2010年11月05日
10年秋の平泉への旅 22 平泉・中尊寺その7
金色堂を見て元の広場に戻り、順路としては左に行くのが順当で、先のチャイニーズの団体が先に行っているので抵抗があるが、居たしかたない。左に折れて坂を少し上って行く。
左に経堂がある。多分いろいろの経典を収めた堂なのだろうが、どういった経典が納められていたのか?本来この中尊寺は、平安末期に都と対比されるくらいの文化を持ち栄華を誇ったところで、当時の末法思想待っただかなの浄土思想から行けば、そうした関連の今日を収めていたのだろうとは思うが。今は????
この経堂の先には、金色堂を覆っていた昔の覆堂がある。その手前に芭蕉の銅像が建っている。何でもかんでも、関連の人の銅像を建てたがるのには、正直私は違和感を感じるが、まぁここに来たというアリバイのためにショットしておかなくては。。。
中央に立っているのが芭蕉です。
実は、この芭蕉の銅像にはチャイニーズたちは興味を示さなかったようだが、その右にある旧覆堂はガイドが説明しているからかたむろしていた。そのために、こちらは入ることができなくて… ブツブツ
彼らが立ち去るのを待つことかなり長い時間。やっといなくなったところで旧覆堂の中に入る。
かなり荒れてますね。この中に入っていたのでは、あの金色堂が崩壊寸前にまでボロボロになるのは理解できる。それに、かなりこじんまりしているのは、本当に金色堂に覆いをかけただけだからなのだろう。
この旧覆堂の北に大長寿院という院がある。他に人があまりはいていかないのはなぜと思いながら入って行ったら、そうどなぁ、ここは紅葉にならないと人は入らないだろうと思った。が、一人の女性が正面でお参りをされていた。
写真は、紅葉を想定したものだけど、緑ではねぇ。。。
この隣には、釈迦堂があるが、このショットを見る限りまだ霧の中、霧雨の中といった感じですね。
このショットも色づきがまだなので映えませんね。残念です。
左に経堂がある。多分いろいろの経典を収めた堂なのだろうが、どういった経典が納められていたのか?本来この中尊寺は、平安末期に都と対比されるくらいの文化を持ち栄華を誇ったところで、当時の末法思想待っただかなの浄土思想から行けば、そうした関連の今日を収めていたのだろうとは思うが。今は????
この経堂の先には、金色堂を覆っていた昔の覆堂がある。その手前に芭蕉の銅像が建っている。何でもかんでも、関連の人の銅像を建てたがるのには、正直私は違和感を感じるが、まぁここに来たというアリバイのためにショットしておかなくては。。。
中央に立っているのが芭蕉です。
実は、この芭蕉の銅像にはチャイニーズたちは興味を示さなかったようだが、その右にある旧覆堂はガイドが説明しているからかたむろしていた。そのために、こちらは入ることができなくて… ブツブツ
彼らが立ち去るのを待つことかなり長い時間。やっといなくなったところで旧覆堂の中に入る。
かなり荒れてますね。この中に入っていたのでは、あの金色堂が崩壊寸前にまでボロボロになるのは理解できる。それに、かなりこじんまりしているのは、本当に金色堂に覆いをかけただけだからなのだろう。
この旧覆堂の北に大長寿院という院がある。他に人があまりはいていかないのはなぜと思いながら入って行ったら、そうどなぁ、ここは紅葉にならないと人は入らないだろうと思った。が、一人の女性が正面でお参りをされていた。
写真は、紅葉を想定したものだけど、緑ではねぇ。。。
この隣には、釈迦堂があるが、このショットを見る限りまだ霧の中、霧雨の中といった感じですね。
このショットも色づきがまだなので映えませんね。残念です。