2009年12月12日
名古屋市交通局 給料削減に思う
昨日の夕刊だったか、名古屋市交通局の職員給与の減額が書かれていた。
役人の給与については、いろいろ問題が多い。民間よりも平均的に高い、外部委託したほうが安いということがこれを完ぺきに示している。外部委託すると安く済むということは、それだけ民間のほうが給与が安いということが目に見えて明らかなのだが、こうしたことが論議されることはない。
大体が高すぎる。減額するというと、大体が自治労の連中が抵抗する。そしてそのバックを受けている自治体の議員たちがその反対に抵抗すると支持を受けられなくなるので減額になかなか賛成しないし、そんな条例を認めることも少ない。今回は労使合意ということなので珍しいことと思っているが、減額には賛成である。
しかし、名古屋市交通局の職員たち、これは幹部から一般職員まで含めてすべてに対して言いたいことがある。あなたたちは、四六時中企業努力をしているのか?と。毎度毎度、新瑞橋のバスターミナルで思うことは、真昼間、太陽がさんさんと輝いていても、バスターミナルの蛍光灯すべてが点灯されたままなのだ。屋内なら必要と思われるところもあろう。しかし、新瑞橋の場合は屋外である。昼間は日食やとんでもない曇天でもない限り蛍光灯の明かりは必要ないのである。この蛍光灯の点灯をやめるだけでおそらく年間何十万という経費が節減できるはず。 蛍光灯の無駄な点灯は、バスの中そのものにも言える。市中を走るバスの中は、昼間は店頭の必要性はまずない。名古屋駅やオアシス21のバスターミナルなどでは多少暗いだろうから必要かもしれないが、屋外の市街路を走る時は必要ないのである。今点灯をやめることでバッテリーへの電力供給は減らせるはず。エンジンの負担は微々たるものかもしれないが減らせることができる。当然燃料費が減るだろう。
こうした、外部から見ての無駄は目に見えるものは本当に氷山の一角だろうと思う。そういった無駄を省くという企業努力を交通局職員はしているのだろうか?
市の財政が赤字。それはとりもなおさず赤字補てんは市民の税金からということになる。職員は、自分の懐が痛まないからと、無駄を経ぜんと見逃しているのだろう。
一日も早く、そうしたぬるま湯から脱却してほしいものだ。
役人の給与については、いろいろ問題が多い。民間よりも平均的に高い、外部委託したほうが安いということがこれを完ぺきに示している。外部委託すると安く済むということは、それだけ民間のほうが給与が安いということが目に見えて明らかなのだが、こうしたことが論議されることはない。
大体が高すぎる。減額するというと、大体が自治労の連中が抵抗する。そしてそのバックを受けている自治体の議員たちがその反対に抵抗すると支持を受けられなくなるので減額になかなか賛成しないし、そんな条例を認めることも少ない。今回は労使合意ということなので珍しいことと思っているが、減額には賛成である。
しかし、名古屋市交通局の職員たち、これは幹部から一般職員まで含めてすべてに対して言いたいことがある。あなたたちは、四六時中企業努力をしているのか?と。毎度毎度、新瑞橋のバスターミナルで思うことは、真昼間、太陽がさんさんと輝いていても、バスターミナルの蛍光灯すべてが点灯されたままなのだ。屋内なら必要と思われるところもあろう。しかし、新瑞橋の場合は屋外である。昼間は日食やとんでもない曇天でもない限り蛍光灯の明かりは必要ないのである。この蛍光灯の点灯をやめるだけでおそらく年間何十万という経費が節減できるはず。 蛍光灯の無駄な点灯は、バスの中そのものにも言える。市中を走るバスの中は、昼間は店頭の必要性はまずない。名古屋駅やオアシス21のバスターミナルなどでは多少暗いだろうから必要かもしれないが、屋外の市街路を走る時は必要ないのである。今点灯をやめることでバッテリーへの電力供給は減らせるはず。エンジンの負担は微々たるものかもしれないが減らせることができる。当然燃料費が減るだろう。
こうした、外部から見ての無駄は目に見えるものは本当に氷山の一角だろうと思う。そういった無駄を省くという企業努力を交通局職員はしているのだろうか?
市の財政が赤字。それはとりもなおさず赤字補てんは市民の税金からということになる。職員は、自分の懐が痛まないからと、無駄を経ぜんと見逃しているのだろう。
一日も早く、そうしたぬるま湯から脱却してほしいものだ。
2009年12月12日
30人31脚 2009
毎年殆ど欠かさず見ているこの番組。私はこういう一見おばかに見えるものが大すくなんです。教育ママの多いところでは、こんなことをしようものなら「勉強に差し支える」と大騒ぎになるだろう。
私は、そういったママゴンたちのほうが何も分かっていないと思う。いくら勉強ができていい学校に進学して精神的にカタワになるよりも、集団で何か一つに向けて頑張って、その結果人との和をもつことの大切さを知ってもらうほうがどれだけ先の人生にどれだけいいことか。
スポーツの世界で、得意集団でするスポーツと、個人技でするスポーツがある。私は中学時代バスケットボールをしていた。これは個人技だけでは勝つことが難しいスポーツでもある。個人技のスポーツをした人と、団体競技をした人では、かなり精神構造に差があるように思える。
チームとしてものを考えることは、他の人のことを考えないと事は成り立たない。個人プレーのものは自分がよければいいのである。これらは極論なのを承知してほしいが、その極論の部分が長い人生の中でいろいろと差が出てくるところが多いと思っている。
すべてお人がこれに当てはまるわけではないが、私はできることならば小学校、中学校ではできるだけチームプレーのスポーツを子供たちにやってほしいと思っている。
この30人31脚は、全員の気持ちがそろわないと絶対にいいタイムは出せない。それは、クラス全員が一丸となって取り組まないといけない。そこから四方田地とのいろんな関係を覚えていくと思う。
今回の全国大会で準決勝で負けたチームのクラスメイトが、抱き合っておたい愛の気持ちをたたえていたが、こうしたことの思いはこの先の長い人生の心の支えになるだろうと思う。
ただ、一つ心配なのは、とちゅうで転倒者が出て敗退したチームのことだ。転倒した子供が責任をうんぬんされなければいいともう。よもやそんなことにはならないかとは思うが…
私は、そういったママゴンたちのほうが何も分かっていないと思う。いくら勉強ができていい学校に進学して精神的にカタワになるよりも、集団で何か一つに向けて頑張って、その結果人との和をもつことの大切さを知ってもらうほうがどれだけ先の人生にどれだけいいことか。
スポーツの世界で、得意集団でするスポーツと、個人技でするスポーツがある。私は中学時代バスケットボールをしていた。これは個人技だけでは勝つことが難しいスポーツでもある。個人技のスポーツをした人と、団体競技をした人では、かなり精神構造に差があるように思える。
チームとしてものを考えることは、他の人のことを考えないと事は成り立たない。個人プレーのものは自分がよければいいのである。これらは極論なのを承知してほしいが、その極論の部分が長い人生の中でいろいろと差が出てくるところが多いと思っている。
すべてお人がこれに当てはまるわけではないが、私はできることならば小学校、中学校ではできるだけチームプレーのスポーツを子供たちにやってほしいと思っている。
この30人31脚は、全員の気持ちがそろわないと絶対にいいタイムは出せない。それは、クラス全員が一丸となって取り組まないといけない。そこから四方田地とのいろんな関係を覚えていくと思う。
今回の全国大会で準決勝で負けたチームのクラスメイトが、抱き合っておたい愛の気持ちをたたえていたが、こうしたことの思いはこの先の長い人生の心の支えになるだろうと思う。
ただ、一つ心配なのは、とちゅうで転倒者が出て敗退したチームのことだ。転倒した子供が責任をうんぬんされなければいいともう。よもやそんなことにはならないかとは思うが…
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