2011年09月13日
○○してもらっていいですか?
最近の若者言葉のだろうが、「○○してもらっていいですか?」と、なにかの依頼のときにいわれる言葉がある。
本来この言葉は『○○してください』のときに使われている。それがここ10数年くらい前から『もらっていいですか?』と変わってきている。
この『もらっていいですか?』は相手に対して許可を求めるもので依頼する言葉ではない。なぜ素直に『してください』とお願いしないンか不思議だ。“お願い”と“許可を求める”では全く責任の所在が異なるのだ。
「してください」はそん言葉を吐いた本人が持つもので、「してもらっていいですか?」は言われたほうの判断ということでこっち側に責任が出てくる。いいのか悪いのかの判断基準がないとその言葉に返答することができないこともある。依頼されれば了承しようもあるが、許可を与える場合はかなり考えてしまうことも多い。
ある所で、これでけんか状態になったことがある。
あることをしなくてはいけないことになったのだが、相手はそのすべきことの詳細を話すこともなく『してもらっていいですか?』といってきた。しかし、なぜそれをしなければいけないかの説明もないので、その問いかけには応えることができなかった。判断ができないから「必要があればする、なければしない」と答えたのだが今度は相手が困った。
という経過なんだが、最終的には相手が説明責任を果たしていないということに気づいていなくて、それを指摘されて怒りだしてしまったのだ。若者言葉と書いたけど、若者と言える年齢ではないのが。。。
多分に、そういった言葉の使い方をする人たちは、『丁寧語』のつもりでいるんドアろうが、丁寧になっているわけでもなく、責任の所在をあいまいにしているということに気づいていないようだ。
よく若者言葉として言われるのは「お名前頂戴できますか?」「○円からお預かりします」なんていうのがある。
前者は名前をあげたら私の名前なくなるではないか?本来は「お名前をお教えいただけませんか?」のはずなのだが、後者は「○円お預かりしました」でいいのだが。どこかのコンサルが、アメリカあたりのコンサルマニュアルを翻訳したときに、まともな日本語が話せない連中がこうした言葉を生み出してしまったのだろう。
よく聞くもので「頑張りたいと思います」。 これも「頑張ります」でいいのになんで『思います』がつくのだろう。それに『○たい』という願望まで入っている。つまりは願望を思うだけなのであって、頑張ることはないのだろう。これも曖昧言葉だと私は思っている。
こういう言葉を、何かを責任の所在を明らかにしなければいけない職業の人間が、何も考えもぜずに使っていることには背筋が寒くなる思いだ。日本語の、国語の教科書は一体どうなっているんドアろう。おそらく教科書は、こんなことはないとは思うのが、もしなっていたら、この先どうなるのだ????
本来この言葉は『○○してください』のときに使われている。それがここ10数年くらい前から『もらっていいですか?』と変わってきている。
この『もらっていいですか?』は相手に対して許可を求めるもので依頼する言葉ではない。なぜ素直に『してください』とお願いしないンか不思議だ。“お願い”と“許可を求める”では全く責任の所在が異なるのだ。
「してください」はそん言葉を吐いた本人が持つもので、「してもらっていいですか?」は言われたほうの判断ということでこっち側に責任が出てくる。いいのか悪いのかの判断基準がないとその言葉に返答することができないこともある。依頼されれば了承しようもあるが、許可を与える場合はかなり考えてしまうことも多い。
ある所で、これでけんか状態になったことがある。
あることをしなくてはいけないことになったのだが、相手はそのすべきことの詳細を話すこともなく『してもらっていいですか?』といってきた。しかし、なぜそれをしなければいけないかの説明もないので、その問いかけには応えることができなかった。判断ができないから「必要があればする、なければしない」と答えたのだが今度は相手が困った。
という経過なんだが、最終的には相手が説明責任を果たしていないということに気づいていなくて、それを指摘されて怒りだしてしまったのだ。若者言葉と書いたけど、若者と言える年齢ではないのが。。。
多分に、そういった言葉の使い方をする人たちは、『丁寧語』のつもりでいるんドアろうが、丁寧になっているわけでもなく、責任の所在をあいまいにしているということに気づいていないようだ。
よく若者言葉として言われるのは「お名前頂戴できますか?」「○円からお預かりします」なんていうのがある。
前者は名前をあげたら私の名前なくなるではないか?本来は「お名前をお教えいただけませんか?」のはずなのだが、後者は「○円お預かりしました」でいいのだが。どこかのコンサルが、アメリカあたりのコンサルマニュアルを翻訳したときに、まともな日本語が話せない連中がこうした言葉を生み出してしまったのだろう。
よく聞くもので「頑張りたいと思います」。 これも「頑張ります」でいいのになんで『思います』がつくのだろう。それに『○たい』という願望まで入っている。つまりは願望を思うだけなのであって、頑張ることはないのだろう。これも曖昧言葉だと私は思っている。
こういう言葉を、何かを責任の所在を明らかにしなければいけない職業の人間が、何も考えもぜずに使っていることには背筋が寒くなる思いだ。日本語の、国語の教科書は一体どうなっているんドアろう。おそらく教科書は、こんなことはないとは思うのが、もしなっていたら、この先どうなるのだ????