2023年04月15日
仏像を彫る なぜ? その2・親鸞研究から円空仏にたどり着く
我が家(浄土真宗の檀家)の法要の読経(「正信偈」の唱和)の中で「源信」(=法然)と出会ったために、とうとう親鸞研究を始めることになってしまいました。
まずは、親鸞が生まれたと言われているところから始まり、承元の法難で流された上越の親鸞上陸記念堂、長く住んだ関東の拠点、茨城県笠間市の稲田などなど、それに加えて浄土真宗十派の本山をほとんど見て回ったモノです。
その最初に訪れたのが親鸞誕生の地と言われいている京都市山科区日野の法界寺です。貧乏旅行なので名古屋からJRの快速を乗り継いで、JR山科から地下鉄で小野に行き、バスに乗り換えて近くの石田大山まで行き、そこから15分くらい歩いたかな?もう疲れ切ったところで、食事処にたどり着いて昼間し、その後に法界寺について、御住職に阿弥陀堂を開けていただいて、国宝の阿弥陀如来坐像の前に座り、あの丈六の大きい阿弥陀如来坐像を見上げて、思わず「来て良かった」と思ったものです。平等院の阿弥陀如来に似てはいるけど、それにくらべると法界寺のそれはかなり童顔で柔和なお顔でした。心からほっとしたのでしょう、「来て良かった」と思ったのは。その気持ちでマジマジと阿弥陀仏を見上げたものです。
法界寺にはそれから10数年、年に1回以上拝観に訪れています。
実は私が仏像をじっと見つめたというのは2度目です。最初は中学の遠足でいった奈良中宮寺の弥勒菩薩(いまは「菩薩半跏思惟像・伝 弥勒菩薩」と言われているようです)に出会ったとき、その像の前に座り込んでしまって、じ〜〜と見つけていたようです。遠足なので時間の関係で長くはできなかったのですが、見学時間の大半を座っていたようです。
惚れ込んだ仏さん、いや仏像に出会ったのですが、中宮寺でも法界寺でも全く仏像を彫ることになるなんてことは思ってもみなかったのです。
大学時代の古美術研究旅行の流れから、仏像は古美術として見ていたのです。仏像を古美術として見るのは、岡倉天心やフェノロサのおかげで、明治時代のはじめにあった廃仏毀釈のせいで、打ち捨てられていた仏像たち、あの有名な阿修羅像ですら腕が折れたりなどと、かなり悲惨な状態を、古文化、古美術として岡倉天心、フェノロサのお陰で仏像が復活し、信仰の対象から、美術品として見る機会を与えられました。私自身、その流れの中で仏像を見ていたわけです。
親鸞研究を始めて、仏教と言っても浄土真宗の裏側を見て、お経と言われるものの中身もある程度知って、その中で阿弥陀如来の存在と、阿弥陀如来の前身・法蔵菩薩の48願を知り、その考え方に興味を持ったのです。最終的には、浄土宗、浄土真宗で言われる「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽にいけるという考えを面白いなぁと思ったのです。
この”「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽にいける”というのが、”救い”という意味と言われているらしいのですが、私はそれを信じるということはありません。この点を書くとまた一冊の本を書くくらい書くことになるので割愛しますが、とにかく私はそうした信仰には入り込んでいません。(浄土真宗の檀家ですけど)
そう言った、仏の世界との出会いがあったのですが、「何故仏像は彫られたのか?」なんていうことは全く思ってもいませんでした。親鸞研究もひと段落して、私の親鸞像(イメージ)も出来上がって、1年近くブランクができたような気もします。
15年くらい前、歳をとってから何の趣味もないのも寂しいと思って、木彫りを始めたのです。と言っても最初は仏像は彫っていませんでした。仏像を彫る力はないと思っていましたが、まぁ仏頭くらいという思いはありました。でも全身像を彫るなんて思いもしなかったのですが、大学時代に実家のある名古屋市中川区の荒子観音に行ったことがあり、その時に見た円空仏に衝撃を受けた記憶が頭に出てきました。「あれなら私でも彫れるかも」なんて生意気な思いで、頭の中にある記憶で最初の円空仏もどきを彫ったのが運の尽きです。木彫りを初めて3年目くらいかな荒子観音の円空仏を再度拝観し、その時に円空仏を彫る会=「木端の会」を見学しました。そして入会しようと決めたのですが、この時すでに前立腺癌の末期を宣告されていたし、見学直後に腰椎を骨折するというアクシデントで、入会を断念したのですが、我が家の近くの天白区で円空仏を彫る会があるのを知り、こちらに入会しました。
それから会で彫る、自宅で彫る、たくさん彫るようになったのです。そして円空仏を彫るようになって、いわゆる仏像、国宝や重要文化財と言われる仏像と円空仏の違いを見るようになり、何故作りに違いがあるのか?
そして、彫るようになって、数年して義弟が白血病に侵されて入院している時に、回復を祈りながら彫ったとこがきっかけで、仏像を像立するきっかけというものに目を向けるようになったのです。
このとき初めて、願いを込めて彫ったのです。仏様に願いをということではなく、ただただ私の思いを何かの形にしたかった。その対象が円空仏だったということなのです。
こうして、円空仏を彫ることから、寺周りをする時の仏像の見方が変わり、彫ることで私自身の心も変わっていていったようです。
まずは、親鸞が生まれたと言われているところから始まり、承元の法難で流された上越の親鸞上陸記念堂、長く住んだ関東の拠点、茨城県笠間市の稲田などなど、それに加えて浄土真宗十派の本山をほとんど見て回ったモノです。
その最初に訪れたのが親鸞誕生の地と言われいている京都市山科区日野の法界寺です。貧乏旅行なので名古屋からJRの快速を乗り継いで、JR山科から地下鉄で小野に行き、バスに乗り換えて近くの石田大山まで行き、そこから15分くらい歩いたかな?もう疲れ切ったところで、食事処にたどり着いて昼間し、その後に法界寺について、御住職に阿弥陀堂を開けていただいて、国宝の阿弥陀如来坐像の前に座り、あの丈六の大きい阿弥陀如来坐像を見上げて、思わず「来て良かった」と思ったものです。平等院の阿弥陀如来に似てはいるけど、それにくらべると法界寺のそれはかなり童顔で柔和なお顔でした。心からほっとしたのでしょう、「来て良かった」と思ったのは。その気持ちでマジマジと阿弥陀仏を見上げたものです。
法界寺にはそれから10数年、年に1回以上拝観に訪れています。
実は私が仏像をじっと見つめたというのは2度目です。最初は中学の遠足でいった奈良中宮寺の弥勒菩薩(いまは「菩薩半跏思惟像・伝 弥勒菩薩」と言われているようです)に出会ったとき、その像の前に座り込んでしまって、じ〜〜と見つけていたようです。遠足なので時間の関係で長くはできなかったのですが、見学時間の大半を座っていたようです。
惚れ込んだ仏さん、いや仏像に出会ったのですが、中宮寺でも法界寺でも全く仏像を彫ることになるなんてことは思ってもみなかったのです。
大学時代の古美術研究旅行の流れから、仏像は古美術として見ていたのです。仏像を古美術として見るのは、岡倉天心やフェノロサのおかげで、明治時代のはじめにあった廃仏毀釈のせいで、打ち捨てられていた仏像たち、あの有名な阿修羅像ですら腕が折れたりなどと、かなり悲惨な状態を、古文化、古美術として岡倉天心、フェノロサのお陰で仏像が復活し、信仰の対象から、美術品として見る機会を与えられました。私自身、その流れの中で仏像を見ていたわけです。
親鸞研究を始めて、仏教と言っても浄土真宗の裏側を見て、お経と言われるものの中身もある程度知って、その中で阿弥陀如来の存在と、阿弥陀如来の前身・法蔵菩薩の48願を知り、その考え方に興味を持ったのです。最終的には、浄土宗、浄土真宗で言われる「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽にいけるという考えを面白いなぁと思ったのです。
この”「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽にいける”というのが、”救い”という意味と言われているらしいのですが、私はそれを信じるということはありません。この点を書くとまた一冊の本を書くくらい書くことになるので割愛しますが、とにかく私はそうした信仰には入り込んでいません。(浄土真宗の檀家ですけど)
そう言った、仏の世界との出会いがあったのですが、「何故仏像は彫られたのか?」なんていうことは全く思ってもいませんでした。親鸞研究もひと段落して、私の親鸞像(イメージ)も出来上がって、1年近くブランクができたような気もします。
15年くらい前、歳をとってから何の趣味もないのも寂しいと思って、木彫りを始めたのです。と言っても最初は仏像は彫っていませんでした。仏像を彫る力はないと思っていましたが、まぁ仏頭くらいという思いはありました。でも全身像を彫るなんて思いもしなかったのですが、大学時代に実家のある名古屋市中川区の荒子観音に行ったことがあり、その時に見た円空仏に衝撃を受けた記憶が頭に出てきました。「あれなら私でも彫れるかも」なんて生意気な思いで、頭の中にある記憶で最初の円空仏もどきを彫ったのが運の尽きです。木彫りを初めて3年目くらいかな荒子観音の円空仏を再度拝観し、その時に円空仏を彫る会=「木端の会」を見学しました。そして入会しようと決めたのですが、この時すでに前立腺癌の末期を宣告されていたし、見学直後に腰椎を骨折するというアクシデントで、入会を断念したのですが、我が家の近くの天白区で円空仏を彫る会があるのを知り、こちらに入会しました。
それから会で彫る、自宅で彫る、たくさん彫るようになったのです。そして円空仏を彫るようになって、いわゆる仏像、国宝や重要文化財と言われる仏像と円空仏の違いを見るようになり、何故作りに違いがあるのか?
そして、彫るようになって、数年して義弟が白血病に侵されて入院している時に、回復を祈りながら彫ったとこがきっかけで、仏像を像立するきっかけというものに目を向けるようになったのです。
このとき初めて、願いを込めて彫ったのです。仏様に願いをということではなく、ただただ私の思いを何かの形にしたかった。その対象が円空仏だったということなのです。
こうして、円空仏を彫ることから、寺周りをする時の仏像の見方が変わり、彫ることで私自身の心も変わっていていったようです。
次回は
仏像を彫る なぜ? その3・官製の仏像の建立
********************
仏像は何故彫られたか
仏像を彫る なぜ?
その1・仏教との出会い
その2・親鸞研究を経て円空仏との出会い
その3・官製の仏像の建立
その4・民間の仏像の造像と円空仏
仏像を彫る なぜ? その3・官製の仏像の建立
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仏像は何故彫られたか
仏像を彫る なぜ?
その1・仏教との出会い
その2・親鸞研究を経て円空仏との出会い
その3・官製の仏像の建立
その4・民間の仏像の造像と円空仏