2023年05月09日
仏像を考える その2 如来と菩薩
前回は、春たけなわで、秘仏公開の多いことに因んで、かねてより思っていることを、言いたい放題になってるけど書きました。多分に関係者からはご批判を受けることになるのかもと、覚悟はできてませんが・・・・
今回は、仏像の種類、特に如来と菩薩について考えます。と言うよりも、思っていることを書きます。
実のところ、仏像の世界はかなり奥が深いようで、それを完全にマスターするなんてことは難しいだろうと思っています。
私が知るところでは、仏像、いや仏さんと言われるものには位があるようです。一般的に言われているのは
如来、菩薩、明王、天部 ですが、このほかに羅漢というものがあるのですが、これが一般的には前記した4つとは違うのかな?と思うのですが、ネットでの記述を見るかぎり「その他」という分流をしているものが多いと感じます。
これまた実のところ、私は明王、天部にはあまり大きな興味を持っていない罰当たりなのです。ということで、今回扱うのは如来と菩薩ということになります。
仏さんの位について、私が初めてその知識を得たのは、中学校の遠足で出かけた薬師寺で、当時まだ主任という役職にあった(と記憶してます)、後に管主になられた高田好胤師が、まだ仮金堂の中に収まっていた薬師三尊を前に、如来と菩薩の違いを解説してもらってのことです。
仮金堂の階段を上がったところ、仮金堂の外で、あの小柄な高田好胤師のお話を聞きました。しかし、覚えているのは「中央が薬師如来で、左右が菩薩さんです。如来さんは悟りを開かれた人で、菩薩さんはまだ修行のみで悟りを開く前の人です。」と。まあ65年以上も前の話なので、正確には言葉は覚えていませんが、とにかく「如来は悟りを開いた、菩薩は修行の身」ということだけはしっかりを覚えています。この記憶が、のちの私の仏像を見る、彫る時の中で生きています。
まず「菩薩」さんについて
前記した高田師のお話の記憶によれば、悟りを開く前の修行の身であるとのことです。その修行の段階で、それぞれに願を発します。それが阿弥陀如来の場合は菩薩時代には”法蔵”という名で48の誓願を発し、それを成就したこと=悟りを開いたことで阿弥陀如来になったとのことです。また薬師如来の場合も菩薩時代(名前探したけれど見つからず残念)に12の大願を発し、成就したことで薬師如来となったと記載されているのだと思います。
これらのことは、いわゆる”お経”としての書き物、例えば阿弥陀如来の四十八願に関しては「仏説阿弥陀経」に、薬師如来の十二の大願場合は”薬師経”(正式には「薬師瑠璃光如来本願功徳経」に書かれているとのことです。
ここで、お経に関しては、私は、ある種の物語と解釈しています。キリスト教の聖書、旧約聖書も新約聖書も物語で、仏教のお経の多くが物語だと思っています。私が読んだ(わかりやすくしたもの)の中では、釈迦が弟子を相手に語っている姿が描かれています。
この菩薩を形にした菩薩像。その姿は、多分に釈迦が出家する前の王族の姿を模して、きんきらしているものが多いと聞いています。確かに、多くの菩薩像はキンキラキンの冠かぶって、体にはきんきらしたアクセアリーを身につけてますよねぇ。。(ただ、地蔵菩薩は頭剃髪でキンキラしてないですけどねぇ。頭をキラキラに光らせたら面白いと言ったら叱られるかな?)
菩薩の中で有名なのは、阿弥陀如来の脇寺としての”観音菩薩”と勢至菩薩”、薬師如来の脇侍の”日光菩薩と月光菩薩”で、このほかにも多くの菩薩があり、地蔵菩薩ものその一つ、そして弥勒菩薩などなどたくさんの菩薩=修行の身の仏さんがいるようです。
「如来」さんについて
これまた高田師のお話の記憶によれば、悟りを開いた人ということのようです。ここで注目して欲しいのは「人」ということです。如来さんは人間なのです。仏は、人間の成れの果てです。キリスト教やユダヤ教などの絶対神とは意味を異にしているようです。
そして、如来になるには上記したように悟りを開かねばなりませんし、その悟りのために誓願、大願などを発し(公言とでもいうのかな?)、それを成就させてたことで悟りを得たとして如来の位に上がります。
これを逆に考えると、仏教の教えの中では、如来が世に存在することは、如来の前身の菩薩時代の願が成就したということになるわけです。成就=悟りを開くということなのだと私は解釈しています。
この辺りは、それぞれ「菩薩さんについて」の記述の中で出典のお経の名を書いています。
如来さんを形で表した仏像の姿は、頭は螺髪でキンキラキンの飾りはなく、衣は薄い物を纏っています。ただ、密教の中に出てくる”大日如来”(私が好きでない仏さん)だけは、宇宙を司っているので仏の中で最高位にあるということで、キンキラキンの菩薩同様、結構ド派手な姿をしています。
私としては好きではない”大日如来”ですが、宇宙を司るということは、ひょっとしたらキリスト教などの絶対神に近い存在なのだろうか?密教の教えをほとんど知らない私には不明なことで大恥なのだろうと思います。
余談になりますが、前にも書いたように、仏教の”お経”は物語が多いと思っています。経典を開くと漢字の羅列で、あれをお坊さんたちは音読しているので、何が書いてあるかなんて分かりはしないのです。たまに、それらを翻訳した書き物に出会うこともありますが。。。。
”お経”は、決して”お教”ではありません。まぁ釈迦の”教え”とも言えるかと思いますが、内容は釈迦=世尊が弟子に物語を通じて真実を解いているのだろうと思います。
漢字の羅列の図は、仏説無量寿経の一部です。黄色の文字になっている「阿難」というのは釈迦の弟子の一人で、この部分の翻訳を読むと、阿難と世尊の会話が記されているようです。
お経ですが、こんな漢字の羅列読んでも意味不明だし、音読した物でも意味詰位だし、キリスト教の聖書のように現代語に翻訳した物で説を聞かせてもらえるとありがたいと思いませんか?
今回は、仏像の種類、特に如来と菩薩について考えます。と言うよりも、思っていることを書きます。
実のところ、仏像の世界はかなり奥が深いようで、それを完全にマスターするなんてことは難しいだろうと思っています。
私が知るところでは、仏像、いや仏さんと言われるものには位があるようです。一般的に言われているのは
如来、菩薩、明王、天部 ですが、このほかに羅漢というものがあるのですが、これが一般的には前記した4つとは違うのかな?と思うのですが、ネットでの記述を見るかぎり「その他」という分流をしているものが多いと感じます。
これまた実のところ、私は明王、天部にはあまり大きな興味を持っていない罰当たりなのです。ということで、今回扱うのは如来と菩薩ということになります。
仏さんの位について、私が初めてその知識を得たのは、中学校の遠足で出かけた薬師寺で、当時まだ主任という役職にあった(と記憶してます)、後に管主になられた高田好胤師が、まだ仮金堂の中に収まっていた薬師三尊を前に、如来と菩薩の違いを解説してもらってのことです。
仮金堂の階段を上がったところ、仮金堂の外で、あの小柄な高田好胤師のお話を聞きました。しかし、覚えているのは「中央が薬師如来で、左右が菩薩さんです。如来さんは悟りを開かれた人で、菩薩さんはまだ修行のみで悟りを開く前の人です。」と。まあ65年以上も前の話なので、正確には言葉は覚えていませんが、とにかく「如来は悟りを開いた、菩薩は修行の身」ということだけはしっかりを覚えています。この記憶が、のちの私の仏像を見る、彫る時の中で生きています。
まず「菩薩」さんについて
前記した高田師のお話の記憶によれば、悟りを開く前の修行の身であるとのことです。その修行の段階で、それぞれに願を発します。それが阿弥陀如来の場合は菩薩時代には”法蔵”という名で48の誓願を発し、それを成就したこと=悟りを開いたことで阿弥陀如来になったとのことです。また薬師如来の場合も菩薩時代(名前探したけれど見つからず残念)に12の大願を発し、成就したことで薬師如来となったと記載されているのだと思います。
これらのことは、いわゆる”お経”としての書き物、例えば阿弥陀如来の四十八願に関しては「仏説阿弥陀経」に、薬師如来の十二の大願場合は”薬師経”(正式には「薬師瑠璃光如来本願功徳経」に書かれているとのことです。
ここで、お経に関しては、私は、ある種の物語と解釈しています。キリスト教の聖書、旧約聖書も新約聖書も物語で、仏教のお経の多くが物語だと思っています。私が読んだ(わかりやすくしたもの)の中では、釈迦が弟子を相手に語っている姿が描かれています。
この菩薩を形にした菩薩像。その姿は、多分に釈迦が出家する前の王族の姿を模して、きんきらしているものが多いと聞いています。確かに、多くの菩薩像はキンキラキンの冠かぶって、体にはきんきらしたアクセアリーを身につけてますよねぇ。。(ただ、地蔵菩薩は頭剃髪でキンキラしてないですけどねぇ。頭をキラキラに光らせたら面白いと言ったら叱られるかな?)
菩薩の中で有名なのは、阿弥陀如来の脇寺としての”観音菩薩”と勢至菩薩”、薬師如来の脇侍の”日光菩薩と月光菩薩”で、このほかにも多くの菩薩があり、地蔵菩薩ものその一つ、そして弥勒菩薩などなどたくさんの菩薩=修行の身の仏さんがいるようです。
「如来」さんについて
これまた高田師のお話の記憶によれば、悟りを開いた人ということのようです。ここで注目して欲しいのは「人」ということです。如来さんは人間なのです。仏は、人間の成れの果てです。キリスト教やユダヤ教などの絶対神とは意味を異にしているようです。
そして、如来になるには上記したように悟りを開かねばなりませんし、その悟りのために誓願、大願などを発し(公言とでもいうのかな?)、それを成就させてたことで悟りを得たとして如来の位に上がります。
これを逆に考えると、仏教の教えの中では、如来が世に存在することは、如来の前身の菩薩時代の願が成就したということになるわけです。成就=悟りを開くということなのだと私は解釈しています。
この辺りは、それぞれ「菩薩さんについて」の記述の中で出典のお経の名を書いています。
如来さんを形で表した仏像の姿は、頭は螺髪でキンキラキンの飾りはなく、衣は薄い物を纏っています。ただ、密教の中に出てくる”大日如来”(私が好きでない仏さん)だけは、宇宙を司っているので仏の中で最高位にあるということで、キンキラキンの菩薩同様、結構ド派手な姿をしています。
私としては好きではない”大日如来”ですが、宇宙を司るということは、ひょっとしたらキリスト教などの絶対神に近い存在なのだろうか?密教の教えをほとんど知らない私には不明なことで大恥なのだろうと思います。
余談になりますが、前にも書いたように、仏教の”お経”は物語が多いと思っています。経典を開くと漢字の羅列で、あれをお坊さんたちは音読しているので、何が書いてあるかなんて分かりはしないのです。たまに、それらを翻訳した書き物に出会うこともありますが。。。。
”お経”は、決して”お教”ではありません。まぁ釈迦の”教え”とも言えるかと思いますが、内容は釈迦=世尊が弟子に物語を通じて真実を解いているのだろうと思います。
漢字の羅列の図は、仏説無量寿経の一部です。黄色の文字になっている「阿難」というのは釈迦の弟子の一人で、この部分の翻訳を読むと、阿難と世尊の会話が記されているようです。
お経ですが、こんな漢字の羅列読んでも意味不明だし、音読した物でも意味詰位だし、キリスト教の聖書のように現代語に翻訳した物で説を聞かせてもらえるとありがたいと思いませんか?