2007年10月27日
デジカメ画像の編集
デジカメの撮影についての話題がありますが、私のように古いデジカメは機能的にゴチャゴチャいじるのが面倒。そこで、私の場合は、解像度や露出など気にしないで取ってきて、画像編集ソフトでいじってます。
市販にはPhotoShopなどという高額、高機能のソフトもありますが、そこまで必要ないという方はフリーの編集ソフトがあるので、それをお使いになるのも一考かと思います。
右の画像は、オープンソースの画像ソフトで、無料で使用できます。PhotoShopになれた片には操作が面倒ですが、編集機能はかなり高いものがあるので、編集結果はPhotoShopに劣らないものを作ることが出来ると思います。
ダウンロード関連サイト : http://www.geocities.jp/gimproject/gimp2.0.html
(このページには 使い方などもあります。)
オリジナル
GIMPで処理a
GIMPで処理b
あくまでもご参考というレベルです。
市販にはPhotoShopなどという高額、高機能のソフトもありますが、そこまで必要ないという方はフリーの編集ソフトがあるので、それをお使いになるのも一考かと思います。
右の画像は、オープンソースの画像ソフトで、無料で使用できます。PhotoShopになれた片には操作が面倒ですが、編集機能はかなり高いものがあるので、編集結果はPhotoShopに劣らないものを作ることが出来ると思います。
ダウンロード関連サイト : http://www.geocities.jp/gimproject/gimp2.0.html
(このページには 使い方などもあります。)
オリジナル
GIMPで処理a
GIMPで処理b
あくまでもご参考というレベルです。
2007年10月27日
2007年10月27日
京都を歩く 07年10月 六角堂=頂法寺
六角堂は、前にも書いたように「生花発祥」の地である。そんな関係から、池坊で行事があるときなどは、女性がいっぱいということもあった。
今回は、お遍路さんのイメージの団体さんが一組、ご夫婦連れが2組、若い女性の3人グループが一組、そして私のように独り者の男性が二人。団体さんは、なんやら経を読んでおられた、途中から聞いたのだが多分あれは『般若心経』だろう。
私は、ここへ来るのはもう何度目だろう。回数はもう覚えていない、とにかく10回を越えていることは確かだ。来るたびにいろんなものに出会うのだが、今回は特にこれといったものなかったものの、久しぶりに線香を上げてきた。
親鸞がここで「女犯偈」の無告を請けたとかいても、一般の人には「なんのこっちゃ」といわれることだと思う。親鸞はここに通いつめて、ある日の明け方夢を見たわけだ。それが親鸞の生涯に大きな意味を持つことになるというもの。
この寺は、聖徳太子の建立という縁起になっているが、まあ信ずることは難しい。時代があまりにも違いすぎる。聖徳太子の時代には、京都=平安京は生まれる200年以上前、都市の形もなかっただろう。
六角道は、京都の中心といわれている。京都の中心というと、平安京の中心と思いがちだが、平安京の東西の中心は、現在の千本通りになるので、二条城の西まで移動する。ここでいう京都は、秀吉の都市計画によるものかもしれないが、現在の町並みに近いものであるらしいが、ほんとの中心というのは疑わしい。しかし、この寺の本堂の前(南)には『へそ石』なるものがある。
よく気をつけていないと見逃すことになる。正面の門から本堂に向かって進み、本堂の手前右側にある。 京都のへそと信じるか否かは、見た人の気持ちしだいです。
今回は、お遍路さんのイメージの団体さんが一組、ご夫婦連れが2組、若い女性の3人グループが一組、そして私のように独り者の男性が二人。団体さんは、なんやら経を読んでおられた、途中から聞いたのだが多分あれは『般若心経』だろう。
私は、ここへ来るのはもう何度目だろう。回数はもう覚えていない、とにかく10回を越えていることは確かだ。来るたびにいろんなものに出会うのだが、今回は特にこれといったものなかったものの、久しぶりに線香を上げてきた。
親鸞がここで「女犯偈」の無告を請けたとかいても、一般の人には「なんのこっちゃ」といわれることだと思う。親鸞はここに通いつめて、ある日の明け方夢を見たわけだ。それが親鸞の生涯に大きな意味を持つことになるというもの。
この寺は、聖徳太子の建立という縁起になっているが、まあ信ずることは難しい。時代があまりにも違いすぎる。聖徳太子の時代には、京都=平安京は生まれる200年以上前、都市の形もなかっただろう。
六角道は、京都の中心といわれている。京都の中心というと、平安京の中心と思いがちだが、平安京の東西の中心は、現在の千本通りになるので、二条城の西まで移動する。ここでいう京都は、秀吉の都市計画によるものかもしれないが、現在の町並みに近いものであるらしいが、ほんとの中心というのは疑わしい。しかし、この寺の本堂の前(南)には『へそ石』なるものがある。
よく気をつけていないと見逃すことになる。正面の門から本堂に向かって進み、本堂の手前右側にある。 京都のへそと信じるか否かは、見た人の気持ちしだいです。