても、塀の外ですが。そこに駐車場があったと記憶してます。距離はちょっとありますが。。。
法華寺は、東大寺が全国の国分寺の総代であるのと同じで、同じ亜的で作られたということで尼寺の総代ということと教えられています。その割には、東大寺に比べると規模はものすごく小さいですが。創建当時は、そう行った女性が軽んじられていたのだろうなぁと思うのですが、聖武天皇の皇后・光明子の発願によるもので、正式名称は「法華滅罪寺」というのだそうです。
この法華寺は3度訪れています。最初は、これまでなんども書いてきた、大学の古美術研究(通称・古美研)の際に、真夏のものすごく暑い日に訪れています。2回目は、正直は悪鬼rとした記憶がないのですが、3回目は大学の教え子たちと訪れています。
法華寺ではやはりメインとしてみることになるのは国宝・十一面観音だろうと思います。拝観は近くまで行けないし、それに畳の上(だったと思い)で下から見上げる状態ですが、私の記憶にあるのは、なぜか口をへの字に曲げたしかめっ面をしたお顔なのです。
そういえば、十一面観音が微笑んでいる顔ってないなぁとも、今思うのですが、なぜ微笑んでいないのだろうと不思議な気持ちでいます。
仏像は、大きいものは特にですが、下から見上げる形になるので、目は釣りあがり、口は笑みを浮かべるように口元は上に向く感じになるはずなんですが、この十一面観音は像高1メートルくらいなのでそんなに大きくはないから、本来は正面から立ち姿で、目線を合わせて見ると微笑んで見るのかもしれませんね、
左の画像は、そんなイメージのものを探して載せました。これでもまだ”への字”かなぁ。
仏像の顔は、結構時代的な流行があると思うけど、この像は平安時代の作なので奈良時代の流行とは違う・・・創建時に十一面観音はあったのか?あったとしたら、どんなお顔だったのかと、興味津々ですね。
転害門は、あまり登場することのない門ですが立派な門です。今はこの門からは入ることはでき買ったと思います。もう20数年位前に近くのペンションに宿泊した折に、朝早く東大寺境内を歩こうとした際に前を通ってます。それに名古屋から法華寺に車で行くときは、伊賀上野(現・伊賀市)で名阪国道を降りて木津川沿いに西に行って東大寺裏から行くと、この交差点を通過することになります。
法華寺は、東大寺が全国の国分寺の総代であるのと同じで、同じ亜的で作られたということで尼寺の総代ということと教えられています。その割には、東大寺に比べると規模はものすごく小さいですが。創建当時は、そう行った女性が軽んじられていたのだろうなぁと思うのですが、聖武天皇の皇后・光明子の発願によるもので、正式名称は「法華滅罪寺」というのだそうです。
この法華寺は3度訪れています。最初は、これまでなんども書いてきた、大学の古美術研究(通称・古美研)の際に、真夏のものすごく暑い日に訪れています。2回目は、正直は悪鬼rとした記憶がないのですが、3回目は大学の教え子たちと訪れています。
法華寺ではやはりメインとしてみることになるのは国宝・十一面観音だろうと思います。拝観は近くまで行けないし、それに畳の上(だったと思い)で下から見上げる状態ですが、私の記憶にあるのは、なぜか口をへの字に曲げたしかめっ面をしたお顔なのです。
そういえば、十一面観音が微笑んでいる顔ってないなぁとも、今思うのですが、なぜ微笑んでいないのだろうと不思議な気持ちでいます。
仏像は、大きいものは特にですが、下から見上げる形になるので、目は釣りあがり、口は笑みを浮かべるように口元は上に向く感じになるはずなんですが、この十一面観音は像高1メートルくらいなのでそんなに大きくはないから、本来は正面から立ち姿で、目線を合わせて見ると微笑んで見るのかもしれませんね、
左の画像は、そんなイメージのものを探して載せました。これでもまだ”への字”かなぁ。
仏像の顔は、結構時代的な流行があると思うけど、この像は平安時代の作なので奈良時代の流行とは違う・・・創建時に十一面観音はあったのか?あったとしたら、どんなお顔だったのかと、興味津々ですね。